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『堕落と愉悦と切望の狭間 』
咎狩・殺3278)&蓮巳・零樹(2577)


 昏い闇の底でひとり、紅の色彩に包まれた少女人形はひっそりと濡れた唇に笑みを浮かべる。
 瞳に灯る情念は果てしなく猥らで果てしなく艶かしい。
 そうして悦楽を与える白い指先が、悦楽と狂気を閃かせてゆっくりと獲物へ差し伸べられる。

 ねえ、私を――私だけを、愛して―――



 数多の囁きに囲まれて、今日も日本人形専門店『蓮夢』ではヒトならざるモノたちがゆるゆると時を刻み続ける。
 7月の強烈な日差しが石膏の肌を苛むのだと、主である蓮巳零樹へ向けられた人形達の要求によって、現在店の窓にはブラインドが下げられている。
 薄暗いその奥で、零樹は人形の代わりに住み込みで手伝いをしてくれる少女――髑髏の人形を抱く咎狩殺の髪を梳いていた。
 ふらりとやってきて、ここが気に入ったからしばらく世話になると言った彼女に、居たいだけいればいいよと告げて『雇う』のではなく『買い取った』のはいつだったろうか。
 椅子に腰掛けた彼女の流れるような黒髪の手触りを楽しみながら、零樹はふと過去を振り返る。
「そういえば……今日って七夕、なのね」
 微かに差し込む夕暮れの赤い光に自分の指を染めながら、殺はふぅっと目を細めて呟いた。
 口元に浮かぶ蠱惑的な微笑に僅かな憂いが潜んでいるように思えるのは、ただ黄昏の光が見せる幻なのだろうか。
「せっかくだし、ちょっと遠出してみようか?河川敷で祭りをしてるはずだからさ」
 零樹は結った少女の髪に小さな花飾りを刺して、そうして背後から何気ない誘いをかけてみる。
「七夕祭り、行ってみるのも悪くないと思うんだけどね。どう、殺ちゃん?」
「そう…そうね。うん、悪くないと思うわ。これってデートってことになるのかしら、ご主人様?」
「んー……デートっていうのに異論はないけどその呼ばれ方はちょっと嫌かもねー……人聞き悪いから」
「あら?キミは私を買ったのに?」
 肩越しに零樹を見上げる殺をまっすぐに見つめ返し、
「そ、買ったよ。だから僕の嫌なことはしないでねー」
 それからくすくすと互いに小さく笑みをこぼしあう。
 それはまるで蜜事のように妖艶で、同時に幼子の戯れにも似ていて。
 少女の腕の中で髑髏人形もカタカタと嗤った。


 市の祭りは思いのほか盛況で、ずらりと並んだ頭上の提灯や夜店、川のせせらぎと混じり合う人々の話し声がいっそう雰囲気を盛り上げている。
 だが、袖が触れ合うほどに込み合った人々の中でも零樹と殺は埋もれることなく、むしろ無数の視線を惹きつけていた。
 浴衣ではなく色鮮やかな着物をまとってそれぞれに人形を抱くたおやかな2人を、すれ違う誰もが一瞬で魅了されて視線を外せず振り返っていく。
 時折羨望とも欲望ともつかない色が混じることもある彼らの視線を、零樹は些か煩わしげに、そして殺は実に愉しげに受け止める。
「嬉しそうだねーキミ」
「あら?悪い気はしないじゃない。自分の感情に正直なヒトは大好きよ?」
「正直、ねぇ……ま、とりあえず今は僕とデート中なんだから、目移りはなしにしてよね」
「大丈夫よ、ご主人様」
 無遠慮にして恍惚とした視線に晒されながら2人はイベント広場へと向かう。
 人通りに比例して広く取られた道のおかげか、短冊を掲げた笹まではそれほどの苦労もなく、むしろ流れに添うことで容易に辿り着くことが出来た。
「イイモノ発見」
 うふふ…と愉しげに笑いながら何かを見つけたらしい殺に手を引かれるまま、零樹は人垣を掻き分ける。
 いくつかのヒトの壁を乗り越えた先に、今日のためにと設置された願い事をしたためる短冊と机が用意されている場所が見える。
 そこにはカップルと思しき男女や子供たち数名がその前で何事かを囁きあい、時に軽く小突きあいながらはしゃいでいる後ろ姿も確認できた。
「どう、零樹?書いていかない?」
 目を細めておかしげにそんな人間達を観察していた殺が、首を微かに傾げて見上げてくる。
「ん?んー……この年で願いごとなんて言われてもねぇ」
 七夕の笹に願掛け出来るほどの純粋さはもう自分の中にはない。
 そもそも効果のほどの知れないレベルで他力本願するような願いごと自体持ち合わせていなかった。
 願いは自分で叶えるし、自分に叶えられない願いなどない。
 そんな想いは口には出さずにただ苦笑を浮かべる零樹へと、子供でも大人でもないカタチを持った少女はただ人形と一緒に哂う。
 だが、その瞳がふと色を変え、儚げな愁いを帯びて遠くへと向けられた。
「ないの、零樹?願いごと……私は、あるわよ?七夕様に、お願いごと」
 赤い瞳、紅い唇、艶を含んで囁く声が、まるで興に乗ったからとでも言いたげに追憶の彼方を語り始める。


 ――『男』は名の売れた人形師だった。


 ヒトガタには魂が宿りやすく、また完璧なものには魔が宿るという。
 人の身にあまるほどの類稀な才能ゆえに、男はそうした妖の存在を自らの手で作り出してしまった。
 木を削り、四肢を組み立て、着物を縫いひとつひとつの工程に魂を注いでいく。
 手の平に収まる小さな頭に目を嵌め唇に紅を引いた瞬間、人形は理想の女となって男の手の中で産声を上げた。
 武士を模った五月人形や浄瑠璃の流行るその時勢で、彼はただ自分のためだけに微に入り細に入った『世界にひとつだけの』愛するものを得たのである。
 そうして昼夜を問わず人形へ語りかけ、腕に抱き、滑らかな白い肌を撫で、髪を梳き、ひたすらに愛を移していく。
 少女人形と過ごす蜜とした時間は男の心を悦楽の園へと導いた。
 もしも彼が独り身であったのなら、あるいはこうした生き方も芸術ゆえの戯れと許容されたのかもしれない。
 だが、彼には妻があり、子があったのだ。
 人形と共に堕ちてゆくことも、現世全てを忘却することも許されるはずがなかった。
 人形師は妻子と家族に強く非難され、泣かれ諭され促されるままに未練を引き摺り報われぬ愛を嘆きながらも悲劇を演じて人形を置いて去っていった。
 もしも人形がただの平凡な木偶であったのなら、物語はこれで終わる。
 だが、完全なる理想によって作り上げられた人形は男の恋心を宿し、仄暗い情念の炎を抱き、捨てられるままにその場に留まることなど出来なかった。
 風雨に晒され徐々に朽ちていくことも厭わずに、人形はぎこちない手足を繰りながらひたすらに彷徨い歩いた。
 それからどれほどの時が流れたのか、人形の身では計り得ない。
 けれど、目を引く紅の着物は色褪せ、乱れほつれた黒髪は艶を失くし、薄汚れて塗装が剥げ落ちた肌が年月の無常さを物語っていた。
 美しかったソレは忙しなく移ろいゆく世間の中で闇に紛れて、情念のままに男を求め続けた。
 焦がれる想いは募るばかり。
 悲恋で終わらせられるはずもないほどに強く、男を捜し彷徨う。

 再会はあまりにもあっけなく、どこまでもささやかな偶然の折り重なりあいだった。
 それでも、ヒトはこの邂逅を『運命』と呼ぶのかもしれない。
 
 男は幸せそうだった。
 身を裂かれるほどの想いで別れたはずなのに、妻と、そして蜜月の頃よりもさらに増えた子供たちに囲まれて、何の屈託もなく笑っていた。
 男の中にはもう、あれほどに深い愛を交わしたモノの存在などどこにもない。
 その事実を知った瞬間、どす黒く燃えさかる感覚が人形の体内を駆け巡った。
 情念が生み出す煉獄の炎に身を焼かれ、愛憎の呪詛を吐き出して、朽ち掛けていた人形は魔性となって、神ではけして与えられない背徳の美を纏う妖の少女へと変貌を解ける。
 そうして彼女は晦の晩に、離れでひとり人形を作り続ける男の前にその姿を現した。
 むせるような熱気を逃すために薄く開いた扉の合間から、そうっと顔だけ覗かせて、鮮血を燃やした炎のごとき赤い瞳で男を捕え、
 ねえ……入れて…下さいましな……
 濡れた唇で囁き呼んだ。
 初めは驚き、戸惑いすら覚えたはずの男は、すぐに少女への抗いがたい征服欲に思考を支配されてしまう。
 請われるままに扉を開き、座敷へと上げ、しどけなく座る少女の着物から覗く白磁の肌へと誘われるままに手を伸ばす。
 吸い付くようにしっとりと滑らかなその手触りは、いつか自身がこの世に生み、そして置き去りにした人形を思い出させ――男は欲望に溺れ堕ちていった。
 姿を消していた月もやがれ緩やかに上弦へと移り変わり、気付けば母屋に出向くこともなく、家族を省みることもやめ、作りかけの人形すらそのままに、ただ少女との時間だけが全てとなっていた。
 しかし、甘美な夢の終焉は程なくして訪れる。
 かつてと同じように、妻は夫を自らの手に取り戻すべく、けして踏み入らなかったはずの作業場へとその足を向けた。
 そこで見たものは――――
 言い知れぬ危機感と嫉妬が妻を般若へと変える。
 浅ましく穢れた夫にではなく夫の背に庇われて身じろぎせずにいる年若い娘へと憎しみの矛先を向けた。
 髪を振り乱し、声を荒げ、感情のままに糾弾し罵声を浴びせる姿を、男は醜悪な生き物としてしか捕えられなくなっていた。
 煩い……
 煩い……
 また、お前は私から愛しいものを……
 淀んだ思考でふつふつと沸き立つ怒りに濁った視線を妻に向け、男は静かに傍に転がる人形作りの工具を手に取った。
 煩い……
 黙れ―――っ
 振りかざした錐が、妻の喉を貫き、胸を貫き、断末魔の悲鳴を上げる暇も与えずただの骸へと叩き落した。
 ああ、これで……
 これで私はお前と……
 血塗れになりながら病んだ笑みを浮かべて振り返れば、少女はゆるゆると首を振り、ひっそりと微笑みかける。
 私が欲しいのなら……子供も殺して………
 男にそれを撥ね退ける理性など欠片も残ってはいない。
 待っていろと頷き返し、妻の血に染まった工具で子供が眠る母屋へと駆け出した。
 少女は嘲るようにかつて妻だったものを見下ろし、それからゆったりとした足取りで男の後を追う。
 そうして5人もの子供の息の根を止めた男の背にそっと身を寄せ、夢見心地のまま鋭く尖った爪を男の喉に突き立てた。
 ソレはつぷりと皮膚を破って後は徐々に肉の中へと沈む。
 肌を通して伝わる感触が悦楽となって少女の内を充たしていく。
 愛しい男は驚愕に目を見開き、痙攣し、やがて重力に従い足元へと崩れ落ちた。
 少女はそろりと跪いて男の身体を抱き、髪を撫でながら空を見上げる。
 天の川がさらさらと天に渡る七夕の夜。
 阿僧祇の闇の底でひっそりと、甘く温かなヒトの血にまみれた少女は誰にも届かぬ願いを口にした。


 ただ、私だけを愛して――――


 語り終えた殺の目が、反応を窺うように零樹を見上げる。
 キレイに弧を描く唇は微笑の形で止まっていた。
「………ふうん……なんというか……ずいぶんと気合の入った恋愛成就の祈願だねぇ」
 苦笑を浮かべてそう告げながらも、零樹の心は彼女の昔語りに引き摺られ、今はもういない祖父の記憶を辿り始める。
 ソレは今この腕に中には畸形の日本人形――守り花の名を持つ彼女が抱く過去の残像。
 あの人もまた人形を作り、人形が写し取った生身の少女を愛してしまった。
 業の深さを一身に背負い十まで生きられない定めの下に生まれた彼女のために。
 ただ贄としての存在でしかない自分を受け入れ、人並みの幸福をたったの九歳で諦めてしまっていた彼女のために。
 運命に抗うだけのチカラを与えるのだと祖父は己の腕に運命を懸け、誓った。
 想いは緩やかに積もっていく。
 少女にも、祖父にも、そして、人形にも。
 ヒトガタはヒトを写し模ったもの。
 だが、たとえ木を削り生まれた偽りの身体だとしても、そこに宿る想いはけしてヒトの模倣ではありえない。
 人形は彼女であり、彼女は人形であり、そうして確かに祖父へと愛を傾け、愛を注ぎ、訪れた運命の瞬間に彼の愛に応えたのだ。
 それなのに添い遂げることの出来なかった彼女たちの想いは、どこに行ってしまうというのだろうか。
「願いごと、ね……」
 半ば無意識に人形の髪を撫でながら深淵を覗きこみ、思考の狭間に陥りかける零樹。
 だが視線を感じてふと顔を上げ隣を見れば、数多の男に破滅をもたらす妖の少女はひっそりと愉しげに哂っていた。
 彼女の表情から巧みに拭い去られ隠された本当の心を読み取ることなど出来るはずもなく、だから、
「せっかくだし、短冊書きに行こうか?これで叶ったらかなりラッキーだよねー」
 ただそっと手を差し伸べる。
 殺は零樹の誘いに応えるように自身の手を優雅に重ね、そうして無言のままうっとりと微笑みかけた。

 七夕の短冊に願いを。
 せめて叶わぬこの想いを、偽りなどと決め付けないで―――




END
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
高槻ひかる クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年06月30日

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