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『偶然 』
葉月・政人1855)&綾和泉・汐耶(1449)


 都立図書館に収められている本の数は計り知れない。最近出版された一般書から名立たる文豪が残した初版本などがこの広い空間の中で所狭しと並べられている。しかし訪問者は、そのすべてを閲覧できるわけではない。彼らが見ることのできる蔵書はほんの一握りなのだ。だが訪問者がそれを気にすることはない。平凡な人生を過ごすにはそれで十分だからだ。夕暮れを迎えた今日もこの図書館は静かに繁盛していた。
 そんな往来を縫うようにひとりの長身の青年が受付にやってきた。彼は胸ポケットからあるものを取り出すと、一般人の入室を禁じている場所への訪問を希望する。受付の女性がひとつ頷くと要申請特別閲覧図書が保存されている部屋に行くための道を説明し始めた。彼は話を聞きながら手に持ったものを片付けると軽くお辞儀をし、その場所へと足早に去っていった。彼の右手はよく動作しているものの左手は非常におとなしく、常に胸の近くに置かれていた。
 彼が女性に見せたのは警察手帳だった。彼の名は葉月 政人。警視庁に所属するキャリアのひとりで、階級は警部だ。彼は今、その身分とは釣り合わない場所に身を置いている。警視庁超常現象対策班……彼はそこで不可能犯罪に立ち向かうための戦士として所属していた。それを防ぐための大いなる力として存在する特殊強化服『FZ-00』の装着者として警視庁上層部でも有名である。もしかしたら一般社会の中でもある程度の認知度はあるのかもしれない。彼に救われた人はどれだけいるだろう。その数はこの図書館の蔵書と同じく計り知れない。

 葉月が小さな扉の前で再度、警備員によるチェックを受ける。ここから先には文化的にも金銭的にも価値のあるものが多く並ぶ。受付から連絡をもらっているからといってもそう簡単には中に入れてもらえない。彼はもう一度警察手帳を出し、さっきと同じことを説明する。すると警備員が簡単なボディーチェックを始めた。拳銃を持っていないことなどを確認すると重い扉が開かれた。その中に吸い込まれるようにして入る葉月。

 「少し……薄暗いんだな。ここは。」

 初めて入る秘密の部屋に魅了されたのか、葉月は入口で立ち止まり周囲を見渡した。天井や壁に窓は一切なく、ただランプの灯火のような揺らめきが周囲を染めている。事務員たちの机には個々に小さな電気スタンドを置いており、その光を頼りに仕事をしていた。そんな彼らの横を通り過ぎ、葉月は異国の文化を記した本棚へと歩き出す。彼はふとあまり動かさずにいた左手を使って背広の袖をまくり、自分の目の前に持ってきた。辺りが暗いので左手首につけた腕時計がよく見えないのだろうか。彼は何かを確認するとまた歩き出した。


 時を同じくして、その部屋にはたまたまここの一部を管理している女性が事務机に座ってパソコンで報告書を作成していた。彼女の普段、表のカウンターで貸し出し図書の処理などを行っている。彼女は密かにファンがつくほどの美人の綾和泉 汐耶だった。彼女は要申請特別閲覧図書の中でも魔導書などの管理を引き受けている。それは自分の持つ異質な才能を活かすためでもあった。しかし、ここで仕事することはめったにない。今の御時世、魔導書を新たに作ることなどあるはずもないし、日本で見つかるものも数が知れている。だからこそ汐耶はカウンターでの業務を命じられているのだ。
 彼女は近くにある業務用プリンターから印刷した書類を手に取って上司の元へと歩く。道すがら自分の書いた内容を確認していた。

 「こんな書類とは全然種類が違うけど、人に読もうと思わせる文章を書くっていうのはやっぱり難しいんでしょうね。」

 いつも読んでいる小説や評論などと文面を比較しながらポツリと感想を述べる汐耶。手にした書類は上司に手渡せばそれでおしまいである。それはそれだけの文章ということだ。相手も読む必要があるから読むだけで、別段そこから感動が生まれるわけでもない。ただ必要だから書いたものと誰かに読ませようとする努力して書いたもの……彼女はその違いを感じながら嘆息した。汐耶は目的地を見たが、そこには上司はいなかった。彼女は机の上にそれを置き、そろそろ帰宅しようときびすを返した。その時、見たことのある男性が目に飛びこんできた。それは葉月だった。彼とは昔、警視庁との合同捜査で一緒に働いた間柄である。見間違うことはない。彼女は仕事場で彼と出会うことがあるとは思いもしなかった。その驚きを伝えようと声をかけに行こうとしたその時、汐耶はなんとも言えない違和感を感じた。

 「ケルト全般……? おかしいわね、彼にそんな趣味あったかしら?」

 一冊ずつ丁寧にタイトルを右手の人差し指で追っていく葉月の姿を見て、どうしても疑問を拭えない汐耶は相手に気づかれていないことをいいことにしばらく遠巻きに観察した。目的の本を探すためによく動く右手に対して、ずっと心臓のあたりを静かに押える左手……その構図が奇妙に映った。葉月の視線もやけに真剣で、動きにも気軽さがない。彼女にはどうしても『彼は必要に迫られて本を探している』ようにしか見えなかった。
 汐耶は何かを悟った後で、葉月に近づいた。彼はすぐに彼女の接近に気がついた。この部屋で本を探しているのは自分くらいだと自覚していたからだ。まさかここで知り合いに出会うと思っていなかった葉月は大いに慌てた。その態度がさらに汐耶の表情を曇らせる。

 「あっ……あなたは綾和泉さん!」
 「お久しぶり、葉月さん。こんなところで会えるなんて思ってもみなかったわ。こんないわく付きの部屋で何の本をお探しかしら?」
 「い、いや、なんでもありません。ちょっと個人的にこういうことに興味があって……」
 「そう、急に魔導に目覚めたの。ここには人を恨むような種類の本しかないんだけど、誰かが憎くてそんなことしてるわけじゃないでしょ?」
 「そ、そんなことはありませんよ。ただ……ちょっと探し物をしてまして……」

 慌てふためく葉月はある意味で本当に素直だ。汐耶の思い通りに話を進めてくれる。その本棚にはたくさんの書物が並んでいたが、とても背表紙からその内容を窺い知ることはできない。特にこの種類は日本語に翻訳されたものは少なく、ほとんどが原文のケルト文字のままなのだ。彼女は葉月に質問を突きつける。

 「刑事さん、探し物があるなら私が探してあげますから。そのための職員ですし。」
 「いえいえいえいえ、そんな滅相もない……」

 葉月が両手を振って遠慮したその時……汐耶は左手首に青白く光る刺青のようなものがあるのを見つけた。その文字の意味を知った彼女は血相を変えた。文字の一端しか見えなかったが、それは間違いなく呪いの言葉だった。おそらく腕に、もしくは全身にもそれが刻まれているのだろう。汐耶は言葉を強めて言った。

 「今すぐ上着を脱いで。」
 「えっ! な、何のことですか……僕は本を探しに……」
 「とぼけたって無駄よ。おかしいと思ったのよね、こんなところを歩いてること自体……さ、今すぐここで脱ぐの。もう手首にあるケルト文字は解読済みよ。」
 「あ……そ、そうですか。は、はい……じゃあ……」

 彼は観念したのか、人目を気にせず背広とシャツをその場で脱いだ。汐耶の予想通り、葉月の左半身にはびっちりケルト文字が埋まっていた。その内容はもちろん呪いである。憎しみに満ちた文言を読み解く彼女は小さく溜め息をついた。まだこの呪いは効果を発揮していなかった。どうやら日が経つにつれて効果を発揮する種類のもののようだ。そしてそれを半分も読まないうちに呪法のシステムを理解した彼女はそれを封印する……その瞬間、彼の身体から文字が消え失せた。葉月もそれを見て大きな溜め息を漏らす。

 「き、消えた……」
 「あんまり知識のない人間が使った呪いでよかったわね。あなたに呪いさえかかればいいっていう程度のものだったわ。でも……どうして?」
 「な、何が……どうしてなんですか?」
 「どうしてここにある本を使って自分で解呪しようとしたかってことよ。残念だけどここには葉月さんに読めるような本は一冊もないわ。ここに来るつもりがあるのなら、私にでも相談してくれたら協力してあげたのに。それにあなたの部署の人は魔導に精通してる人がいたはずよ。ここによく来る人がいるもの。なんでその人たちに頼らなかったの?」

 汐耶の正論に言葉を詰まらせる葉月。彼は母親に説教される子どものようだった。困った表情で腕組みをする汐耶と目を合わせずに、葉月は真相を語る。

 「仕事中に……呪いをかけられたらしいんです。強化服を脱いだ時に、それがわかって。でも、みんなに心配かけたくなかったんです。つい最近、任務中に失踪したばっかりだし、これ以上心配かけたら絶対にダメだと思って。それで汐耶さんのことを思い出してここに来たんです。」
 「でもみんなに黙ってコソコソしてたら、みんなもっと心配するでしょう……」

 もはや葉月はぐうの音も出ない。黙って汐耶のお説教を聞く以外になかった。乱れた着衣を直しながら、その言葉を噛み締めるようにして聞いた。

 「せっかくお仕事をチームでやってるのに自分から台無しにしてどうするの? 苦しい時こそみんなでやらなきゃいけないんじゃないの?」
 「は、はい……」
 「……………まぁ、葉月さんだから仕方ないか。あなたの性格ならこういうことやるんじゃないかなと思ってたけど。でも、これっきりにするのよ。じゃないと周囲の人が勘違いするから。人間、なんでもひとりでできるわけじゃないんだから。」

 そう言って葉月の頑丈な肩を軽く何度か叩く汐耶。お説教はここまでよと言わんばかりの態度だった。葉月は相当反省している様子で、うつむいたまま顔を上げようとしない。それを見た彼女は今度は背中を叩いた。

 「さ、それじゃ今日は刑事さんのおごりで飲みに連れてってもらおうかしら?」
 「え! ぼ、僕のおごりですか?!」
 「こんなところにこっそり来るってことは、この後もお暇なんでしょ。どうせ有給か何かを使ってここに来てるんだろうし。私もこれで仕事は終わりだから、今日は付き合ってもらうわよ。」
 「仕方ないですね……わかりましたよ。」
 「一度行ってみたかったのよね……駅前の高級フランス料理店。」

 ふと口にした汐耶の言葉に青ざめる葉月。慌てて財布の中身を確認し始めた。普段は給料から天引きの食事しか利用しないので財布にお金をあまり入れていないのだ。また顔を青ざめさせる葉月。しかしそこに彼女の手が伸びる。その長い指はカード入れに刺さっているクレジットカードを指差すではないか。困った顔をして立ち尽くす葉月の顔を見て満面の笑みを見せる汐耶は自分の机に戻って帰宅の準備を整え始めたのだった……

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市川智彦 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年07月23日

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