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『青猫 』
刀儀・紅葉0697

 ここには一疋の青猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。(萩原朔太郎『青猫』より)

 ◇

 青猫が青猫と呼ばれるのは名前どおりの生き物であるからで、全身の体毛がにぶい青色をしているせいなのだが、そのいろどりからは春の海や夏の空のようなきよらかな印象をうけるでなく、秋の潭・冬の沼のぬめりやよどみ、にごりを感じさせる、わずかでも手をつけたら最後、指先からえたいのしれぬ水藻がからんで腕をつたい口にまでのぼり、ついには肺いっぱいまで犯されそうな不気味さがある。だが見た目の問題なぞは青猫にはいくらの責任をないことだし、青猫自身とて割れた陶器の欠片分も気にしない。そもそも、青猫は人目にふれぬ猫である。
 今宵も青猫は、そぞろにあるく。猫の歩みは音をともなわず、全の休符を搏動とする。青猫がしなやかな胴をくねらせるたび、無音が薄闇に同心円を幾重にもえがく。
 道の幅はひろい。青猫の体を基底としているからというわけではなく、ほんとうにひろい。象や巨人の主観からしても広大といえるだろう、道のはじに歴とした仕切りがあるわけでなくかたわらの野辺へゆぅるりと消失しているため、世界のすべてがこの道と同化したような錯覚をおぼえるからだ。故意と作為を永い時間かけてかためた整地もいつかは容赦なく自然の侵攻に呑まれる、無慈悲な色相の変調。野では背丈のひくい草茅たちがお互いをなぜるようにゆらいでいたが、なぜだか葉擦れのささやきはなく、やはりどこまでも寂寥がしんしんとつみあがってゆく。野のところどころ、妖異のスケルトンめいた樹影が散見される。あれはすべて柳だろうか。枝には烏が羽をやすめている。数は多い。一、二、三、四‥‥ところが彼らは群れをなしてはいないようだ。一羽一羽の間隔がひどくよそよそしい。当然、仲間うちの会話はなく、ここでも音や響きといったものは肩身をせまくして息を詰まらせていた。
 青猫は歩く。
 けれど、ふと、足をとめる。ふと、冷風が吹きすさぶ。柳がそよぐ。
 烏が暇つぶしに羽をはためかせると、そこではじめて音ができあがる。ひっぱたかれていやいやをするように、大気は身をおおきくよじる。風は旋風に転生する。翼のすすりなきは、パンドラの箱を飛びたったマイナス記号と同じ逃亡の速度で、世界中に散らされた。
 青猫は見た、アーモンドの型の瞳を光らせて。道の中心に男がいる。いや、男というよりは、まだ少年といってもよい年齢の外見をしている。旋風は少年にも同等に吹きつける。左にまとめた長めの黒髪が飾り紐といっしょになって水平になびき、少年をどこかへ連れ去ろうとしているようにもみえる、といっても、この世界はトーラス状の永遠を法則としているので、世界の果ては現在地となんら変わりはないのだが。しかし少年は頓着しない、むしろ喪神している。夜明けの白露のようなはかない顔立ちには爪の先ほどの表情も浮かんではいない。ただぼんやりしているというのではなく、五感の中絶、喜怒哀楽の終息、自己決定の停止、認識と判断と洞察の遺棄――ブレイク・ダウンしている。
 要するに、ここにあるのはできのよい少年の輪郭をそっくりうつしとった『殻』なのである。ミルク飲み人形のほうがまだ未来はあるだろう、彼(もしくは彼女)は愛されるために創製されたのだから。おなかがいっぱいになったらおねんねの時間よ。横にされて、精緻なしかけまぶたをおろす。すきまだらけの体を物質以外でいっぱいにする。彼、もしくは彼女は満たされた。
 しかるに、この殻にはもうなにも注ぎ込む余地はないのである。すでに何かが飽和しきったせいで、殻のあちらこちらにぎざぎざのとがった罅が入っており、まるですきまだらけの遺蹟をかわいた風が吹き抜けるがごとく、別の何かを流れいれたとしても一滴とてなかにはのこらない。容れ物としての用途にすらつかえないのだ、だからこれは『殻』としかいえない。
 ‥‥しかし、やはり青猫にはなんの関係もないことだし、係わり合いになるつもりもなかった。
 ついと、青猫は少年を越す。すると、このかぎりのない道の中央を、ぐんにゃりと覇気のない物体が彼の行く先をさえぎっている、それは殻とおなじく人型をとっており、つまり横たわっている、倒れている。覇気のないのも道理で、生きてないからしかたがない。
 からからと水車が回るようにして規則正しく放散される熱、胸の辺りの紅はつつましい手順でふちどりを地へだんだんとひろげ、亡き骸はわきめもふらずに戻れぬ死へむかいつきすすむ。完全な絶命だ。無欠の屍躰だ。青猫はすこし感心した、こんなにも手際よく再生をきりはなした図像はひさしぶりに拝見したから。
 死者の顔はうつぶせられてるのでよく分からないが、少年の殻とよく似た髪質の少女だということはあたりをつけられた。それで青猫はなんとなくふりかえってみたのだが、殻は視界をふさがれているようだ。殻自身のみだれた前髪が濡れた額にべっとりとはりついている。
 赤かった。
 かわかない血が、殻の白磁の額から自力では閉じられない眼球へ流れ込んでいる。
 只人ならさすがにすこし身じろごうが、やっぱりこれは殻なのだ。もうひとつ動かぬもの、これは屍躰、なんとまぁ分かりやすい命は遠くにいってしまったことだろう。青猫はひどく悲しくなる。この世界、生きているものは己だけだと知ったから。ひとりを淋しいとは思わぬが虚無は悲しや、悲しは慈愛、あぉん、と猫の声を天へと引導する。暗い空が波打つ。
 それに反応したか、青猫のみるかぎり初めて、殻が動作する。といっても、それは青猫の悲しみとくらべれば、あまりにかすかな所作である。機械的にじじじと空を仰ぐ、それだけ。脇へ流れた血が、ぽつ、ぽつ、と道へ小さな染みをつくる。にじむ。
 暗色の空には月が出ている。
 青猫のように、青い月だ。
 月はことばもなく光っている。それ以外のことは、なにもしない。神のごとく、なにも救いはしない。その下、はるかに遠い底で、悲しみを終えた青猫はふたたび歩き出して、殻はとりのこされる。
 たったのひとり。
 いつまでも天を仰いでいる。殻にはなにも見えやしなかったけれど、どうせどこをむいてもそれはおなじなのだから、いつまでもそうしていた。彼は殻だから。誰かに修正されなければ、時のすぎるままに朽ちてゆくだけ。崩れてゆくだけ。
 けれど誰も、道を通りはしない。
 きっと青猫以外は、もう、ここを訪れはしない。

 ◇

 目醒めにじったりと不快な湿度をかんじて、跳ね起きた。寝汗だけがその理由とは思えず、窓をおおう紗幕の切れ間からまぎれこんだ光を頼りに、夏布団を一度二度ならず引っ繰り返したり明かりにすかしたりしてみたが、そこからはたいした異様のしるしは見あたらない。飽きたらず、今度はシングルベッド全体を点検したが、あたらしくなにかを発見するわけがなかった。
 あるとするなら、それは自分の内部だ。悪いものを夢から連れ出してきたような不安が、胸のたまりによどんでいる。
 刀儀・紅葉(つるぎ・こうは)は己の表面に手をあてる。爪をたてて掻きだしてしまいたいくらいに気味の悪いよどみだったが、そんなことはできやしないから、ひたむきにそうやってこらえる。あたたかい――自分自身の体温になぐさめられるとは、ずいぶんとナルティシズムな趣味だが、紅葉に他の手段はない。悪い夢をみたと‥‥誰かに泣きついたとしても事実が消えるわけでなし。ならば、そんな恥さらしな真似はできない。だいじょうぶだ。もっと痛いことは他にある。
 やがてすっかりではないが、だいぶん不安が闇に溶け出したころ、衝動ともいえないふとしたできごころにかられて紅葉は窓辺へちかづいた。硝子戸を開け放すと、夜風が部屋に迷い込み、紅葉の躰から熱をうばう。初夏とはいえ、夜半である。涼しいというよりは、寒い。しかし紅葉は窓を閉じなかった。カーテンが胸苦しそうに、輾転反側する。
 猫の鳴き声が聞こえたような気がしたが、窓の外、おかしなものはみあたらない。澄み切った夜空で、遅い月が貞淑なようすでほほえんでいるだけ、まるで花嫁のようにという連想は今が6月という故か。
 月。今日の夢にもあった。
 今日ばかりでなく、昨日も、一昨日も、一昨昨日も。もしかすると明日も。
「‥‥違うな」
 繰り言は無限大にひろがって、紅葉の思った以上にひびく。紅葉は自分の声、わずかにおびえた。静寂をみだすのが非常な罪に思えて、だけど無人の箇所に罪の成立しようはずもない、罰もない。それはただの錯覚だ。一夜すぎれば醒めてしまう夢のようなもの。己の裡側をふりきる。
 違う。あの月は、夢の月とはちがう。色も形もかかる雲の厚みすら似ていようが、まったくべつものものだ。これは現実の満月、それだけであるということが、すべての基盤にして充足をなす。
 だから、夢の彼女はあくまでも夢のものでしかない。夢がどれだけ生々しかろうが、夢で血にえがかれた赤がまぶたのうらに消えない絵画をきざみつけていようが、夢で額を濡らした流動の感触が現実の発汗と同化しほとんど変わりなくなっていようが、あれはぜったいに、ただの、それだけの夢だ。
 現実の彼女は、生きている。
 今。
 だから、これからだって殺させはしない。
 紅葉は窓辺からひきかえし、部屋のかどのデスクにむかった。足元をさらさらとひろがる月のかがやきは、風に吹かれた砂のようにさんざめく。ちょうど10歩でたどりつき、机の上の白玉髄をてにとった。半透明の無地のめのうはとろりとけぶった光をはなち、いまだ魔睡におちいっているようにもみえる。ちょうど、紅葉とは反対に。月光にさらしても、あかるさはほとんど変化しない。猫の仔をなだめるように、記憶の糸をたぐるように、おそるおそるカットのラインに沿って、なぜる。一度、二度。酷薄ともいえる冷ややかな石の感触が、紅葉の無意識的な昂奮をなぐさめたので、紅葉はふたたびおちついて窓のほうをふりかえることができた。
 ――‥‥現実の月は、うたかたの月とは似ても似つかぬが、現実の彼女をいくらか彷彿とさせた。たとえば、月、その光は日輪とくらべればあまりにかよわくおもえるが、実際にその光は闇へはかなくなることはない。太陽は碧空でしかその姿を維持できないのに、月はときに淡いながらも昼のすみにぽかりと浮かぶ。
 とてもとても無常で、それでいて、堅牢。
 しかし、現実の彼女はけっきょくは人であるから‥‥人は死をはらむ。それに背をむけることの愚かさ、卑怯さ、紅葉は目を閉じられない。夢に意味をむりやりにでももとめるとするなら、警告だ。警告を無視するのは、おそれを知らぬ子どもか、ほんとうの不幸に気づかぬもののすること。
 だからせめて。目の前であんなふうにはさせない、と。
 誓う? なにに?
「‥‥月、しかないか」
 現実の。
 ここにあるものに。
 紅葉は、てのひらでもてあそんでいた『羽々斬<ハバキリ>』を机にもどした。どうやらずいぶんと汗をかいたらしく、喉が渇いている。気分直しに、シャワーをあびるのもいいだろう。寝間着も着替える、そうしていろいろを新しくしてベッドにもぐりこめば、スプリングのきしみがなつかしく紅葉を出迎える。もう、夢も見ずにぐっすり眠れる、朝まで。
 瞬時にたてた計画を実行すべく、紅葉は部屋を出た。扉の音が夜気よりもひそやかにまわる。

 ◇

 だけれども、夢と現のはざまでは、
 青猫がうすごおりのように嗤っている。


※ ライターより
 たいへん遅くなりまして申し訳ございません(いや、それだけでなくって‥‥)。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
紺一詠 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年07月01日

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