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『呼ぶ声遠く、過去は海底に眠る 』
有佐・ユウシ3268

 たとえは海底 過去は停滞
 流れる時間だけが無慈悲
 ―――全能の神など信じてはいない
 
 室内の空気を扇風機だけがかき回している。エアコンはない。そんなものを買うことができるなら、と思って視線を向けた先にはあいつの姿。この暑苦しい季節にも、あいつは自身にしっくりと馴染むスーツを着こなして何をするでもなく有佐ユウシの部屋に居座っていた。
 いつもと変わらぬ光景。
 何一つとして変わらない。
 変わるのは季節と、刹那刹那に過去へと流れていく時間だけだ。
 生温い風をかき回すだけの扇風機に痺れをきらしたのか、それともいつものような気まぐれなのかあいつは不意に舌打ちをすると、すっと立ち上がる。バイトで疲れきり、暑さを感じることもなくなっていたユウシはそれをぼんやりと眺め、今度は何をする気なのだろうかと疲労した頭で思った。
 ねっとりとした熱の停滞する部屋。アスファルトに包まれた都市は夜になっても冷えるということを知らない。窓を開け放っても、吹き込んで来るのは暑いくらいの風。室内に停滞していた空気はどんよりと淀む水のように重たく、疲れた躰に安らぎを与えてくれるどころか、蓄積した以上の疲労を与えようと画策しているようだった。
 エアコンのない部屋は夏の暑さにされるがままだ。
「何ぼけっとしてるんだ」
 云われてはたと我に返った。
 あいつは三和土で夏という季節には似つかわしくない革靴に爪先を通して、当然ユウシもついてくるべきなのだといったような体で待っている。声を出すのも億劫で、のろのろと立ち上がりあいつの背中を追うようにして部屋を出る。外も変わらず熱が停滞して、肌にまとわりつくような不快感をもたらす。
 抵抗することなど無駄。
 拒否権は予め奪われている。
 そんな生活にもいつの間にか慣れてしまったような気がする。あいつが傍にいて、あいつの云いなりになる日々が当然のこととなり、ふと気付くとあいつがいない日常の隙間が不思議なもののように感じられるようになっていた。
「早く乗れよ」
 云われて、顔を上げると街灯がぼんやりと夜の闇のなかに浮かんでいた。エンジン音。ドアが閉まる音を合図にサイドシートに躰を滑り込ませると、ひんやりとした風が肌を撫ぜた。曖昧な感覚のままにシートベルトを引き出して、躰を固定すると、それを待っていたようにして滑らかに車が走り出す。
 どこへ向かうのかと問う必要はなかった。
 問うても答えが返ってくるようなことはないだろう。いつだってそうなのだ。ライトが照らし出す夜道。その向こうに何があっても、予めユウシがそれを知ることはない。少なくとも隣にあいつがいる時はそれが当然だった。
 エンジン音だけが軽やかに響く。
 言葉はない。
 必要とされない言葉は沈黙のなかで殺されて、疑問や他愛もない会話を奪う。けれどそんなことにももう慣れた。あいつと他愛もない会話を交わすことなど無意味。あいつだってそれを望んでいない。望まれないことはしてはいけない。あいつと過ごす日々のなかでユウシはいつの間にかそんなことを体得していた。
 どれだけの時間、車のなかでそんな沈黙に身を任せていたかわからない。どことも知れない場所で停車した車からあいつが降りる。またいつもの気紛れなのだろうと思ってその後に続くと、そこは海だった。
 纏わりつくような潮風。しかしそれは熱せられたうだるような空気とは違ってどこか清々しさを感じさせるものだ。遠く、波音が規則正しく響く。あいつは何も云わずに砂浜へと下りて行く。人影もない砂浜に溶け込むようにスーツを纏った後姿を進む。その少し後ろをついていくようにしながら、どうしてこんな所へと思う気持ちを押し殺したままユウシはふと足を止めたあいつの隣に立った。
「昔、友人が海に沈んだ」
 ぽつり、呟かれた声がいつになく干渉的でふと顔を向けるとあいつは水平線の彼方を見つめるような目をして遠くを見つめている。らしくないと思った。
「今も海底にいるんだろうな」
 詳しい経緯は語れることなく、あいつの内側に残された過去の断片だけが言葉になる。
 それだけに耳を傾けていると、不意にノイズのようなざわざわとした音がユウシの鼓膜を緩やかに支配していくような気がした。黒い海の向こうから這い上がってくるような音。爪先のすぐ傍に白い波が打ち寄せるのがわかる。けれど視界で捉えるそれよりもはっきりと音だけが痛いほどに鼓膜に響いてくる。
 ゆっくりとまばたき。
 一度深く深呼吸をすると、あいつが隣でユウシを見ることもなく云った。
「姿が見えるか?」
 ゆっくりと頸を振って否定すると、不意に黒い海面を縫うようにして白く細い手がユウシを招くようにして揺れた気がした。ゆるゆると伸びてくる白い白い無数の手。幻だと否定する平静な心とは裏腹に、現実だと受け止めようとする心が動く。数を増し、伸びてくる無数の白い手。誰のものともわからないそれらを眺めながら、ユウシの耳は言葉を捉える。あいつのものではない。ぼんやりと反響する不鮮明な声だ。
 ―――シオミズハシミル……シオミズハ…シミル……。
 こめかみに鈍痛。
 人差し指でそっと押さえる。
 ―――イッショニイッショニイッショニ……イッショニ……。
 呼ばれているのだろうかと思う心を振り払おうとする平常心
 しかしそれはひどく脆弱。
 彼らを救うことはできないとわかっていながら、それにひどく惹き付けられる自分がいる。
 ―――ダレカダレカ…ダレカ……。
 ふと、自分が沈めば彼らは癒されるのだろうかと思った。一緒に冷たい海の底に沈む、それだけで彼らが癒されるのなら。思うと足元で蠢く無数の白い手が鮮明になった気がした。ユウシの足頸に絡みつく。それらを振り払うことはできない。闇色の海。白く弾ける波。そこから伸びてくる無数の白い手。
 それに誘われるように一歩を踏み出そうとして、不意に強く引き寄せられた。腰に触れる大きな手と、耳元で囁くように響く低い声。
「おまえは逃げるのが下手だな」
 顔を上げると正面には見慣れたあいつの顔。
「莫迦だな」
 云われて、まるで自分の心の内を見透かされていたような気がした。
 あいつはそれきり言葉を発することをやめて、何をするでもなくユウシの腰に腕を絡めたまま波音に耳を澄ませるようにして肩口に頭を預けた。それを沈黙のままに受け止めて、肩口に感じるささやかな体温を感じて、ユウシは胸の内で莫迦だなと云ったあいつの言葉をなぞる。
 莫迦だと思った。
 救えるわけがない。
 癒せるわけがない。
 それをこの闇が証明している。
 規則正しい波音だけが闇のなかに響き渡る。
 緩やかに世界を支配するように、どこまでも響いていく。
 きっと総ては暗い海底に沈んだまま、戻ることもかなわないそこに幽閉されてしまっている。あいつが戯れのように呟いた友人という者も、誰のものとも知れない白く伸びてきた無数の手も、自分にはどうしようもないことなのだ。自分を抱き締めてくるあいつを抱き締め返すもできない両手が総てを証明している。無力なまでに体側にだらりとたらされた両手。それに救えるものなど何もない。自分さえも救えない。
 思うと総てが明らかだった。
 全能な神などどこにもいない。
 だから自分はそんなものは信じないと、あいつの腕に抱き締められてすっかり日常になってしまった香りに包まれながらユウシはぼんやりとした頭で思った。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
沓澤佳純 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年07月26日

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