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『Blessing 』
香坂・蓮1532)&ラスイル・ライトウェイ(2070)

 大きなガラス窓の向こうに見える世界は、久し振りの雨に濡れている。
 季節ごとに風景を幾つにも色を変える日本。その中でもこの時期は『鬱陶しい』と評するに最も相応しいはずなのだが、今年は何故かその原因である雨が非常に少ない。
「でもこんな日に降る必要はないと思わないかい?」
 鳶色の瞳が、朝から止むことなく降り続ける天からの恵みを、ほんの少しだけ眇めて眺めていた。
 その横顔には、この雨の中を出かける恋人を気遣う色が浮かんでいる。
「いや、こっちの方が多分好都合だ」
 こんな天気では流石のあの人も雨宿りをせざるをえまい。
 小さく笑う香坂・蓮に、外を眺めたままだった恋人は「それもそうだね」と表情を和らげた。
「それじゃ、行ってくる」
「雨に濡れないように気をつけて」
 大き目のラタン製のバスケットを手にした蓮は、恋人の言葉にひらりと手を振ると、その部屋を出る。
 窓が遠くなったと同時に小さくなった雨音。
 けれど、止む気配は全く遠ざからない。
「こんな日くらい、神父様の所にお世話になってればいいが……ま、十中八九あそこだろうな」


 天気の良い日なら、レジャーシートを持ち出し午睡を楽しみたくなるような場所。そこは蓮の家からさほど遠くない公園の中の一角。
 都市緑化計画の為に植えられたのではなく、ずっと昔から人々の歩みを見守り続け、幾重もの年輪を刻んだ大樹。空を覆うかの如く広げられた濃い緑の葉は、その下で雨を凌ぐ人影をゆったりと守っていた。
「そろそろ食事の時期だと思って」
 当たりをつけた場所に、目的の人物の姿を発見した蓮は、自分も木の下に入り傘を閉じる。すると、するすると水滴が傘の表面を滑り、茂る葉に抱かれていた大地に、ぽつぽつと小さな花を咲かせた。
「あぁ、やはり私は良い弟子を持ちましたね」
 差し出されたバスケットを幹に寄りかかる姿勢で座り込んだまま受け取ったのは、空を隙間なく埋め尽くす灰色の雲と同じような色の髪をした男。日の光の下では美しい銀の光沢を帯びる美しい髪も、この曇天の下では大気が孕んだ水気を含んで衣服に纏わり付いていた。
 突然の来訪にも驚いた様子を見せない師――ラスイル・ライトウェイ――を眺めつつ、蓮も彼の隣に腰を下ろす。
「これは……何ですか?」
 バスケットの中から出てきたのは、少し大きめの弁当箱。蓋を開けた先、最初にあったのは薄いシート。見るからに食べ物ではないそれを、ラスイルの青い瞳が不思議そうに見つめている。
「あぁ、それはワサビ成分入りのシートだ。この時期は食べ物が腐りやすいからな」
「なるほど。面白いものがあるんですね」
 言いながらラスイルはシートを捲る。現れたのは炊き込みご飯で作られたおにぎり、レタスで囲まれた茄子入りのハンバーグに、トマトをプラスした棒々鶏。そして一口大に切り揃えられたカボチャの煮物には、薄揚とさやえんどうが添えてあった。
「見事な和洋中混在ですね」
「最後に季節のフルーツもあるからな」
 バスケットの中に忘れたままになっていたタッパを取り出しながら、蓮は水筒に準備してきていた卵スープをカップに注ぐ。
「私は本当に良い弟子を持ったようですね」
「それはさっきも聞いた」
 フォークで器用におにぎりを口に運びながら、ラスイルは料理に秀でた弟子を褒めるが、蓮はそっけなく切り返す。それが微妙な照れ隠しであることを、付き合いの長いラスイルは百も承知しているのだが。
「貴方は料理も上手ですね」
 蓮はこうやってラスイルが食事を必要とする時期が来ると、約束したわけでもないのに彼の元へ手作りの弁当を届けるようにしていた。
 『食事を必要とする時期』
 つまり、彼は通常の人間と同じような一日三度の食事を必要としない。その周期は月に一度、というおおよそ常人では決してありえぬものだ。
 当然、事実を知る者は限られている。彼の弟子であり、そして唯一ラスイルの真の名を知る蓮は真実を把握し、だからこそ食事の世話を焼く。
 ラスイルが蓮の目の届く範囲にいる間――という前提条件はあるのだが。
 チラリと動かした視線で、師が美味そうに食事する光景を確認しつつ、蓮は数ヶ月前の出来事をぼんやりと思い出していた。
 追い求めていたヴァイオリンを、奏でたあの日。
 生まれて初めて、実の父に出会ったあの日。
 ラスイルが、自分を置いて姿を消したあの日……―――


 虚ろな瞳は、像を結ぶことなく宙を彷徨う。僅かに上下する胸元が、彼が生きた人間であることを証明。
「………」
 音にしかけた言葉は、吐き出された息に混ざり、意味を成さないまま空を渡る。
 カーテンが開け放たれたままの部屋は、既に幾度かの夜明けと日没を見送り、そして今はまた暗い夜空を映し出していた。
 フローリングの床に投げ出された指先が、何かに触れる。
 それが冷蔵庫から取り出したままになっていた飲料水のペットボトルだと意識することなく、蓮はぼんやりと飲み口を唇へと当てた。
 カチカチと繰り返されるのは時計の音だけ。
 どれだけの時間を、そうやって過ごしてきたのか蓮は知らない。知りたいという意識もなかった。
 ただ無意識の内に呼吸を繰り返し、時折水分を体内に補給する。
 何が起こったのか分からなかった。
 いや、分かってはいたが理解することが出来なかったと言う方が正しいか。
 兄と入れ替わり立ったステージ。
 直前で手渡されたのは、ずっと追い求めていたグァルネリ・デル・ジェス。
 そして父との邂逅。
 夢に見たことばかりだった。いや、現実になるとは思っていなかったことなのかもしれない。
 それだけで蓮の心の許容量は、限界点に達していたのに。
 追い討ちをかけるように、その日、彼――ラスイルは蓮の前から姿を消した。
 傍らに在るのが当然のように思っていた者の、不意の喪失。溢れる直前だった心は、無残にも堰を切り流れ出す。
 残されたのは空っぽになってしまった器だけ。
 嬉しいとか、悲しいとか、言葉に表現できるような感情は、欠片の一つも残らなかった。
 渦巻いていたのは、ただ一つ。混沌と言う名の空虚さだけ。

  ずっとずっと、手に入れたいと思っていた
         それは父が手にしていたものだから
 けれど、こんな覚悟もなしに訪れるとは思ってなかった
      思ってなかったから、ワケがわからなくなった
  差し出された手、それは確かに父のもの
         だけど、それが何なのか本当はわからなかった
   当然だ、生まれて一度も触れたことがなかったのだから
     いや
      わからなかったのではない
   わかったけれど、どう表現していいのか知らなかった
       知らないままの心
  何が起こったのか
            これは夢か現実なのか
   誰かに問い掛けたかった
              それ、なのに
     問い掛けられる、唯一の人物は
                 ………姿を消した
 置いて行った
     置いて行かれた
        また、自分だけ
   なかったはずのものが、現れて
          あったはずのものが、消え失せて
  ナニガ、ドウナッテ、イルノダロウ
    ナニガ、ドウナッテ、イルンダ?
           ナニガ、ナニガ、ナ…ニ…ガ……?


「………ン、……蓮?」
 肩に置かれた仄かな温もりに、蓮はふっと我に返る。
 首を静かに廻らせると、師の手がやんわりと自分の肩を握りこんでいた。
「どうかしましたか?」
 ヴァイオリンのレッスン中に、こんな風にぼんやりしていたら、間違いなく彼の拳が頭上に飛来したことだろう。
 既に食後のフルーツを膝に広げている彼を見遣り、蓮はくすりと小さく笑った。
「一つ、いいか?」
 あの日――自我を失い命さえ手放そうとしていたあの日の思考に囚われていた蓮を、現実に引き戻した師の手をそっと解く。そして蓮はその場に立ち上がった。
 何の予告もなしに消えたはずのラスイル。彼は今年の三月下旬に再びふらりと蓮の前に姿を現した。まるで、何事もなかったかのように。
 けれど、その間も確かに時は流れ続けていた。
 降り止まぬ雨の気配は、蓮がこの公園に師を訪ねた時から変わらない。そしてあの部屋を出てから決めていた蓮の心も。
 導かれるように差し出した蓮の掌を、無限の雨粒が叩いては弾けて散って行く。自分の命も、これと同じように散ってしまっても構わないと思っていた。
 手の中で踊る水滴を、澄んだ青い瞳で見つめながら蓮はそうあの日を振り返る。
 あまりにも多くのことが一度に起こり過ぎて、世界の全てが闇に閉ざされてしまったように感じていた。
 何処にも出口を見つけることなど出来ず、ただ空虚になった心でぼんやりと時間に流されるだけの人形のような存在。
 そんな蓮に救いの手を差し伸べたのは――父でも、兄でも、そして師でもなく。
「なんですか?」
 最後のゴールデンキウイを口の中に放り込み、甘い果実を租借しながらラスイルは立ったままの蓮を見上げた。
 色合いは僅かに異にするが、同じ『青』い視線が穏やかに絡み合う。
「俺――もう、世界的な奏者を目指すつもりはないから」
 幾重にももつれた糸を解くように、蓮は一言一言に祈りを込めて思いを紡ぐ。
「ラスが……ラスが俺に自分の果たせなかった夢を託してるってのは知ってる。以前の俺は、それに応えたいと思っていたと……思う」
 己の体に宿った魂の欠片ゆえに、普通の人間と同じ流れの中にいないラスイル。それゆえに、誰よりも優れた奏者でありながら、世界の檜舞台に立つことは出来なかった。
 だから託した、自分の夢を。普段は決して表に出すことはないが、我が子のように慈しんでいる蓮にだからこそ。
 けれど。
 その重さを、十分に知ってはいるけれど。
「だけど、俺は。俺はその夢よりもあの人の傍にいることの方が大事だから」
「蓮、何をそんなに緊張しているんです?」
 弟子の言葉を聞き終えたラスイルが、僅かに笑いを含んだ声でそう漏らす。ついっと長い指が示す先には、雨に打たれたまま固く握りこまれた蓮の拳。
「え? あ……」
 慌てて引き寄せ、ほぐすように開いた手の平には、くっきりと刻まれた爪の跡。
 意を決し、師に告げた言葉だったとは言え、それほどまでに緊張していたのかと自分で気付き、蓮の顔に苦い笑みが浮かぶ。
「生きなさい、貴方は貴方の選択を」
 蓮の様子を窺い、ふわりと穏やかに微笑んだラスイルは、弟子と並ぶように立ち上がった。
 凛と伸ばされた背が、真っ直ぐに前を見据える視線を支える。
「確かに私は貴方の師であり、貴方は私の弟子です。しかし、貴方の人生の歩き方まで強要する権利など誰にもないのですよ」
 前を見ていた目が、再びゆっくりと蓮へと注がれた。
「壊れかけた貴方を救った光の為に、貴方が世界を諦めると言うのを私が叱るとでも思いましたか?」
「あ……いや……」
 その瞳の奥にあるのは、嘘偽りない温かな想い。
 そして続くのは、自分が託した夢を蓮が捨てて行くことを許し、そして新たな一歩へ踏み出す為の背中を押す言葉。
「そんなこと、いかに厳しい私でも出来はしませんよ。だから、蓮は蓮の思うように生きればいいのです」
 ラスイルの口元が綻び、目尻が優しい曲線を描いて細められる。
 今まで見せたことがあるどんな表情よりも蓮を祝福する笑顔で、ラスイルは濡れたままの弟子の手を静かに取った。
 言葉では伝わりきらないことまで、全て伝わるようにと願いながら。
「幸せになりなさい――誰よりも」
 厚く天を覆っていた雲が、遠い空で僅かに切れる。
 差し込む太陽光は、まるで宗教画のような情景を都会の空に描き上げた。
「蓮、幸せになりなさい」
 力強く繰り返された言葉に、蓮は屈託のない笑みを師に返すことで応える。心の中で、幾度も師のくれた言葉を繰り返しながら。


 祝福しましょう、貴方が決めた貴方自身の行く先を。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
観空ハツキ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年07月14日

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