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『深紅は流れて、緋色に、沈む 』
弓槻・蒲公英1992

 ……かーさま。
 薄暗い、けれども澄んだ雰囲気の小さな部屋で、少女は――弓槻 蒲公英(ゆづき たんぽぽ)は、久々に母親の優しさにふんわりと包み込まれていた。
 胸元まで伸びる、艶やかな黒髪。雪のように肌。そうして、花のごとくに甘い香り。
 いつからこうして過ごしていたのであろうか、と、思い返す事すら、厭われる――その程度の時間ですら、何一つ零す事無く受け止めていたいと、無意識の内にそのような想いに駆られてしまう、そんな時間。
 少女の耳に、蒲公英、と名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
 名前を呼んだ女性は、水の流れを掬ぶかのように、少女の髪を手に取った。
 少し長すぎるんじゃあないかしら――
 微笑んで、甘やかな仕草で手を離す。
 少女はそのくすぐったさに、くすりと微笑み、母親の瞳を見上げていた。
 大好きな、かーさま。
 こうして見つめられているだけで、こんなにも心が落ち着いてしまう。泣きたくなるほどに、この時間を手放したくなくなってしまう。
 ……ねえ、かーさま。
 わたくし学校で、……うさぎさんの、お世話をしています――生まれたばかりで、とっても……小さくて。
 可愛くて。
 そんな他愛の無い話ですらも、母親は暖かな笑顔で、一言一言に頷きながら聴いてくれる。
 だから少女には、話したい事がまだまだ沢山あった。いつもは一緒にいられない分、少しでも話を聴いてほしい、話を聞かせてほしい――。
 だが、唐突に。
 何の前触れも無く響き渡った戸の開かれる音が、穏かな静寂の中に突如として突き刺さっていた。
 母親の視線と共に、蒲公英の視線も背後を振り返る。
「とー……さま……?」
 風にあおられ、窓にかかるカーテンが、空高く舞い上げられる。
 逆光が、視界を闇に曇らせる。赤い瞳を軽く擦りながら、少女は反射的に、一番この場にいてほしい人物の呼び名を口にしていた。
 ――かーさまと、とーさまと、……わたくし……も、
 いつか一緒に暮らせる日が来たのなら、と、何度となく、密やかにそう願ってきた日々がある。
 確かに、父親といる日々は幸せなものでもある。とーさまがいるとさびしくない――と、その言葉も、決して嘘ではない。
 しかし、
 わがまま……なのは……、
 わかっているつもりではあった。今日感じていられるだけの幸せでも、或いは、自分にとっては十分すぎるものであるかも知れないのだと、そう考えた事が無いわけではない。
 毎日は、
 わたくしには、
 不似合いなほど――それでも、幸せで。父親と一緒にいられる事が、こんなにも幸せで。
 幸せなのだけれど、でも、
「蒲公英……、」
 でも、……かーさま……、
 こうして母親からも、いつでも名前を呼んでほしい。こうしていつでも母親にも甘えている事ができたのなら――と、父親には内緒で、何度も考える事があった。
 或いはそれはいけない事であるのかも知れないが、――高望みで、あるのかも知れないが、蒲公英にとって母親とは、それほど大切な存在でもあった。
 わたくしは……とーさまも、……かーさまも。
 大好きだから。
「とーさま……、」
 それでも、おかえりなさい、と。
 様々な想いに駆られながらも、少女の表情は、自然のままに、綻びかけて。
「蒲公英――!」
 蒲公英が、母親の声音の異変に気がついたのは、視線の先で影がゆらりと揺らめいた、その瞬間の事であった。
 ……ちが、
 とーさまじゃあ……、
「逃げなさい、蒲公英――!」
 ない――?
 思った、その瞬間。


 ――蒲公英は、目を、覚ましていた。
 否、或いは、目覚めたわけでは、なかったのかも知れない。だが、気がつけば蒲公英は、いつもの家の台所に、制服姿で立ち竦んでいた。
「……とー……、」
 さま?
 太陽の光が、高く窓から差し込んで来る。この時間であれば、父親がこの場所にいるはずは、
 ……ない?
 思い返して、首を振る。そういえば自分は、どうしてこのようなところでぼっとしていたというのであろうか。しかも、立ち竦んだそのままで――このような時間に。
 ……こんな……時間に?
 時計を、見上げる。本来ならば自分は学校にいるはずの時間なのだと、それにはすぐに気が付いた。
 どうして……?
 突然、色々な事がわからなくなる。そういえば自分は、今まで何をしていたのか。どうしてここにいるのか。……そもそもここで、何をしていたのか、
 ――わたくしは……、
 いつからここにいたのか。
 だが唐突に、そんな蒲公英の思考を、外から連続して聞えて来た乾いた音が、遮り過ぎて行った。
 はっとして、蒲公英は注意深く、感覚を研ぎ澄ます。
 なぜだか妙に、不安を誘う音であった。
 ……何、
 無意識の内に、走り出す。そうして、
 ――硝子戸を、蒲公英にしては珍しく乱暴に開け放ち、少女はそのまま、沈黙の境地に追いやられていた。
 直感的に駆け込んだベランダで、全ては文字通り死に絶えていた。いつもここに来る鳥も、咲き乱れていたはずの花々も、何もかもが息吹を失っていた。
 ……うそ……。
 言い様の無い、違和感に襲われる。
 望みをかけて、蒲公英は背伸びしてベランダから街を見下ろした。
 ――しかしそこにあったのは、冗談のような沈黙と、
 ……あ――!
 いつも道端で出会う、野良猫の倒れている姿。地面に広がる赤色は、ここからでもはっきりと良く見える。
 蒲公英は恐怖のあまりにベランダに腰を落とし、ただただ後ろに後退っていた。
 硝子戸に、背中がぶつかる。
 途端家の中から、音が聞えてきた。
 どさり……と何かの、倒れる音が。
「……いや――……!」
 この上無い不安感に襲われながらも、蒲公英はそれでも、勇気を込めて後ろを振り返った。
 その瞬間、何もかもを後悔する。
「と――……!」
 血の海に倒れ伏す、父親の姿。いつの間に父親は家にいたのか、誰がこのような事をしたのか、全ては蒲公英にはわからなかったが、だがその事実だけは、蒲公英の意識を束縛して放そうとはしなかった。
 震える足で、何度も転びながら、父親の傍へと駆け寄り行く。
 とーさま……とーさま、
「とーさま……!」
 倒れ込むかのようにして傍に跪き、制服が血の色に染まる事も気にせずに、ひたすら父親の体を何度も揺すり動かす。
 しかし、呼べど叫べど、父親は蒲公英にあの瞳を向けてはくれなかった。……太陽のような暖かな光を、蒲公英には向けてくれなかった。
 とーさま……、とーさま……――!
 誰も、この異変には気が付かない。今や世界からは、蒲公英のことを気にかけるものは、何もかもが消え去ってしまっていた。
 ――やがて。
 同じ行為を繰り返していた蒲公英の、父親を呼ぶ声が、ふっつりと途絶えて叫ばなくなった頃。
 そこには泣き声の代わりに、くすり、と、くすくす、と響き渡る、小さな笑い声があった。
 もはや涙の滲まなくなった瞳におぼろげな色を映し込みながら、声音の主が――蒲公英がやおら、立ち上がる。
 そうして、いつもは父親と二人で料理を囲むテーブルの上に何かを見つけ、水の中から掬び出すかのように、迷う事無く手を伸ばした。
 ……そのまま何も、思う事無く。
 微笑んで、甘やかな仕草で手をかける。
 冷ややかな感触が、蒲公英の小さな手にきゅっと握り締められていた。
 銃。
 いつの間にか、当たり前のように、そこにあった物。
 使った事はおろか、触れた事すら、見た事すらあるはずもないというのにも関わらず、なぜだか蒲公英は、その引金の引き方を、良く知っているような気がしてならなかった。
 少女の心の箍が、音をたてて地に堕ちてゆく。
 間も無く、くすり、と笑う蒲公英の姿は、銃と共に、どこかへと消えて行った。

 何も、考える事はできなかった。自分が何をしようとしているのかも、そのような事すら全くわからない。
 ふらり、と街へ歩き出した蒲公英は、歩いてすぐの所で、とある光景に鉢合わせしていた。
 たすけて!
 音調の高い声音が響き渡り、その瞬間、何気無く巡らされていた蒲公英の視線が、その音の源の方をしっかりと捉える。
 逃げられると――思ってるのか……!
 視線の先で、図太い男の声音が、下品な笑い声をあげている。
 そこにあったのは、カッターナイフを手に握る、スーツ姿の男の影であった。蒲公英が歩むにつれて視界の角度が変わり、やがてもう一人の姿も見えてくる。
 ――小さな、少女。
 そこにもう一つあったのは、純白のワンピースを身に纏った、幼い少女の姿であった。
 少女は蒲公英の姿を見つけるなり、必死な瞳で訴えて叫び声をあげる。
 たすけて、たすけて……おねーちゃん、たすけてよっ!
「おねーちゃん……!」
 自分とは全く面識の無いはずの蒲公英に、それでも少女は、形振り構わず繰り返し懇願を続けていた。
 間も無くその異変に気が付いてか、少女を塀際に追い込んでいた男が、蒲公英の方を振り返る。
「嬢ちゃん――、」
 いやらしい、笑み。
 だが蒲公英は、何も思う事無く、腰元に下ろした手に力を込める。やおらくすりと、笑い声を洩らした。
 それを合図にしたかのように、途端、男の足が地を蹴り、
 衝撃が、蒲公英の小さな体を震わせる。
「っ……!」
 ――深紅が、世界に閃いた。
 耐え切れずよろめいた蒲公英に、けれども、でたらめに打ち込まれたはずの弾丸だけは、適確に男の胸を打ち抜いていた。
 まるで無機質なモノであるかのように、男の巨体が地面に倒れ込む。そこから湧き出た深紅の泉が、沈み始めた陽光をきららに輝かせていた。
 くすり、くすくす俯き笑い、蒲公英は手にしている銃へと視線を投げかける。冷たい感触、大きさに似合わぬ重み、全てが全て、この世界に似つかわしくてならないと、そのような気がしてならなかった。
 風が、吹く。
 途端、風に遊ばれていた蒲公英の髪の黒髪が、長く強引に引き千切られていった。
 近すぎた衝撃に、蒲公英の意識が一瞬遠退きそうになる。しかしそれでも何とか持ち直し、そこにいるはずの少女の存在を思い出したかのように、蒲公英はゆるりと顔を上げていた――流れ弾に中った鳩の鳴き声も、気には留めないそのままで。
「こな……、」
 蒲公英の見下ろすその先で、先ほどの少女が銃を構え、震える手で蒲公英の眉間に狙いを向けている。
「……あ……っ――……!」
 緋色の視線で真っ直ぐ見据えられ、少女はそれ以上後退る事もできずに、右手に銃を握り、左手では背後に立ちはだかる壁を弄っていた。
 滲む涙に揺らめく少女の視界の中で、蒲公英は何も言わず、引きちぎられた髪の一房があった場所へと、細い指先を這わせている。
 蒲公英が少女へと影を近づけたのは、もう間も無くの事であった。
「や――……、」
 だめ……――!
 少女の体に、小柄な蒲公英の影が覆いかぶさる。
 くすくすと笑い、立ち止まった蒲公英は、何の迷いも無く少女の胸へと照準を定めていた。
 ころされる――……。
 思った頭で必死に指先に命じ、少女はもう一度引金を引いていた。
 そうして、轟音。
 感度の良い音が風に逆らい、空気の中を走り抜けていった。
 間も無く深紅が、緋色が、単調な世界に、強い印象をばら撒いてゆく。
「ぁ……、」
 跳ね上がった体に、力無く零れ落ちる呻き声。そこに、くすくす……、と重なる、笑い声があった。
 銃を撃った少女は――蒲公英は、小声で笑ったそのままで、無感動にその様子を眺めていた。
 あの瞬間、少女の銃から流れ落ちたのは、先ほどまでとは音色を大きく違えた、猛威に欠けた弾切れの音であった。
 蒲公英が弾丸を撃ち込んだ所から、少女のワンピースの純白が、彼女自身の緋色へと染め替えられてゆく。
 ――それでも蒲公英は、長くその光景に見入る事も無く。
 死んだ少女の手から銃が滑り落ちた瞬間に踵を返し、鉄の香りが強まる世界へと、足を向けていた。

 それからも、何もかもは変わる事がなかった。
 蒲公英が笑う度、誰かがアスファルトの上に伏してゆく。空が赤味を増せば増すほど、蒲公英の見つめる世界にも、深紅と緋色と、鉄の香りとが比率を増していった。
 ――自分が幾度引金を引いたのか、蒲公英は全く覚えていなかった。ただ一つ感じられるのは、今手にしている銃が、あの時の物とは違うという事のみで。
 くすり、と笑い、蒲公英はまた、今手にしている銃を地面へと放り投げる。そうしてやおら身を屈めると、たった今撃ち殺したばかりの女の手から、甘い力で新たな銃を抜き取った。
 死者の沈黙に、墓標のように長く街の影が伸びる。
 いつの間にか、世界は黄昏色の中に沈みこんでいた。
 誰もいない街。
 鎮魂歌を捧げる者もいない、ただただ風の静やかな、夕暮れの街――鳥達の鳴き声も無く、植物すらも色褪せて見える街。
 ひとりぽっちの世界で、蒲公英はすっくと立ち上がる。緋色の川の、泉の、海の上を、何を求めるわけでもなく、ただひたすらに歩み行く。
 誰もいない――ここには、誰も。
 とりわけてこの道は、この時間になると、人の気配に乏しくなってしまう。無意識の内に、そんな場所に迷い込みながら、
 ……そう……いえば、
 そこで初めて、蒲公英の意識がゆるりと動き出す。
 見た事のある、場所であった。それも何度も、きっと何度も、見た事のある場所。
 不意に、蒲公英の小さな足が、立ち止まる。
 あまりにも穏かな風が、道を駆け上るかのように吹き抜けていった。
 ――のろまな蒲公英! まーだこんなトコロを歩いてやーんの!
 気が付けば蒲公英は、あまりにも遠く、あまりにも近すぎる場所を見つめていた。視線の少し先に、否、今自分が立っているのと全く同じ場所に、自分と全く同じ姿をした、赤いランドセルを背負った少女が立っている。
 その耳の傍で、突如聞き覚えのあるような声音が騒ぎ立てていた。少女の意識が、ふ、と、路傍に密やかに咲いていた小さな花から、自分の方へと引き戻される。
 しかし、
 今日はカメだ! おまえにピッタリな柄だっ!
 あ……と思った瞬間には、少女の制服のスカートは、真っ赤なランドセルに届くほどまで高く翻っていた。慌てて押さえて、ゆっくりと顔を上げる。
 そこにあるのは、先ほどまでは目の前にいなかったはずの、あの少年の姿であった。風のように疾く後ろから追いついて来た、いつものあの少年の。
 少女は恥ずかしさに、唇を強く結ぶ。それでも涙は零す事無く、こちらを見ている少年と、真正面から向かい合った。
「……あ――……、」
 向かい合う。
 ただ、それだけであった。
 そこで時間が、ふっつりと途絶えて融けてゆく。少女は消え去り、けれども少年の姿だけが、目の前の現実に取り残されていた。
 蒲公英の見つめる世界で、夕暮れの色が、深くなる。――その中で、一人の少年が、こちらに何かを向けている。
「健――、」
 ふ――と、呟きかけて、はっとする。
 自分は今、誰の名を呼ぼうとしていたというのだろうか。
 或いは、目の前の少年の名前であったのか、或いは、
 考えたところで。
 くすり、と、蒲公英は、再び小さな笑い声を零し落としていた。
 もう一つの予測が、強い説得力を持って少女の中に閃き踊る。
 ――そう……じゃない。
 そもそも、呟きかけた言葉は、名前などではなかったというのだろうか。
 知らない、と。
 だから蒲公英は、心の中で結論を強引に選び取っていた。
 全く知らない。
 知らない、しらない……そんな事は、何も。
 わたくしは、何も、
 知るはずが、ないのだ。――目の前で自分に銃口を向けている他人についてなど、何も、何一つに関しても。
 銃を、構える。
 少年と同じようにして、蒲公英もまた、依然として冷たい感触のままの銃を真っ直ぐに構えていた。
 今までと、何ら変わりは無い。感情を失った瞳で、狙いを見据える。
 ただ。
「さようなら……――」
 くすり、くすくす笑うその内に、言葉にはならない言葉を呟き落としていた。形にならない、誰にも気のつかれない言葉だけを残し、蒲公英の細い指先が、重い引金に絡まりつく。
 ――そうして轟音は、二重になって響き渡った。
 蒲公英と、少年と。
 二つの影は同時に、大地の上へと倒れ伏す――学校へと続く、いつもの道の上に。


 ……のろまな蒲公英! 今度はこんなトコロで、まよってやーんの! おまえのとーさんもかーさんも、……そっちには、いないだろ!
 そんな声音を、聞いたような気がした。聞いたような気がして――そこで、目を醒ます。
 目を、醒ました。
 もう一度目を醒ましたその時、蒲公英はネグリジェ姿で、自分のベッドの上に伏していた。肩まで掛かる布団が、妙に重たく感じられる。
 夢を、見ていた。
 夢の内容は、良くは覚えていなかった。ただなぜか、聞えてくる小鳥達の鳴き声に、今度こそこの場所こそが現実であるのだと、強く確信を抱きたいような心地に襲われていた。
 ……どうして――?
 良くは、わからない。ただ一ついえるのは、自分がずっと、夢を見ていたであろうという事のみであった。
 混濁する意識の中、無理やり記憶を整理しながら、何気無く蒲公英は、伏していた枕から顔を上げた。途端、ベッドの上に付いた手に、シーツよりも固い感触が感じられる。
 そういえば……、
 ふ、と、思い返す。
 どうやら自分は、担任の先生から届けられたクラスメートの書いた見舞いの手紙を読んでいるうちに、うとうとと眠ってしまっていたらしい。風邪で寝込んでしまった蒲公英のために、わざわざ担任が時間を取ってクラスメートに書かせたのであろう、沢山の手紙を読んでいるそのうちに。
 蒲公英は枕の傍に散らばっていた色紙を、一枚一枚、丁寧に集めてゆく。
 赤、青、緑、紫、白、それから――、
 きいろ。
 蒲公英の色。
 その色がふと、やけに目に付いた。元々一枚一枚を大切に眺めながらの作業ではあったが、蒲公英の手は、その紙を手にしたままでふっつりと片付ける事をやめていた。
 ……あ、
 ――はやく元気になれよ!
 そこに書かれていたのは、たったの一言のみであった。色鉛筆も使わずに、ただ鉛筆で乱暴に書き殴られた、たったの一言。
 何度も何度も消しごむに擦り付けられ、黄色の画用紙は毛羽立ち、色褪せた様相を見せていた。差出人は予想通り、
 あの人――……。
 何かと学校に行く度に、一番蒲公英に係わりを持とうとする、あの少年。その係わり方には、確かに嫌に感じる点も、無いわけではないのだけれど。
 ……でも、
 なぜだか素直に、安堵させられてしまう。原因は良くはわからなかったが、ありがとう、と一言、そう呟きたくなってしまう。
 ただ。
 安堵と共に、なぜだか突然、強い恐怖感に襲われるのも感じていた。誰もこの世界にはいないのではないか――、と、何の脈略も無いはずであるというのにも関わらず、そのような不安感に駆られてしまう。
 蒲公英は、ゆっくりと身を起こす。
 部屋越しに、甘い香りが漂ってくる。それこそが今、大好きな父親が、――そうしてきっと母親が、あの人が、この世界にしっかりと生きているであろう証拠でもあった。
 それでも、
「とー……さま……――?」
 ……とーさま……そこに、……いる――……?
 それだけでは消えないほどの恐怖に、蒲公英は小さな唇をきゅっと強く結ぶ。
 ――おいそがしい、とーさま。きっとわたくしのために……わざわざ、帰ってきてくださった、とーさま。
 料理の邪魔をしてはいけないと、そのような事は良くわかっていた。しかし、涙だけは堪えながら、覗くくらいなら――とそのような事を考える。
 ただ一瞬、後姿を見るだけでも良い。ほんの少し、
 ……ほんの少し、……とーさまの……おすがたを見たら、
 ベッドに、戻れば良い。そうすればきっと、父親は甘いお菓子を持って、自分の所に来てくれる。――よう寝てなあかんで? と、くしゃりと頭を撫でてくれる。
 だから、と。
 くらり、と覚えた目眩も気にせずに、蒲公英は床の上に降り立った。ベッドの上から大きめのぬいぐるみを一つ抱え上げると、胸の前に抱きしめ、台所へと歩き出す。
 ――とーさま、
 祈りにも似た想いが、夢の終わりの一言となった。


Finis


11 agosto 2004
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki
PCシチュエーションノベル(シングル) -
海月 里奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年08月11日

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