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『Brand New Day 』
志賀・哲生2151



 ふと香ったそれを、志賀が聞き間違えるはずもなかった。
 夏の繁華街は、そうあるだけでも充分な『匂い』に満ちている。顔色の悪い男たちの放つ酒の臭気や、化粧にまみれた女たちのしけた香水の香り。
 それらが入り交じる都会の空気はひどく終末的で、なぜか志賀に海底に沈む大きなくじらの死骸を彷彿とさせた。
 湿ったシャツごしに、擦れ違った女の腕が触れる。
「いやだあ、ちょっと待ってよォ!」
 下卑た笑い声を挙げながら走り去っていく女の後ろ姿を見つめながら、なんとはなしに女に触れた箇所を指先で払ってしまう。
 そんなとき、志賀の鼻腔を『あの香り』が突いたのだった。

 大通りの真ん中で志賀は立ち止り、己と肩を擦った男を目で追った。
 その背中を見つめる限り、何の変哲もないやせぎすのサラリーマンである。次第に遠ざかっていくそれを見失わぬよう、志賀は一定の距離を保ったままそっと足を進めていく。
 信号待ちで見せた横顔からして、歳の頃は三十路少し手前と云ったところだろうか。最近の流行に合わせてデザインされたスーツを見ると、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。ちらりと腕時計を気にする様子を見せたが、志賀の視線にはまったく気がついていないようだった。
 男がスーツのポケットに左手を差し入れる。その瞬間、『香り』は一段と強くなったように思える。
 かつて監察医務院に務めていると云う男に会ったとき、志賀は同じような系統の香りを嗅いだことがあった。深く腹の奥にまで染み渡るような、いくらその身体を洗い清めても拭いきれぬ香り。だがいま目の前で歩き出した若い男からは、それ以上に深刻で、雑味のない『香り』が滲みだしている。
 それは志賀が普段慢性的に聞くような『死の香り』とは全く違う、香りなどと云った生半可な言葉ではとうてい表現しきれぬ言わば『死という状態』の汚泥である。それは一度鼻につくと、かすり傷のように粘膜に張り付いてかき消せない。
 それほどまでに深く、濃く、そして澱んだ死の澱を、男は身体のそこかしこから発散していたのだった。
 奴は一体、何者か。
 首をもたげた疑問と期待に胸を高鳴らせながら、志賀はただ男の後を付いて己の一歩を踏みだした。



 電車を二度ほど乗り換えて、さらに徒歩。
 閑静な住宅街の只中に、男の自宅はあった。
 年若さから云って、両親との同居なのだろう。スラックスのポケットから鍵を取りだして、既に灯のともらない扉の向こうへ消えていく。
 二階建ての家屋のすぐ横には小さなガレージがあり、志賀がよくよく目を凝らしてそれを伺っていると男は再び扉の向こうから現れ、ガレージの照明を付けた。
 車を置かないそれを、男は自室として使っているらしかった。
「………」
 志賀は男の姿がガレージに消えるのを待って、そっと塀へ歩み寄っていく。
 こころなしか、『香り』は強く、濃くなっている。
 今や志賀は、男の部屋であるガレージの中に『なにがおさめられているのか』を悟っていた。
 自分をここまで強く引き寄せ、誘惑してやまない濃厚な香りを発するものの正体を。
 小さな窓に掛けられた分厚いカーテンの、その隙間から志賀はそっとガレージの中を覗き込む。
 はたしてそこには、スーツのジャケットを壁のハンガーに掛け、ワイシャツの腕をまくり上げている男の姿があった。

「………が………ろう」
 ただひとりのガレージの中で、男は何やらに語りかけているようだった。その口唇が僅かに動いている。ポケットの中から小さな貴金属の欠片を取りだす。テーブルの上で鈍く光るそれは、細い銀色の指輪のように志賀からは見えた。
「……――から…‥・」
 ゆっくりとした口調で語る男の薄い唇が浅く笑む。指先で何かを捉えたらしい。志賀の立ち止る場所からは、その手元を目視することができない。志賀はもどかしげに浅い息を吐いた。男が語りかけるそれが、見たい。見たい。見たい。見たい。
「――、…‥・ね」
 志賀が壁沿いに歩み始める。ガレージの中の男はそれに気付かない。
 男が掌に乗せた何かに顔を近づける。そして恭しく口唇を寄せ、
「君は僕のものだよ、いつまでも」
 そっと接吻を施すのと、志賀が溜まらずガレージの扉を開け放つのとは、ほぼ同時、だった。



「――っ……な…‥・っ」
 突然の出来事に、男はそれに口唇を触れさせたままで目を瞠った。強ばった指先が思わず掌の上に載せていたそれを握りつぶしてしまう。既にすっかりと弾力を失ってしまっていたかつての『肉』はもろりと零れ、黄色い半透明の液体と共に床の上にぴちゃりと散った。
「――お前」
 志賀は確信に満ちた、それでいて震えた声音で男に問いかける。「お前、それはいったい…‥・どうしたってんだ…?」
 言葉を発すれば、肺の深くに吸いこまれる死の香りが――そう、ガレージの中にはいっぱいに死の香りが満ちていたのだ――志賀の脳を蕩けさせる。男の掌から、男自身から、そして男が背を向けている巨大な業務用冷蔵庫の中から。
 男は、ここ数ヶ月の間に都下を騒然とさせていた秩序型連続殺人犯だったのだ。男は女を殺した、何人も。
「ッだってんだ!」
 男は自分の掌を汚した女の肉片をスラックスで拭い、その震える右手でテーブルの上のナイフを握った。「入って来るな! ここは俺の場所だ…!」
 痩せた男の顔は土気色に染まり、上目遣いに志賀を睨み付ける双眼の白は鈍黄色に濁っている。他の誰にも決して見いだされることがないと踏んでいた、自分だけの秘密のガレージであった。が、そんな甘美な空間は今や不意の闖入者によって無残に打ち砕かれた。極度の興奮に口端から唾液を垂れ、男は冷蔵庫に背中を預ける。
 が、構える男の様子とは裏腹に、志賀はその場にくたりと尻をついた。男のようにしだらのない唾液を吐くことはなかったにしろ、その口が酩酊に弛緩している。
 濃密すぎる死の香りは、志賀に文字通りの酩酊を齎すものだ。まるで不慣れな酒の甘美を知った青年のように、志賀はその場に座り込んで男を見上げた。「そんな怖い顔をしてくれるな、兄弟――」
 面食らうのは、男の方である。
 いくら連続殺人犯とは云え、自分のやっていることが社会では決して認められる行為ではないことを男は理性で把握していた。が、そんな一連の己の犯行を知ったあかの他人が、自分を糾弾することをせず、兄弟と呼んでこちらに手を伸ばしている。
 あまりのことに、この男は気が触れてしまったのではないだろうか――
「俺とお前は、まったくもって兄弟みたいなもんだ。俺だけはな、お前のことを……理解してやれるぞ――」
 志賀は相も変わらず、男を見上げて右手を差しだしている。その目尻は僅かに赤く虚ろで、ナイフを握り締めたままどうしたものかと志賀を凝視する男と、そしてその背後の冷蔵庫とを交互に見つめていた。
 と。
 ナイフを握る自分の右手が、どんよりと重たい靄に搦め捕られていることを男は知った。
 不穏な重みに自分の手を見下した男は、その手首に――何かとても不吉な鈍色の素材でできたような、絶望的な枷が嵌められているのを見た。
「まあ、ゆっくりと話そうや、兄弟――」
 枷の端は、そう遠くない場所でへたりこむ男――志賀の手首に嵌められている。
 いつのまにそんなものを嵌めさせられてしまったのだろう、男は未だかつてない恐怖に襲われてナイフを取り落としてしまった。数重ねた殺人への緊張で、とうとう自分にも幻覚症状が現れたものだろうかと。
 志賀は笑う。
 男の顔は、恐怖に引攣っている。



「見れば判るだろう、生まれてからずっとこの家に暮らして、子供のころから貧乏なんてしたことは無かったさ。親父? あいつは人間のクズだね、うちは母さんさえいればみんな上手くやっていけるんだ」
 数時間後、男は志賀に少しずつ己の心の内を打ち明けるようになっていた。
 タナトスの鎖。
 捕捉され、逃げ出すこと叶わぬ男は仕方なしに志賀の相手をしてやることとなったのだ。
「もう、七人殺ったよ。それでも足りない、まだ俺の理想には届かない。どんな奴だって、何回もやってれば少しずつ上手になっていくんだ、『切る』のはさ。でもまだ駄目だ。奴等はすぐに逃げ出そうとするから」
 志賀の質問は、男の気に入ったらしい。この得体の知れぬ男には自分と共鳴する何かがあると感じ取ったからなのだろう。どんなに優秀な捜査官でも、男にここまで口を割らせることは不可能だったに違いない。
 性的高揚感と死を切り離して考えることのできないこの男は、典型的な秩序型殺人犯であると言えた。中の上ほどに裕福な家庭環境にあり、家庭の中では父親が権力を持てない。望むものはなんでも買い与えられたが、きちんとした家庭教育を受けることはなかった。思春期に健全な友好関係や恋愛関係を経験しておらず、専門的知識を必要とする適当な職務を全うしている。
 ――素面の志賀が彼との対話を吟味することができていたなら、己との紙一重を感じていたかもしれない。
「そろそろ結婚をしようかと考えているんだ。相手は離婚経験者で、子供が二人いる。うまくやっていけると思うよ、俺も彼女も愛しあっているから」
 男は照れたように笑った。こうして話しているだけなら、男はごく健全な年頃の青年にも見える。
 がんばれよう、と志賀は男の背中をたたいて笑った。男もそれに応えて、不器用ながらも嬉しそうな笑みを濃くする。
 最初で最後、男が人間らしく笑った瞬間だったのかもしれなかった。
 志賀と自分の笑い声が、複雑に絡み合う。
 それはやがてごうごうと、風が吹き込むような雑音に変わり、



 ガレージの向こうで、けたたましく鳴り響くサイレンの音で目が醒めた。
 何かがせわしなくガレージの扉をたたいている。次いで複数人の男の声がして、男はいかにも迷惑そうにむくりと上体を起し扉を見つめた。
 が、声音がしっかりとその耳に届いてくると、男の顔面は蒼白になる。
「警察だ! ここを開けなさい!」
 大変だ、と男は叫ぶ。おい、警察が来たぞ!
 が、ガレージの中に志賀の姿はない。
 自分の右手を重々しく拘束していた不吉な枷も、今はない。
 男は途方に暮れて、冷蔵庫を振り返った。
 ――夢か空想だったのか?
 ――どっちが……?

 そしてやはり、同じく扉をたたく音で目覚めた男がここにいる。
 自宅のソファでぐったりと、シャツの前をはだけたままで眠りに落ちていた志賀、である。
「志賀さん、志賀さーん! 町内会の会費、お願いします!」
 ああ、とかはい、だとかうう、だとか、在室を知らせるための意味しかなさぬ適当なうめき声をあげて志賀はむくりと起き上がり、テーブルの上に投げ出しておいた財布を掴んで玄関へと向かう。
 会費を取り立てにくるのは近所に住んでいる中年の女性で、彼はこの女性が苦手だ。
 ゴミの出し方や深夜の帰宅をやんわりと咎められたあと、早々に玄関を閉めてしまった。
「ったく……死体遺棄してるわけでもあるまいし……」
 小さく毒突き、テレビのリモコンを付ける。
 どのチャンネルも、今朝がた捉まったらしい連続殺人犯のニュースで持ちきりだった。
『犯人が潜んでいたガレージに置いてあった冷蔵庫の中からは、今までに殺害されたものと見られる七人の女性の遺体の部分が押収された模様です』
『その他ガレージからは、行方不明だった女性が失踪時身に付けていたものと思われる指輪やイヤリング、それに免許証などが――』
 再びリモコンを押して、テレビの電源を切る。
 昨晩は暗闇の中、輝いて見えたあのガレージが、今朝はひどく色あせて志賀には見えたのだった。
 うっとりと、志賀はソファの上で再び目を閉じる。
 キッチンの小さな冷蔵庫から漂ってくる、仄かで甘美な『香り』に包まれながら――。
 
(了)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年07月08日

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