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『夢を信じて生きるべきなのだ 』
上社・房八2587)&本郷・源(1108)

 言葉というものは魔物である。
 たった一言で、人の心をどん底に叩き落すことができる。
 信じるもの、愛するものからの思いもかけない言葉は尚更に。勿論浮上させることもできるのだが。
 ほら、ここにも‥言葉の魔物に心を打ちぬかれ、失意のズントコ、では無くドンゾコに落ち込み彷徨いう者 一人‥。

 自分が、どう歩いて、どうやってここに来たのか解らない。
 いや、自分がどうしてここにいるかも解らない。
 だが、薄暗くなりかけた道の先に小さな明かりが見える。
 馴染みの、暖かい光。揺れる暖簾。
 光に誘われるように‥彼はその暖簾を潜った。
 おでん屋台【蛸忠】に‥

『お父さん、くさい‥』
『お父さん、近寄らないで』
『お父さんなんて嫌いよ』
『お父さんなんて‥』

「グワ〜〜〜ッ! 止めてくれ〜。何故だ〜。こんなに愛しているのに〜〜〜!」
 その人物は、突如雄たけびを上げた。立ち上がった足が椅子を蹴飛ばしガタンと音を立てる。
 さっきまで屋台にふらふらと入ってきて‥(注文もせずに!)カウンターに突っ伏していたと思ったのに‥。
 周囲の客も、店員も目を瞬かせた。とは言っても店には今は客も一人、そして店員も店主本郷・源、唯一人ではあるのだが‥。
「ほお、少しは芸風が変わったか」
 彼、上社・房八はその言葉にハッと我に返った。
「‥‥源さん? 嬉璃さんも‥。あ‥また‥やってしまったんですね‥。すみません」
 源は苦笑しながらも、まあまあ、と肩を叩き房八を座らせた。せっかく人気の少ない夏の貴重な客である。商売人として逃がすわけにはいかない。
「ご注文は?」
「‥あ、お酒、お願いします‥」
 流石の夏、おでんはやはり売れぬか‥。小さくため息をついて源は小皿の上にコップを置くと、冷酒を注いだ。初心者なら溢れている、と表現するものもいるが、これは屋台流のサービス。当然半常連の房八はそんなことを言うはずも無くそれを手に取った。
 小皿を杯のように持って、一気に呷ると、コップを握り、はあ、と深いため息をつく。
「やれやれ、いつもながら暑苦しい男よの」
「嬉璃殿‥」
 いつもながら、情け容赦の欠片も無い嬉璃の言葉に源は目配せするが、そんなものを気にする嬉璃ではない。
 で、当の房八は、と言えば自分の腕、服、肩等などに鼻を付けて‥、はあ、とまたため息をついた。
 当社比2倍ほど大きくなった房八のため息に、今度は嬉璃が源に目配せする。
 人はため息というものを、多くの場合ある目的を持って発する。つまりは‥聞いて欲しいのだ。どうしたのですか?と。
 「どうしたのじゃ? 房八殿、こんな時間から‥。娘御が待っておるのではないか?」
「娘‥」
 何度も鸚鵡のように彼は口の中で繰り返した。そして‥
「うん?」
 妙なデジャヴを感じながらも源は、問いた瞬間ギョッとしておでん鍋に手を付きそうになる。何故なら暑苦しさ全開の男がえんえんと泣き出したからだ。
「またか‥」
 呆れたように横で冷酒を啜る嬉璃の呟きは、どうやら泣き声にかき消されたようだ。ちなみに彼が涙ながらに語った話はこうである。

「ただいま〜、今日も暑いですねえ。あ〜疲れた」
 そんな言葉を口にしながら、房八は靴を脱いだ。今日は、どうやら先に娘が帰っているらしい。
 夏休みで遊びに行くと言っていたが門限は守ったようだ。なんていい子なのだろう。おまけに見よ。今時の子供に出来ることではない。
 綺麗に揃えられた靴に、我が子への指導の確かさを感じながら彼は台所に向かった。
 連日真夏日で無い日など無いくらいの酷暑の日々。冷房の効いた店で仕事をしていたとしてもやはり暑さは堪える。
 冷蔵庫から冷たい麦茶を出し、コップに注いだ。
 リビングからはテレビアニメの主題歌が流れてくる。愛しの娘はテレビを見ているのか?ここは一つ、親子の語らいでも‥。
 そう思い、もう一つコップに麦茶を注いだ彼は、リビングに向かった。
(「今日も暑かったな? 宿題は終わったかい? 良ければ見てあげようか? よし! 完璧!!」)
 何度も心の中で練習し、理想的なお父さんの笑顔と一緒に発するつもりだった言葉。
 だが、その言葉が口から出ることは無かったし、麦茶を口にすることもできなかった。麦茶は床に流れ、雑巾に吸い込まれた。何故なら‥言葉の魔物が娘の口を支配したからだった。
 そうだ、魔物だ。娘があんなことを‥言うはずが無い!
 何故なら娘が‥

「娘が‥娘が‥私のことを‥」
 ふう、ため息一つ。これ見よがしな聞かせるためのため息を吐き出して嬉璃が酒をテーブルに置いた。
「おんしはいつもながら要点を纏める能力に欠けておる。それでは娘の勉強をみてやるなどできぬぞ」
「そんな‥小学生の勉強くらい、私にだって‥」
 厳しい言葉になんとか反論を、と思った房八だが、意外にも意外な抗議が意外な場所からかかった。
「なに? 小学生を舐めてもらっては困る。今時の小学生の宿題はのお、30年前とは違うのじゃ!」
「「源‥」さん?」
「いまの、きょういくよーりょうは毎年のように変わり、ほーていしきや、えんしゅうりつの計算方法ですら正確に教えてはもらえぬのじゃ。漢字のにんしきのうりょくがパソコンのえいきょうで‥」
「‥随分と熱く語るのお‥、そうか‥忘れておったが源は小学生ぢゃったか‥」
「私も‥忘れるところでした」
 忘れ去られていた現役小学生の堰を切ったような本音トークに顔を見合わせた二人は、ハタとさらに忘れていた事を思い出す。
「で‥なんじゃ? なんと言われた?」
 ぐすり。房八の目元にまた涙が溜まる。
「私のこと‥私のこと‥娘がくさいって言ったんです〜〜〜」
 おんおんおん、ひいひいひい、ぐじぐじぐじ‥言うなり突っ伏してできたカウンターの上の湖に屋台の電球が浮かんでいた。

 どのくらい待ったのか‥ようやく泣き止んだ房八をいい加減うっとうしくなったのか慰めるように嬉璃が優しげに声をかける。
「だがのお、それは仕方あるまい? 実際おんしは臭いのだし‥」
 優しく言っていても容赦ない嬉璃の言葉に房八は、あ、やっぱりという顔をする。自分ではあまり気が付かないが心当たりは‥ある。
「だって、仕方がないじゃありませんか? 私はタバコとはあんまり縁はありませんから、そんな匂いはしませんけど、お客さまにはデオドラントや、香水を付けていらっしゃる方もいます。それに‥臭われる方の髪も洗わなくてはいけないし、パーマ剤やカラー剤、ポマードの匂いだってキツイんですよ。でも‥でも‥」
 やっとの事で泣き止んだ房八は、また鼻を啜った。そして‥はあ。
 この仕事をしている以上、どうしようもないことで娘に嫌われるなんて‥、何度目かのため息がまた口から吐き出された。
「昔は良かったなあ‥。おかあさんよりも、おとうさんと一緒にお風呂に入るんだ、なんて言ってたの‥」
「男親は、皆そう思うらしいのお。娘との風呂が一番の幸せぢゃと‥ま、帰ったらすぐに風呂にでも入るがよかろう」
「そうそう、臭いなんぞ、すぐに落ちるしな。房八殿。『お父さんの後にお風呂に入りたくない』などと言われたら末期じゃぞ」
「あ‥そっか。それで済むことですよね。そういうことはまだ言われたことが無いです。そうですね。まだ、大丈夫ですよね」
(「まだ、であって、これから大丈夫かどうかは、解らないがのお」)
 思ったが、口に出さない商売人は、うんうん、と頷くといつの間にか減っていた嬉璃と房八のグラスにまた並々酒を注ぐ。
 ちょっと心が明るくなった房八はくいっ! とまたグラスを開けた。少し気分も大きくなる。
「ようし! 嬉璃さん、源さん、今日はとことん行きましょう! 私が‥奢ります!」
「まいど! なのじゃ。酒のつまみはなんと言ってもおでんでな!」
「ほお、奢りか‥後悔するでないぞ」
 こうして彼らは酒を交わす。おでんを盛り、酒を注ぎ、夏の売り上げ低下を取り戻すべく働く源。
 おごり酒をじっくり楽しむ嬉璃に、時折、聞いているほうが恥ずかしくなるような雄たけびをあげながら酒を呷る房八。
 気温30℃を超える真夏日の夜。
 そこだけは40℃を超える熱気に包まれながらも、彼らの脳はドーパミンとエンドルフィンを垂れ流し周囲から騒音公害で訴えられるまで賑やかに騒ぎ続けていた‥。

 随分飲んだがまだ、意識を手放さないうちに彼は家路に着いた。
 時は9時過ぎ。娘もまだ起きているはずである。
 なんとしてでも風呂に入って、臭いを消して、娘と仲直りせねば‥。
 重い決心で、重い玄関の扉を潜り抜けた。リビングからはもう音はしない。
 浴室に直行しようとした廊下で‥娘と鉢合わせる。手にはパジャマを抱え‥どうやら入浴前だったらしい。
「あ、ただいま‥」
 娘に風呂を譲ろうと振り返りかけた房八より先に、娘が口を開いた。
「お父さん、本っ当にくさい!」
 ガーン!! 脳天を100tハンマーで叩かれたような衝撃が走る。
(「そう言えば、汗と、酒の臭い‥。今度は本当に親父くさいかも‥」)
 失意のズンドコに突き落とされた房八に、だが希望の光が差した。
「早くお風呂はいるなら入ってよ。臭いから‥」
 それだけ言うと、娘は背を向け部屋へと戻っていく。
(「『お父さんの後にお風呂に入りたくない』などと言われたら末期じゃぞ、ってうちはまだまだ大丈夫ですね!」)
 言葉の魔物は房八をズンドコからあっさり引き上げた。
 立ち直り、スキップ気分で着替えを用意すると、身体を洗い、髪をゆすいだ。
 なんと言っても清潔面においては彼はプロである。風呂に身体を沈め、匂いを嗅いでみる。大丈夫。臭いも汚れももう完璧に落ちたはずだ。
(「もう臭いなんては言われないはず。ああ、変なことで悩むんじゃなかった♪」)
 風呂場から出た彼は、台所に向かい、麦茶を取り出した。
 安らかな気分でリビングに寝転び、テレビをつける。
 
 お笑い芸人の大声にかき消されて彼は気付かない。
 部屋から出てきた娘が、お風呂の湯を落とし入れなおしている事を‥。
 すでに‥末期症状。

「あれ? 最近水道料が妙に上がっていますね」
 
 これを昔の人はこう言った。
 知らぬが仏‥。
 
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2004年08月02日

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