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『Wonderful world 』
尾神・七重2557


 目を閉じる。

 浮かぶのは、どこまでも続く青い空と大きな白い雲。
 そしてその下に広がる果ての見えない緑の海。



 蝉の鳴き声が景気良い大合唱を響かせている。その声が夏の陽射しをさらに暑くさせているように感じられて、七重はふと窓の外に視線を向けた。
窓の外に広がるのは大きな入道雲。真っ青な青を背景に湧きあがる白い雲を遠目に見やり、七重は退屈そうに目を細くさせた。

 夏休みが始まってから数日が過ぎたある日。休みなのにも関わらず、七重はいつも通りに制服を着て教室の中にいる。
とはいえ教室の中にいる生徒の姿はまばらで、皆決められた席ではなく思い思いの机についている。
七重はといえば窓寄りの一番後ろの席に座り、やる気なさげに授業をしている教師の声に耳を貸そうともせずに、ただこうして外の景色を眺めている。
元々七重にとっては受けるまでもない授業内容だ。片手間に聞き流している時に質問されても、咄嗟に答えられるだけの自信も実力も備えているのだから。
それならなぜ今彼がこうして補習授業を受けているのかというと、原因は出席日数の不足に他ならない。

 尾神の家はこの世のものならざる存在に応対する異能を備えた家系だ。
必要とあれば、時には時間を割いて常ならぬ存在に立ち向かうこともしなくてはならない。そしてそれは七重にも必要とされる勤め。
どれほどに出席日数なんかを計算していたとしても、そういった突発的な事態までは計算することが出来ない。
ゆえにこうして補習にも顔を出さなくてはならない。……なんとも不条理な理由ではあるが、こればかりはどうしようもない。
これが今までの自分であったならば、もしかしたら疎ましく思っていたかもしれない。――尾神に生まれついた自分の業を。

 だけど。
 だけど、今は。そしてこれからは


 
 夏の始めに、七重はとある森へと足を運んだ。そこには知人と呼ぶにはまだそれほどに親しくない人達がいて、不思議なほどに両手を広げて七重を迎え入れてくれる。
 その彼らが七重にくれたものがある。
一粒の花の種。
――七重の心を映した花が開くのだというその種を、彼は先日小さな鉢に植えた。
そして大事に大事に水をやり、時には人目を気にしつつ話しかけたりもしている。


――――だって、出来たら明るい色の花を咲かせたいじゃないか。……ねえ。そう思わないか?


 窓の外に向けた視線を持ち上げ、自分の顔のすぐ横を見やる。
そこには氷色をした小さな魚がいて、七重の問いかけに応じるように小さな尾ひれを閃かせていた。
不思議な卵から生まれた不思議な魚。七重の大事な友達だ。

 魚があげた飛沫に、反射的に目を閉じる。
太陽が放つ光が魚の鱗に反射して煌き、それとともに蝉の喧騒がほんの一瞬鎮まりかえった。


 黒板を滑るチョークの音を耳にして、七重はふいに教室の中へと目を向けなおした。
 まばらに座る生徒達はどれも皆だるそうに眉根を寄せたり、あるいは近くにいる友人同士でこっそりと会話したりしている。
対する教師も暑さにだらけているのか、集中力のない生徒達を叱り飛ばそうともしていない。
 教室の中を眺めた後に再び外に目を向ける。

 目が覚めるような青い空。湧きあがる真白な入道雲。
校庭に植樹された木々を揺らして過ぎていく風は、あの森のものとは違うかもしれないけれど。
――いや。もしもあの森がこの世界と同じ大地の上にあるのだとしたら、今こうして自分の髪を揺らして吹いている風はあの森をも抜けてきているかもしれない。
そうでなくても、風はきっとあの森をも抜けてきているかもしれないじゃないか。

 そう思い立ち、ふと目を閉じてみる。

 目を閉じるという行為も、今まではあまり好きではなかった。
閉ざした瞼の向こう側に広がるのは、いつだって終わりの見えない暗闇ばかりだったから。
だけど今こうして目を閉じてみれば、そこに浮かんでいるのは暗闇などではなく、一面広がる緑の海だ。

 小さな声で会話している生徒達の声が、さわさわと吹く風の声に重なる。
さわさわと流れていく風が七重の髪を撫でて過ぎていく。
その感触の心地よさに思わず小さな笑みをこぼしてしまった彼の名を、教師がヒステリックに呼んだ。
教師はチョークで黒板をこつこつと叩きながら例題を一つ書きなぐる。
それは七重の学年で配られている教科書には決して載らないような、かなり難しいものだ。
小さな喧騒に包まれていた教室が一瞬で静まりかえる。
暑さと気だるさに苛立った教師の嫌がらせ。
しかし七重は難なくその答を黒板に書き示し、赤い瞳には表情一つ浮かべずに小さく頭をさげて席に戻った。

 口惜しそうに表情を歪める教師と、再び小さな喧騒に包まれ出した教室。
生徒達の会話から察するに、どうやら生徒達の中では評判の悪い教師だったらしい。
故意にしたわけではないが、結果的に教師の上をいく行動をした七重に、生徒達が嬉々とした視線を投げかけてくる。
七重は彼らに対しても小さく頭を下げてみせると、気を取り直して小さなため息を一つついた。

 壁にかけられた時計の針は、授業時間の終わりが近いことを告げている。
それを確認してから再び遠くの空へと目を向ける。広がっているのはやはり澄み渡る青い空。
その空を泳ぐように、小さな魚が飛沫をあげて尾ひれを翻した。
暑気を打ち払うように跳ねる魚の姿に目を細めた七重の髪を、風が再び撫でていく。

 瞼を閉じる。そこに広がるのは果てのない闇であったり、果てのない草原だったりする。

 自分が生まれついた血はどう足掻いても拭い去ることの出来ないものだし、どれほどに嫌悪しても解決することの出来ないものだ。
闇は相変わらず彼を飲みこもうとして手を広げているし、彼自身もまだ暗く沈む泥から逃れ得たとは思ってはない。

 だけど
 だけど、ほんの少しだけでも。
 ほんの少しだけでも前を見据えて歩いていこうと思うから。


――――だって、ご覧よ。空はこんなにも明るく照っているのだから。

 
 授業の終わりを告げる音がスピーカーから鳴り響き、僅かに顔を紅潮させた教師は逃げるように教室を後にしていった。
生徒達の何人かが七重の行動を褒め称えてきたが、七重は笑みを浮かべることもなく、ただ小さく頭をさげた。
そうして帰り支度を整えて席を立った七重のすぐ傍で、氷色をした魚が気持ち良さげに飛沫をあげるのを見やり、ふと目を細ませる。

 まだまだ上手に微笑むことも出来ないし、級友と呼べる存在を作るまでには至らない。
それでもゆっくりと変わっていこうと、彼は思う。

「暑いね……。途中で何か冷たいものでも買っていこう。……そして鉢に水もあげなくちゃね」
 小さな声でそう言うと、魚がまるで頷いているように尾を翻した。


 空は青い。雲は真白で大きく、緩やかに流れていく。

 足元にはまだ少しだけ泥が残っているから、七重が隙を見せれば泥はたちまち彼を飲みこんでいくだろう。
だけどそう遠くない場所では彼を大きく迎えてくれる緑の海が波打っている。
ゆっくり、ゆっくり。あの雲のような緩やかさでいいから、ゆっくりと歩いていこう。


 七重の心を映して開くという花の種。
それを植えた鉢の中では、小さな小さな芽が顔を覗かせている。



――了―― 

PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年07月30日

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