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『血脈の呪縛 』
藍原・和馬1533)&マリィ・クライス(2438)


 藍原和馬にとって、自宅とは居住スペースではなく、むしろねぐらと呼ぶ方がふさわしい。
 一日の内で彼がこの部屋を使用するのはオンラインゲームにログインする数時間と、ほんの僅かな睡眠の間だけだ。
 バイトに明け暮れ、裏社会を渡り歩き、時には架空の世界でしか起こりえないはずの事件の調査に赴く。
 こんな生活を一体どれだけの間繰り返してきただろうか。
 そう考える余裕もなく、今日も和馬はぐったりと自室のベッドに沈み込んでいた。
 泥のように眠る――まさにその言葉どおり、一切の夢も見ず深く深く意識を閉ざす。
 だが、二十数時間ぶりの安寧な時間はけたたましい携帯電話の着信で唐突に断ち切られた。
 和馬の敏感な聴覚に突き刺さる電子音。
 それが誰からのものかは奏でられるメロディで分かっていた。
「ぅあ〜い……どうしたんですか…師匠ぉ……?」
 完全には覚醒していない頭で携帯を引き寄せ、気怠げに応答する。
「………は?今からですか?ええと、その…俺―――は、はい!了解しました!はい!ただいま!」
 電話の向こうから不穏な音が聞こえると同時にびくりと跳ね起き、和馬はぼさぼさの頭を何度も縦に振った。
 そして、電話が切れた後の彼の行動はまさに目にも止まらぬ早業だった。
 ユニフォームにも等しい黒スーツを纏い、髪を丁寧に撫で付け、全ての身なりを『いつもどおり』に整えると、和馬はあまりに気の進まない場所へと足を向けた。


 マリィ・クライスが主を務める骨董品店『神影』は、今日もひそやかな闇と妖の気配をまとってそこに佇んでいる。
「藍原和馬。ただいま到着しましたぁ」
 体力の限界に挑戦したせいで少々ふらつきつつやってきた弟子を、黒衣をまとった彼女は嫣然と微笑んで迎えた。
「遅いねぇ。呼び出してから27分44秒も掛かってるじゃないか。そんなんで何でも屋が務まるのかい」
「イヤ、あの、これでもかなり頑張ったんすけどね」
「結果がでなきゃ意味はないだろ。じゃあ、行くよ」
 肩で息をしている弟子の肩をぐいっと押しやり、マリィは店を出るよう促した。
「へ?あの、どこ行くんすか、師匠?」
 状況をまるで理解できずに質問を重ねる和馬。
「好奇心旺盛な人間の後始末をしにその施設まで、だ。研究者ってのは時々とんでもないことをやらかすもんだよ。いつの世でも、ね」
 何百年経とうともヒトの性などそうそう変わるものではない。愚かしい行為を様々な大義名分のもとに幾度でも繰り返していくのだ。
 そして、それは自分達も同じである。
 かつてのマリィも、そして和馬もまた好奇心という名の下に呪われた運命の手の内に堕ちたのだ。
「仕入れ屋の話じゃあやしい人体実験も繰り返してたそうだよ。どうなっちまってるのか確かめに行きたいって思うだろ?」
 艶やかな紅を引いた唇が笑みの形に弧を描く。
 獲物を狙う肉食獣を髣髴とさせるソレを目の当たりにしながら、和馬はいやな予感に捕らわれる。
「後始末ってのはいわゆる『掃除』って意味っすか?」
「そうなるねぇ」
 最近身体が鈍っていけないと続けながら、マリィはすぅっと目を細める。
「………暇つぶしならヒトリで行ってくださいよ。俺は帰って――ぐぁっ!?」
「私の誘いを断ろうって言うのかい、和馬ぁ?随分と上等なことを言うようになったねぇ」
 腹を抱えて地面に転がった弟子の上に追い討ちをかけるべくハイヒールを履いた足を乗せ、腕を組んで見下ろした。
 彼女の一見華奢な美しい足は、強靭な男を見事に捕えて地面に沈めたのである。
「一緒に行くだろうね?」
 少しずつ和馬を踏みつける足に体重をかけながら、マリィは再度脅迫に等しい意思確認を行う。
「いぃっ――行きます!行かせて頂きますっ!だから師匠、やめてください!」
「よし。ならさっさと立ちな。行くよ」
「りょ、了解」
 内臓の一部がちょっと破裂してしまったような痛みが走るけれど、それも数分後にはキレイに完治していることだろう。
 だからといって痛いことに変わりはないのだが。
 どこまでも頑丈な自分を喜ぶべきか悲しむべきか。
 悲しそうに呻き声を洩らしつつ、和馬はスーツの汚れを払い落として彼女に従った。



 さざめきは常にそこにある。すぐそこで、常に私を誘惑する。
 禁忌と分かっていながら、手を伸ばしてしまう自身を止められない。
 かつてアダムとイヴが禁断の実を食してしまったように、人は好奇心のために自らを楽園から追放するのだ。



「まったく。こんな所に出入りしたいと思う人間の気がしれねぇ……」
 吐き気のする腐臭と粘りつく空気に不快そうな表情を浮かべ、和馬はぐるりと周囲を見回した。
 まるで曰くつきの病院のようにも見える研究施設は、今はもうどす黒い闇に覆われて廃墟と化している。
 圧倒的な質量で以って圧し掛かってくる不吉な空気を払いのけながら、何故か和馬がマリィに先行するカタチで施設内を探索していた。
 耳をそばだて、目を凝らし、闇の中に自身の気を溶け込ませながら、五感全てをフル稼動して観察していく。
「あ〜、あの、師匠?ここって『ヒトの気配』はないんっすね」
 真っ当な生物が放つ清浄な生命エネルギーは欠片もない。
 ただ、とめどなく腐敗していく禍々しい『気』が渦を巻いているだけだ。
 致死量の毒を含み、後はもう終焉を迎える他ないような、そんな場所になってしまっている。
 そして、ここから何十メートルも下でわだかまっている『何か』が、この施設を冒している物の正体だと思われた。
「もしもこんな所にヒトが残っていたとしたら、もうそいつらはヒトじゃなくなっているだろうさ」
「あ〜……はぁ、なるほど。確かに――とっ、お?」
 マリィの言葉に納得しつつ踏み出した足がうっかり蹴飛ばした何か。
 それがザリッと滑ったかと思うと、次いでガザガザと小さなものが一斉に壁の隙間へ逃げていった。
 虫、ではない。
 蟲によく似た未知のモノ、だ。
「ああ、そういえば。言い忘れていたけど、ここに忍び込んだ人間もいたらしいけど誰ひとり戻ってきていないからね。喰われたんじゃないかって話も聞くから気をつけな」
「……ええと、喰われる危険もあるんですか、師匠?」
「他にもどんな研究成果が残ってるのか定かじゃないんだ。せいぜい気を引き締めな」
「…………師匠?」
 この瞬間。
 和馬の脳裏に、炭鉱夫たちが鉱内を歩く際に用意するカナリアの姿が過ぎった。
「まだ何か質問があるのかい?」
「いえ……ないっす」
 純粋な力によって形成された上下関係というものはそうそう覆せるものではない。
 そして不遇の弱者はそっと涙をぬぐって沈黙する。
 和馬は自身の境遇にちょっとだけ想いを馳せながら、狭く入り組んだ通路を地下に向って進んでいった。
 時折ごく小さな何かが視界の端で蠢く。
 だが、こちらに攻撃の類を仕掛けてくることもなく、それらは身を寄せ合ってざわざわと囁くだけに留まっている。
 浄化するタイミングも見つけられず、かといって片端から攻撃を仕掛けてどんな影響が出るのかも分からない。
 フラストレーションを微妙に溜め込みながら、和馬はガシガシと自分の頭を掻き撫でた。



 呪術的な効力を挙げるのならば、内に流れる鮮紅色の体液に勝るものはないだろう。
 古の時代より穢れと神秘に満ちた『供物』――それを用いることで生み出されるものはどれほどに素晴らしいものなのか。
 私の研究はいよいよ大詰めだ。
 未知が既知となるこの瞬間に幸あれ――――



 研究所最下層。
 既に機能しなくなって久しいエレベーターを無理矢理に動かして到達した場所には、幾重にも頑丈に閉ざされた鋼鉄の扉が鎮座していた。
 そこに辿り着くまでに並ぶ鉄格子と巻き付けられた鉄鎖が、奥に潜むものの危うさを物語っていた。
「―――ん?」
 和馬は僅かに首を捻る。
 これほどまでに厳重な処置をしておきながら、この封鎖は物理的な意味合いしか持っていない。奇妙にも一切の呪術的措置が為されていないのだ。
 病巣は確かにここで間違いはない。
 にも拘らず、だ。
「何をしてるんだい?」
「いや……あの、なんか無理矢理閉じ込めただけって感じがすごく奇妙なんすけど」
「それが?」
「……危険、じゃないかなぁと」
「それで?」
「……………なんでもないです」
 マリィは金の目を眇めながら、いかにも怪しげなこの封印を開けるよう指示した。
 そこに何があるとも告げず。
 洩れ出てくる異臭に顔を顰めながら、それでも無言の圧力に耐えかねて、和馬は静かに自身の右腕にチカラを集中させ、全てを引き千切った。
 そして。
「うっわ、カンベンしてくれ!」
 予想はしていた。
 ある程度の数も音の反射から予測できた。
 だが。
 言葉を形成しない呻きとも唸りともつかない音を発し溢れ出して来たモノどもが、ぐずぐずに融けていることまでは推し量れなかった。
 とっさに薙ぎ払った反動で、ぐしゃりと異形の腐肉が削げ落ちる。
「さて、掃除の開始だよ」
 そんな弟子を横目に、マリィは超然と微笑んだ。
 ひとたび開け放たれた最奥の匣からは、本能のみに突き動かされた異形が跳ねる。
「しっかり後始末しないと面倒なことになるからね」
「了解」
 かつて人であったモノたちを前に、師弟はゆっくりと狩猟者たる己の本性を解き放つ。
 闘争本能を極限まで高めた、神の衣を借る二匹の獣が不敵に牙を剥く。
 闇の中、身にまとう仄かな光を残像に変えて、この世ならざる世界に生きるモノたちの狩りが始まった。

 毒を含む濁った血が、異臭を放ちながら周囲に飛び散る。
 床一面に広がり、辺りを腐食していきながら様々なものを変容させる。
 じゅぅっと嫌な煙を立ててコンクリートに穴を開けるものもあれば、不可解な異形を生み出すものもある。
 それらが発する吐き気のする甘ったるい腐臭は、確実に吸い込んだものの臓器を蝕んでいくことだろう。
 存在しうる全てのものを死へと向かわせる猛毒。
 そうして長い時間をかけて、この施設は病いに蝕まれていったのだ。
 だが、致命的となるはずのソレも、狩人たちには一切の変化をもたらせない。
 二匹は地を蹴り、壁を蹴り、幾度も牙と爪を振るいながら、毒を撒き散らす異形の中核を目指す。
 厚いコンクリートの匣に閉じ込められたその奥。
 病原体とでも呼ぶべきものが、闇の中で蠢いている。
 強大なチカラを有しながら、自身を支えきれずに内部崩壊を起こし、いくつもの異形を取り込みながらそこから動くこともままならない。

 狙いを定め、獣の鈍い光が閃いた。

 浄化の呪を宿した爪が引き裂く度に、断末魔の叫びが上がり、そうして足元に転がる死体は人間のもの。
「………あ〜……こういうオチだよなぁ、やっぱり……」
 研究材料の謀反に倒れた男と、そして、好奇心や正義感といったものに支配され、踏み込んでしまったモノたちの末路だ。
 助かる見込みなど、多分なかった。だからそこには感傷も後悔もない。あるとすれば、ただ非常にささやかな不満だけだ。
「あぁ、くそ。こんなに血塗れじゃクリーニングにも出せないじゃねぇか」
 たっぷりと体液を含んで赤黒く湿ったスーツの裾を摘み、心底嫌そうに和馬がぼやく。
「私が拾った時だってアンタは血塗れだったじゃないか。他人と自分両方のでさ、血がついてない所がないってくらい真っ赤だった」
 それでも死にたくないと強く望んだから。
 だからマリィは和馬に自身の血を分けた。
 好奇心の代償として神の呪に染まる身でありながら、獣人の血を引く男に更なる呪を掛けた。
「一体何百年前の話っすか、師匠」
 おどけて笑うその表情には、常に諦観が付き纏う。
 長い時を生きてきた。
 長すぎて、もう過去とも呼べないようなものが自分の中に積もっている。
「ちょっと止まりな」
「はい?」
 マリィからの唐突な制止の指示に、思わず階段を踏み外しそうになりながら振り返る。
 見上げた彼女の瞳は暗闇の中で金色の光を揺らめかせ、のっぺりとした壁に視線を注いでいた。
 彼女の手入れが行き届いたきれいな白い指先がつぅっとコンクリートをひと撫でする。
 黙ってその所作を見つめる和馬の前で、壁が大学ノート程度の大きさに脆く崩れ去った。
 隠し戸……と呼べるほどの奥行きはないそこへ、マリィの手が差し込まれる。
「見つけた」
 そうして引っ張り出された物は、ぼろぼろに破け傷んだ1冊の―――
「日記?」
「だろうね」
 綴られているのは、男の歪んだ思想が生み出した悲劇。
 鮮赤の流れに執着し、生命の根源をそこに求めた男。
 自らの好奇心によって、楽園のみならずヒトの道からも堕ちてしまったこの男はそれでも幸せだったのだろうか。
「さあ、後始末も済んだことだし、さっさと帰るよ」
「……で、ソレ、持ち帰るんですか?」
 訝しげに指差す先。
 マリィの腕の中にはしっかりと研究員の日記が収まっていた。
「何言ってんだい。これを手に入れるためにここまで来たんじゃないか」
「………え?」
「依頼人がね、欲しがったのさ。この恐ろしく歪んだ形で完成したヒトの狂気。その手記をコレクションしたいって人がいてねぇ」
 コレを取引に使うのだとくすくすと愉しげに笑いながら、マリィは悪びれもなく種明かしをしてみせる。
 この師匠がただの掃除をするはずがなかったのだ。
「…………俺はその手伝いだったんすか……?」
「何か問題でもあるのかい?」
「いえ、ないです。はい」
 夜はまだ長い。
 咎人のための朝は永遠に訪れない。
 
 血の呪縛から逃れることを望む日が来たとしても、もう後戻りは出来ないのだ。




END
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東京怪談
2004年07月16日

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