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『はぐれ雲 』
ぺんぎん・文太2769

 この世界は苦しみに満ちている。
 生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。
 怨みある者と会わねばならぬ事も、
 愛する者と別れねばならぬ事も、
 また、求めて得られぬ事も、
 まことに執着を離れ得ぬ人生はすべてが苦しみである。
 
 逆もまた正なり。

 この世界は喜びに満ちている。
 苦しみか、喜びか、其れは紙一重。

『迷わぬ者に悟りなし』
 
 一重に気の持ちようで御座います。

 兎角この世は泡沫の夢。
 隴を得て蜀を望むが如し果ての無い道。
 塵と消ゆる儚きものよ、全ては風に溶融し決して一所には留まれぬ。
 季節が移ろいゆくやうに永久など存在(あ)りはしないのだ。
 然し、忘るる事なかれ。
 形あるものが滅し、手にするもの全てを失くすとも、変わらぬ情と、未来(あす)は残るのだから。
 
 譬ひ世が逆さまになって、涼やかな月が炎となり、熱き太陽の凍てし日が来ようとも、世の常が変わる事はない。


□■


 ぺんぎん・文太(―・ぶんた)がこの世に生を受けた寛文11年(1671)頃の日本は江戸時代と呼ばれ、我が国の歴史の中でも長きに渡り安定した執政が続いた稀有な時代である。
 四代将軍・徳川家綱は三代・家光の長男で、急逝した父に代わり慶安4年(1651)僅か11歳で将軍職に就任。
 当時は数え年であるので現代の年齢に換算すると一つ、或いは二つは若くなる。
 幼い故に将軍に就いた当初こそ慶安事件などの政情不安に見舞われたが、叔父である保科正之をはじめ才覚ある補佐を従えて危難を乗り越え29年間の安定政権を執った。
 因みに、保科正之は言わずと知れた会津藩の初代藩主である。
 二代将軍・秀忠のご落胤で、武田氏ゆかりの信濃国・高遠藩主である保科正光が預かり自身の子として養育した。
 家光は、この謹直で有能な異母弟を事のほか可愛がり、寛永13年(1636)には出羽国・山形藩20万石を、寛永20年(1643)には陸奥国・会津藩23万石を与えた。
 正之は幕府に先駆けて殉死を禁じるなど精力的に藩制を改革。
 その他、家臣団編成、税制、義倉・社倉づくりに努め、備荒貯蓄と殖産興業に勉めると共に、朱子学を奨励し文教を勧めるなど実(まこと)に名君であった。
 彼の定めた「会津家訓」は会津魂の根底と呼べるものであり、その精神は幕末まで脈々と受け継がれ、哀しいまでの頑(かたくな)な忠義は戊辰戦争での大きな悲劇を引き起こすに至ったのではあるが、清廉実直な会津の気風は今尚人々を魅了して止まない。

 急激に変わる時世に、いくつもの転換期。
 轟音に揺らいだ温(ぬる)い大気、焦げた壌や空、或いは黒い雨や荒ぶる水火に、ただ哭く稚児。
 通り過ぎる数多の時代は、いくら紙面に墨を載せても真実は語り尽くせず。
 ふと気付けば江戸が明治になり大正から昭和へと移り、平成の世になっていた。
 ――そんな訳で、文太は幾重の時節を見守ってきた文字通りの『生き字引』であるのだが――。
 
 何処でどう生まれ、如何ような青春を過ごしてきたのやら今となっては知る者は只の一人も居ない……ハズ。
 何せ、ちぃとばかり長生きだ。“生きてる”って表現が正しいかどうかは、この際置いといて。
 とは言っても此処は怪奇ワンダーランド東京である。
 愉快極まりない奇奇怪怪が漫ろ歩きをし、我が物顔で闊歩もする。
 中には文太の昔馴染みの知己も居たりはするのだが、なんと言うか矢張り類は何とやら――幾分変り種というか……言わぬが花というものか。
 都会の街は彼是(あれこれ)詮索をしない。唯一それが暗黙のうちの最低限のルールのようなものだ。
 今まで別段問われた事も無かったし、当の本人でさえ己の出生などまったく覚えておらず……まぁ、昨日の夕餉も覚えていない状態なのであるからして当然と言えば当然なのだが。
 ついでに言えば、既に朝餉のメニューも忘れてしまったが、忘れたからといって困る事はないので気にしない。
 もし文太に人並みの記憶力があったのならば、教科書に載った近世歴史が覆される事も大いに有り得るのだが、生きた歴史が語られる事はない。
 如何せん若い時分から一足進める毎に色々な記憶がぽろぽろと抜け落ちていく。
 上手く出来たもので、ぽろぽろと抜け落ちていく先からぽろぽろと騒動が起こるのでいつだって許容応力はギリギリ満杯だ。
 逆に見るなら騒動が起こるが故に忘れていくのであろうか。 

 そんな文太も愛用の煙管を呉れた友と温泉の事は決して忘れない。
 ペンギンと言えば南極に代表されるように“寒冷な気候に適した鳥”と思われがちだが温帯から亜熱帯にかけて生息する種もおり、生態も一様ではないようだ。
 それと言うのもペンギンの生態は現在でもまだわかっていない事が多いのである。
 南極は然り、温暖な地方に住まう彼等もフィヨルドの切り立った崖に住んでいるなどの理由から継続的な調査を行うのが困難であるからだ。
 過酷な土地に生きる――それは着の身気のまま、花の都・大東京に生きる文太も同じであろうか。
 彼は“もののけ”であり更には“温泉ぺんぎん”なるものであったりするので判断の難しい所ではあるが。

 探し疲れて立ち止まり、やがて再び歩き出す……ゆっくりと、けれど確かに。
 そうこうしている間に、何を求めての旅だったやら目的は忘れど。
 大空に浮かぶあの雲のように、ただ、ゆるりと。
 文太の旅は続く――。


□■


 ぺたぺたぺた。
 温泉ペンギンが一人。いや、一匹? ……一羽か。
 どうしたものか、気付けばふらり賑わう街の中。
 何故にこのような場所へ赴いてしまったのやら皆目分からないが、このような事は日常茶飯事である。
 殊更慌てる様子もなく視線を上げてきょろきょろと頭を左右に振った初老の彼は思慮深く、慌てず騒がずが信条である。信条というよりは性質(たち)と言うべきか。
 妙齢の時分はどうやったやら知れぬが、すっかりイイ年齢になった今となっては一種の悟りを開いているようだ。
 参考までに、イワトビペンギンは犬や猫よりは長生きで、飼育下のもので最大寿命は25歳程であるという。
 文太は殊に長生きである。“生きてる”かどうかは考えちゃイケナイ。こうして存在しているのは確かなのだから。

 梅雨の晴れ間のこの日は、近頃は濡れてばかりのアスファルトが日差しに焼かれてはいるが、湿気が重く漂っており蒸し蒸しと暑い。
 夏本番に向け徐々にその力を発揮しつつある太陽光線を受けて茹だる様な暑さである。
 じっと立っていてさえ汗が滲み出て、このままでは蒸しペンギンになってしまいそうだ。
 目の上の特徴的な黄色の羽飾りからツンツンと後ろに突き出し立ったスーパーハードな頭頂部の毛も心なしかションボリと萎えてみえる。

 こんな日は温泉に限る。

 と文太は思う。
 こんな日でなくとも、いつだって温泉を求めて止まない文太ではあるが暑い日の温泉はまた一興である。
 さて、それでは……と湯煙目指して右足を浮かせた、その時。
 いと恐ろしい事が起こった。
 文太は気付いていなかったのだ。自分が居るこの場所が何処であるかを。
 そして今日という日が一体どんな日であるか、を。
 それに関しては、気付いていなかったと言うよりは“知らなかった”という事になるのだが。

 ドドドドドドドドドド――

 まるで地中から湧き出すマグマのような圧倒的なパワーと熱気が押し寄せる。
 文太はその勢いに呑まれた。
 取り囲む数多の足に流されて抗う事も出来ずに攫われてゆく。
 その様子を的確に表現するならば『桜島大根の乱舞』――圧巻である。
 文太が先程まで立っていた場所はデパートの前であり、そして本日は夏のバーゲン初日であった。
 日本海の荒波よろしく、奥様達の逞しい足に否応なしに連れ去られ息も絶え絶えの文太はデパートの中。
 程よく踏まれ、程よく蹴られ、まさに踏んだり蹴ったり。
 それもまた、可憐な少女の細い御足などではないのだから肉体的にも精神的にもダメージは大きい。
 一昔前は『男は度胸、女は愛嬌』などと言ったものであるが……今となってはすっかり逆になってしまった。
 これに続く『坊主はお経』ですら怪しくなってきた昨今、テープで自動に経が流れる寺などもあるらしい。
 世の中が便利になれば成る程、逆に人間らしさを失っていくのは皮肉な事だ。
 そういった意味では、この状況は情緒的とも言えなくはない。
 これ程の力があるのならまだまだ日本も安泰だ、などとしみじみと思う文太は相変わらず籠の中の鳥ならぬ足の中の鳥。
 包囲する足は頑丈でとても逃げ出せたものじゃないので流れに逆らうのは元より諦めている。その辺、伊達に長生きじゃない。
 やっとの事で解放された文太が肉塊の密林を抜け出すと、そこは広いフロアだった。
 ぺたぺたと歩き立ち竦む。
 目の前のエスカレーターの横には店員が立っており訪れる客に丁寧にお辞儀を繰り返している。
 背後ではワゴンを囲んだ野獣達の戦いが始まっている。
「…………」
 前門の虎に後門の狼。
「…………(汗)」
 文太、大ピンチである。
 殺気立った奥様連中は勿論の事、店員に見咎められるのも色々と厄介だ。
 都会のデパートにペンギン出没なんて事になれば警察沙汰や下手打ちゃ保健所に通報されかねない世知辛い世の中なのだ。
 うっかりテレビ局に情報が入れば妙な名前を付けられプライベート侵害しまくりで追い掛け回される事も有り得る。
 その挙句、流行語大賞になったり住民票まで発行されたり……ありがた迷惑も甚だしい。
 ある意味日本は平和だ。
 兎に角、このままでは駄目だときょろきょろと辺りを見渡すが、どうも具合が悪い。
 歴戦の兵が目を血走らせ次々と乗り込んで来るし、開放的な店内はサバンナのようだ。
 
 ぺたぺたぺた。

 なんとか危機を脱出しなければ。そう思った文太の尻尾がクイと引かれる。
 恐る恐る振り返っても何も居ない。
「……?」
 首を傾げた文太だったがクイクイと確かに引かれる尾。
「だぁーっ」
 随分と下から聞こえた声に足下へ視線を向けた文太と目があった赤ん坊が涎まみれの顔を上げて笑った。
 今日は厄日かも知れない――。
 

□■


 ぺたぺたぺた。
 ずりずりずり。
「…………」
「だぁ〜」
「…………」
 ぺたぺたぺたぺたっ。
 ずりずりずりずりっ。

 はぁ、と溜息を一つ。
 そんな文太の様子に赤ん坊は「きゃっきゃっ」と声を上げて笑う。
 すっかり文太にご執心のようで、移動しても這って追ってくる。
 赤子の腕の筋肉というものは侮れない。いくら優れた兵士と言えども匍匐前進では赤子に勝てない気がする。
 いかにスピードを上げようとも必死に追いついてくる姿は健気でもあるが……今の文太には酷く厄介なお荷物だ。
 そもそも母親は何をしているのか。いや、何をしているかは分かるが。
 文太の心など知らず、戦場の迷い子は極上スマイルである。
 困った事に問題が増えてしまった。

 一、赤ん坊を無事に母親に返す事。
 一、デパートから無事に脱出する事。

 殺気立つ奥様連中に近付くのは自殺行為である。腹を空かせたライオンの檻に飛び込むよりも危険だと思われる。
 ここは一つ、店員に赤ん坊を渡す事にしよう。文太は心に決めて頷いた。
 さて問題はその方法だ。
 警察沙汰や保健所通報は困るのだ。と、なると文太が見付かる訳にはいかない。
 ふと見るとエスカレーターを過ぎた奥に階段があった。丁度、文太がいる今の場所からまっすぐの方向である。
 文太は一大決心をした。
 売り場にあったスカーフを身体に巻いて、つばの広い帽子を深くかぶりスタンバイOK。
 これならペンギンだとバレる事はあるまい。いや、怪しいのに変わりはないがこの際ペンギンだとバレなければいいのだ。
 持ち歩いている檜の湯桶の中から筆ペンを取り出し手漉きのちぎり和紙に『迷子』と達筆に綴ると赤子のもこもこの尻にペタリと貼り付けた。
 それを片腕で抱え上げエスカレーター脇の店員に近付く。
 ぺたぺたぺた。
 徐に赤子を差し出して強引に引き渡す。
「赤ちゃん……あの? お客様?」
 戸惑う店員に「よろしく」とばかりに片手……(正確には羽である)を上げる。
 店員は大層困ったように赤子を抱いていたが尻の紙に気付き、
「……迷子?」
 更に首を捻った。そして、再び文太に視線を戻す。
「あの……お客様、大変失礼ですが……」
「……(汗)」
 胡乱な視線を向けてくる店員の言葉を最後まで聞く事無く文太は前方の階段目掛けて猛ダッシュ。
 あまりのスピードに店員の思考も追いつかなかったようで、その場で呆然と見送っていた。
「……一体何だったのかしら?」
 ペンギンですが。
 
 階段を一気に駆け下りた文太は命辛々といった感じ。
 まったくもって今日はツイてない。絶対に女難の相が出てたに違いない。
 そして、本日の文太のラッキーアイテムはスカーフか帽子だったのではなかろうか。いや、何となく。
 何とか危機は乗り越えたようである。階段を利用する人は少なく、誰にも会わず一階まで到着できた。
 階段の端っこに丁寧にたたんだスカーフと帽子を置いて、感謝とお詫びの一礼を済ませ、首をひょっこり出して出口を確認。
 出入り口には矢張り店員が立っていて突破するのは難しそうだ。
 近くにはサービスカウンターなるものがあり、これもまた厄介である。
「…………」
 一体どうしたものか。困り果てた文太であったが神は彼を見捨てなかった。
「ちょっと! 商品券が使えないってどういう事?」
「ですから、こちらの商品券は発行元が破産致しましたので誠に申し訳御座いませんがご利用頂けない事になっております」
 耳に届いた怒鳴り声に文太が再び顔を出し覗いてみると、中年の女性がサービスカウンターに詰め寄っている。
「ちゃんと説明してよ! 『全国百貨店共通商品券』でしょ! 使えないなんて納得できないわ。責任者呼んで、責任者っ!」
「お客様、落ち着いて下さい。ご利用は出来ませんが国から発行保証金の還付を受けることができる制度がございますので……」
「煩いわね。落ち着いてるわよ。いいから責任者呼んでって言ってるでしょ!」
 サービスカウンター付近は俄かに騒然としている。
 全国百貨店共通商品券は、それぞれの百貨店が発行元になって発行しているものであり、発行元の百貨店が他の百貨店で利用された券の代金を支払う契約のもとに、相互に取扱いできる仕組みをとっているのである。
 その為、当然ながら発行元の百貨店が破産した場合等には、他の百貨店でも利用できなくなるのだ。
 それを知らなかった客が憤慨しているようである。
 文太にとってはまたとない好機。
 対応に追われる店員の目を潜り抜けて店外へと脱出に成功した。

 ぺたぺたぺた。

 ――疲れた。
 今日はなんとスリリングな日だったであろうか。
 これはもう誰が何と言おうが今日は温泉である。しかも湯上りにフルーツ牛乳も飲んでやる。
 そう心に誓った文太は再び湯煙を求めて歩を進めた。

 探し疲れて立ち止まり、やがて再び歩き出す……ゆっくりと、けれど確かに。
 そうこうしている間に、何を求めての旅だったやら目的は忘れど。
 大空に浮かぶあの雲のように、ただ、ゆるりと。
 文太の旅は続く――。




=了=





■■□□
 ライターより

 ぺんぎん・文太さま、はじめまして。幸護です。

 この度はご指名頂きまして有難う御座います。
 文太さんがとても愛らしく心癒されました。
 イワトビペンギンと言えば、CMでも話題になったペンギンさんですよね。
 外見もなかなかハードですが、警戒心が強く攻撃的で気性も激しいのだとか。
 文太さんも若かりし頃はそうだったのでしょうか?
 今は悟りを開いてらっしゃるようですが(笑)

 今回は日本女性の逞しさに翻弄されて、いきなりの大ピンチだったのですが
 何とか無事に生還できました☆
 午前中からお疲れなので早く温泉でまったりできると良いですね。
 文太さんの愉快な旅、これからも応援しております。


 幸護。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
幸護 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年07月02日

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