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『戸惑いの在り処 』
藤井・百合枝1873)&藤井・葛(1312)


 その日、藤井百合枝は何も知らない妹宅に気合の入った手作りデザート持参で強襲を掛けた。
 最近、忙しくて顔を会わせる機会が思い切り減ってしまっている。毎度おなじみの『週末の襲撃』はここ最近の残業と怪奇探偵からの依頼による調査が重なって未遂に終わっていた。
 まともに話も出来ていないし、せめて近況報告だけでもと思って生存確認を兼ねた電話連絡をしてみればどうにも様子が微妙におかしい。
 どこがというわけではないが、とにかくおかしい。
 少し前まではそれほど大きく変化はなかったように思えるから、問題があったとすればソレはつい数日の範囲に限られる。
 だが原因解明をしたくとも、一緒に住んでいる『緑の少年』の証言はいまいち要領を得られず完璧な情報収集は望めない。
 ならば時間を作って自分で直接様子を見に行くに限る、という結論に達してからの百合枝の行動は早かった。
 プリンを作ろうと思いつくまでに30秒。冷蔵庫に入っていたものを引っ張り出して取り掛かるのに3分。非常に独創的な食べ物らしきものを『生成』するまでに2時間。
 そして―――
「葛ぁ?邪魔するよ?」
 襲撃先の玄関でチャイムを鳴らすまでの所要時間は最速記録を打ち出した。
「アレ?百合姉?」
 エプロン姿でお玉を手に玄関を開けた彼女は、意外な来訪者に一瞬猫のような瞳をまるくする。
「これ、お土産。自信作だよ」
 突然の訪問に驚きつつも玄関まで出迎えに来てくれた妹の手の上に、百合枝は笑いながらポンっとやや小さめの白いケーキ箱を乗せた。
 ただし、『自信作』とはあくまでも主観の問題であり、それが他者の評価と合致するかはまた別である。
「……ちょっと確認しておきたいんだけど……ねえ、これ、なに?」
 明らかに不審な表情でじっと手の中のものを見つめ、葛が問いかける。
 白い箱からは、どう例えれば良いのか語彙を探すのに非常に苦労するような異臭がほのかに漂っていた。
 たとえて言うならば、生クリームと卵とパンと白米をハチミツと砂糖と抹茶とグレナデンシロップで煮込んだ上、密閉したまま高温多湿な場所で一ヶ月ほど放置したような、そんなものだ。
 原材料の関係で少々エキセントリックな真紫と真緑のプリンがガラスの器でどろどろと揺れている。
「ん?プリンだけど?」
 だが、そんなことは当の百合枝にとってたいした問題ではない。
 夕げの香りが漂う部屋の中へと上がりながら、ごく当たり前に聞かれた内容に答えを返す。
「………ふうん…………」
 そんな回答を何気ない表情で受け止めつつも速やかに冷蔵庫の最奥へと押しやった妹の少々失敬な行為を、百合枝は相手の身体に阻まれて目撃することができなかった。
「ああ、そうだ。せっかくだしさ、もうすぐ晩御飯出来るけど、百合姉、食べてく?いつものクセでちょっと作りすぎちゃってさ」
 背を向けて冷蔵庫前に屈みこんだまま、葛が声を掛けてくる。
「ああ、うん。もちろんご馳走になっていくよ」
 言いながら、居間のテーブルについた百合枝はぐるりと部屋の中を見回し、そこからもう一度妹の背中へ視線を戻した。
「そういやあの子はどうしたの?あんたの傍から離れてるなんて珍しいね」
「……え?」
「いや、だからさ、いつものオリズルランはどうしたんだいって話なんだけど……」
「あ、ああ……あの子か」
「……そう、あの子」
「出かけてる。友達と天体観測行くんだってさ」
「へえ、友達とねえ」
「そ。最近はけっこう交友関係広がってるみたいでさ……たまにひとりで出歩いてる」
「ふうん……」
 本来ならどうということのない世間話のはずが、今日に限って妙に間延びした形でやり取りされていく。
 いまいち妹の反応が鈍いように思うのは気のせい、ではない。
「………あ」
 開けっ放しの冷蔵庫が甲高い警告を発して、そこでようやく葛は扉を閉めて立ち上がった。
 そのままこちらには顔を向けずに流し台へ向かう。
 ガチャガチャと食器の触れ合う音と、まな板や包丁など調理器具を移動させる音が向こう側から聞こえてきた。
 少しして野菜を切る音がそれに続く。
 そんな葛の様子を目で追いながら、百合枝は更に別の質問を重ねる。
「で、あんたは?パソコンの前に大量に本なんか積んでほとんど封印状態なんだけど。これってどうしたのさ?ネットゲーム中毒のアンタにしては珍しいんじゃない?」
 相棒とともに毎夜ネットの海で冒険を繰り広げているアンタがどういう風の吹きまわしだと続けた百合枝に対し、
「…………べつに。レポートに追われてるせいだよ」
 彼女の返答は実に短く、そして実に大学院生らしい優等生的回答であった。
 ただし、包丁を扱う音が微妙に乱れている。それは幾分八つ当たりめいているような印象さえ与えた。
「へえ……レポートに、ねぇ」
「………そう。レポート、だよ」
 卒論に追われながらも毎晩欠かさず冒険を続けていたのはどこの誰だったっけ、と、そんなツッコミを入れたくなる。
 何となく、先程のオリヅルランの少年の行き先に対する回答の時とはまた違う妙な印象を受けるは気のせいだろうか。
 妙にイライラしているような、でもどこかぼんやりと心あらずというような、実に奇妙な妹の姿。
 寝不足で陥る不安定さ、散漫さというよりも、何かが心に引っ掛かったまま、しかもそれが何か分からないが故に捕らわれてしまっているように思えた。
 それは姉としての勘であると同時に、自身が幼い頃より抱いてきた特殊能力ゆえの感覚であったのかもしれない。
 つけっ放しのテレビを見ているようなふりをして、百合枝の意識はずっと葛を向いていた。
 程なくして、料理音はカチャカチャとセトモノがぶつかり合う音に切り替わる。
「おまたせ」
 やや決まり悪そうな表情を浮かべながら、ようやく葛が台所からリビングへと出てきた。
 茶碗に盛られた白米と先程切ったと思われる不揃いな万能ネギを散らした味噌汁、肉が多めの野菜炒めなどが乗ったトレイが運ばれてくる。
 食卓テーブルにそれらを並べる作業を何故か百合枝に任せ、葛は回れ右をして冷蔵庫に向かうと、今度は缶ビールや缶チューハイ、瓶入りのカクテルなどをごっそり抱えて戻ってきた。
「よいしょ、っと」
 ドンッという音と共にテーブルへ大量のアルコール類が乗っかる。
 この時点で完全に食卓のメインは料理ではなくなっていた。
「葛、あんた……なんだってそんなに酒ばっかり抱えてんの?酒、そんな好きだっけ?」
「今日一日すごく暑かっただろ?だからだよ」
「ふうん……」
 そんなふうに応える妹にそっと目を凝らせば、彼女の中に赤と黄の混じりあうチラチラとして小さな棘のように燃えて揺れる心の炎。
「ねえ、葛?あんた、最近なにかあった?」
「べつに」
 一瞬、赤味の強くなった炎が苛立つようにちりりと尖る。
「ほんとに?」
「ほんとに」
 けして愛想がいいわけじゃないけれど、そして少々自分と似てぶっきらぼうではあるけれど、それでも相手を突き放すような話し方はしない子だと思う。
 だから。
 何もなかったなんて言葉を信じられるはずがない。
 何もないどころか確実に何かあったとしか思えない反応じゃないかと、百合枝は僅かに眉を寄せた。
 そして、こんなにも妹の心を掻き乱すとしたら、その相手は自分の知る限りひとりしかいない。
 不敵なのに人懐こくて、危うげで不審としか思えないのに変に人懐こい、アンバランスで妙な諦観の漂う黒服の狼男―――
「あんたさ、あの男のことどう思ってるわけ?」
 百合枝は思い切って、やや伏せ目がちにして俯き加減で箸を進めている妹へとストレートな話題をぶつけてみた。
「……っ」
 ぴくんっと一瞬肩が跳ね、手の動きが止まり、表情が固まった。
 ほとんど反射のような変化は取り繕うことの出来なかった本心の表れである。
「………ネットゲームの相棒だよ」
 明らかに動揺しているにも拘らず、そんな自分の気持ちを何とか押さえ込もうとしている様が能力を使わなくたって見て取れた。
 口数が少ない代わりに、この妹は本当に思っていることが分かりやすく顔に出る。
「……それだけ?」
 だから、追求せずにはいられない。
 夕食の供として出された缶ビールへ手を伸ばしつつ、百合枝は問いを返す。
「アンタにとってあの男ってそれだけなわけ?」
「それ以外のなんだって言うのさ」
 極力なんでもない風を装いながら、葛は自分もビールを開け、それを飲みつつ野菜炒めを口に放り込む。
「さぁ?なんだろうね」
 百合枝は缶ビールをぐいっと一気にあおり、次いで、妹と同じく野菜炒めに箸を伸ばした。
 咀嚼の間の微妙な沈黙。
 会話を再開するタイミングを逸して接ぎ穂を見失ったまま夕食は進む。
 着々と無くなっていく皿の上の料理と、着々と増えていくアルコールの空き缶空き瓶。
 そんな中で、百合枝はそれと気付かれないように妹の顔を盗み見る。
 ほんの少しチカラある翠の瞳を凝らせば、葛の抱えるあの男に対しての惑う『想い』が映し出される。

 どこかに行くなら、どこに行くのか、どのくらい行っているのか、教えて欲しい。
 突然、『ちょっと行ってくる』の一言だけを置いていなくなったりしないで欲しい。
 不安になる。
 今どこで何をしてるのか、思わず考えてしまう。
 何故か、相棒のいない状態でネット世界の冒険へ旅立つのも気乗りしない。
 相手からリアルな世界での冒険譚を聞くたびに、何故かつまらないと思う自分がいる。
 話が、じゃない。そこに相棒であるはずの自分がいないという事実が、つまらなくて、ちょっと腹立たしい。
 どうしてこんなにも些細なことで苛立つのかは分からない。
 もしかすると自分は自分が彼の相棒でいる時間を当たり前だと思いたいのかもしれない。
 でも、その理由は知らない。
 どうしてこんなふうに感じてしまうのか、自分が本当は何を望んでいるのか――分からない。
 この気持ちに、名前をつけたく、ない………

 百合枝に視たのは、戸惑い、あと一歩の踏み出しが出来ないままずっとそこで足踏みをしているもどかしい少女のような心の揺れ。
 卒論が間近に迫っていたあの頃から少しずつ変化していく2人の距離を、自分はひどく複雑な心境で眺めてきた。
 正直、可愛い妹におかしな虫がつくのは許せない。
 普通ならば知ることのない裏側を渡り歩けるような男をそうそう身内になんて近づけたくはない。
 もしもそのせいで葛の身に危険が及んでしまったらどうするつもりなのか。
 最悪の結果を招く可能性だってゼロじゃない。
 大事にするから心配するなと、全然大丈夫じゃないへらっとした笑顔で請け負う姿も引っ掛かる。
 そしてなにより。
 そう、なにより。
 あの男は既にヒトではない時間を刻んで久しいのだ。
 そのことがいつか葛を深く傷つけることになるかもしれないという不安が、常に自分にはここにある。
 それでも、葛があの男をただの友人としてしか見ていないなら話はそこで終わるのだ。
 だが、妹の心は少しずつ、本当に少しずつ『友情』から別のものへと変化している。
 認識が、ただの友人という枠を超え始めているのが傍から見ていると良く分かる。
 そして、あの男が思いのほか誠実でお人よしで、そのうえ勘違いも多いけれど他人の感情に敏感で、実はひそかに淋しがり屋だということも知って。
 もしも葛にとって大事な存在となりうるなら。
 ちょっとだけ男の努力に免じて認めてあげてもいいかもしれないと、本当にひっそり微かに、たとえるならマッチが燃え尽きる瞬間の僅かな残り火くらいには思い始めているのだ。
 だからこそ、いまの葛の心は自分にとってもどかしくてたまらない。
 チラチラと棘のように揺れる炎は持て余し気味の恋心からくるものじゃないのかと、そんな指摘をしたくなる。
 けれど、まだ葛は望んでいない。
 自分の気持ちをきちんとした言葉に変換して自覚することを望んでいない。
「……ふぅ」
 溜息と共にビールの空き缶がまた追加される。
 夕食も確実にお腹の中に収まっていく。
 そして、あれだけあった食料は数本のアルコールを残してキレイに消えてしまった。
「百合姉はそこに座ってて。ちょっと食器下げてくる」
 空になった皿を重ねると、葛がそれを抱えて立ち上がる。
「ん……悪いね」
 酔いが回り始め、次第にまとまりもとりとめもなくなる思考の中で、百合枝はぼんやりと流し台へと向かう妹を見つめた。
 男女の恋愛は実のところ自分もよく分からない。
 ヒトが抱える心の裏側が見えてしまうからこそ躊躇うことが多すぎて、そうそう本気になんてなれなかった。
 だから結局経験なんてほとんどしないままこの年まで来た。
 妹とあの男は一体どうなるのだろう。
 何となく、見ようと思えばその結末も見ることが出来そうな自分が居る。
 でも、ヒトの心は移ろいやすい。
 ヒトならざるものの心は移ろわない代わりに頑なに閉ざされていることが多い。
 でもいつか葛自身が望んで前に進みたいと思える日が来たら、その時はもしかしたら少しは力になれるかもしれない。
 もう十年以上も昔、同級生に苛められていた自分を幼い葛は小さな身体を張って庇ってくれた。
 百合枝の気持ちを精一杯護ってくれた。
 だから今度は自分が、妹の気持ちを護りたい――――
 たったひとりの妹の理解者になりたい。
 なれると、思う。
「………んん……っ」
 いつのまにか、ふわふわとした浮遊感のようなものがゆったりと百合枝を包み込んでいた。
 ゆらゆらと身体が揺れる。
 僅かずつ意識が自分から遠退いていく。
 百合枝はカクテルのビンを握ったままずるずるとテーブルの上に伸びていき、そのままゆっくりと瞼を下ろした。
 
「アレ、百合姉?潰れちゃった?」
 様々な葛藤を繰り返しながら、それでも何とか食器を片付け、気持ちに折り合いをつけて戻ってきた妹の声を、百合枝はどこか遠くで聞いていた。




END
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2004年07月05日

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