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『移ろい止め処なく訪れる闇。 』
李・曙紅3093

 
 水音が、静かに響きを作った。
 その後に響き渡る、リズムの狂った、自分の足跡が、冷たいコンクリートに沁みこんで行くのが解る。
「……………」
 夜の喧騒からは離れた位置にある、現在の曙紅の『塒』。高架橋の下の、おそらく以前はホームレスが使っていたのだろう、薄汚れた場である。
 その、コンクリートで包まれた空間の奥へ、曙紅は覚束無い足元を見つめながら、前を進む。……疲れきった身体を休めるために。
(……今日も何も、得られなかった…)
 追っ手に追われる、終わりが無いかのような、そんな時間。敵は倒したが、その代償は余りにも大きい。追い詰められ、潜在能力を引き出してしまったが為に、今では走る力さえ、その身体には残っていない。曙紅は途切れそうな意識を何とか繋ぎとめながら、自分を休めるための場を、ゆっくりと進んだ。
 相変わらず、これといった確かな情報が得られない。そんな日々に、苛立ちを隠し切れずに、本能が先に動いてしまったのだろうか。こんな事なら、何も考えずにさっさと相手を仕留めるべきだった、と今更ながらに後悔してみたりもする。
「…――満身創痍、と言ったところですか」
 コツ、とひとつの足音が、曙紅のそれと重なった。
「……!!」
 同時に耳に届いた、暗い声。
 曙紅がその『気配』に気がつくのは、あまりにも遅すぎた。
 声に反応し、顔を上げた瞬間には、彼の視界は地面へと突きつけられたものになっていたからだ。
「……っ…」
「…油断しましたね、曙紅」
 頭を押さえつけられ、頬に感じたコンクリートの冷たさに、わずかながらの危機感を覚える、曙紅。
 まさか、自分の塒にまで、手が回るとは思ってもいなかった。何故なら曙紅はその場をすぐに変えるから。
 疲れきっていたとはいえ、少しでも気を緩めた結果が、これだ。何も解らない闇の中、油断してはならないと、頭に叩き込んでいたはずなのに。
「悔しいですか?…いい格好だ」
 頭を押さえつけるその力を緩める事も無く、曙紅を見下す男。薄暗い中、その顔はよくわからないが、口元が浅く笑みをかたどっているのだけは、確認できる。
「……、離せ…っ」
「離せといわれて『解りました』と従う敵がどこにいるんです。…これだから、世間知らずのお坊ちゃん育ちという存在は…」
 男はわざとらしく溜息を吐き、曙紅を押さえつける力をいっそう強めていく。
 這わされたまま、コンクリートに飲み込まれてしまうのではないかと思うくらいの、その男の力。
 曙紅は苦痛の色を、隠せずにいた。
 それを見てまた、男は浅く笑う。
「…いい顔ですね。『飼われていた頃』にはそんな表情、あまり見せなかったでしょう。…生き抜くためとはいえ、よくあんな行動を出来たものだ…。まるで、薬の中毒患者のようでしたよ」
「………ッ!!」
 男の言葉によって、脳内に甦る忌まわしい過去。
 曙紅は身を起こす事が出来なくとも、拳を握り締める事だけは、その身体の下で出来た。
「それでなくては面白くない。君にはもっと生きてもらわなくては…地獄を見ながらね」
 そう言う男の声が、妙に遠くに感じた。
 曙紅の瞳から、ゆっくりと色が失われていく。
 思い出したくない過去。
 それでも忘れてはならない、現実。その先に、自分の大切なものが、眠る限りは。
 夢のような時間は、一瞬にして砕かれた。あの鮮やかとも言える赤い色は、未だに曙紅の心の中では色褪せる事も無く、刻み込まれている。そして、その後の光景も。
 倒れていく自分の家族、その骸の前に立つ者達。濁りきった瞳と、卑しいまでの笑み。そこから始まる地獄の日々…。
 何でもやった。
 『仇をとってやる』と心に決めたその瞬間から。自分を殺して、言われるがままに、何でもして見せた。
 しかし今では、その『過去』は思い出すには少しだけ重苦しい。
「…感傷に浸ってる時ではないと思いますが、曙紅?」
 ぱちん、と何かが弾けたような音。
 その音で、曙紅は現実へと引き戻されてしまった。
「……抵抗する力すら、残っていませんか…。力のコントロールが出来ないのは、命取りですよ。この先も」
 男は我に帰った曙紅に静かに言葉を投げかけながら、空いている手で彼の腰のラインをわざと撫で上げた。
「!!」
 身体が跳ねる。自分の意思には従わずに。
 すると頭上からは、くすくすと嘲笑う声が聞こえてきた。
「あのまま『飼われて』いればよかったものを…君の能力『だけ』は、優れていましたからね。…優男の、『お兄さん』より、ずっとね…」
「…ッ…あんた…」
「おっと、君に発言権はあまり与えた気はありませんが?」
 男はそう言いながら、さらに曙紅の頭を地へと擦り付ける。その勢いで、彼の薄い唇は、擦り切れていた。ぷつり、と音が聞こえたような気がした後、紅玉のような粒を作る、赤い液体。
「いい色です。…君によく似合っている…」
 男は何処までも、曙紅を嘲笑っていた。
 内情を、知っている。
 曙紅は悔しさの中で冷静な部分を研ぎ澄まして、頭の整理を始めた。そしてゆっくり、ずり…と音を立てながら頭を動かし、男へと視線を送る。
「!」
 にやり、と口の端を僅かにあげただけの笑み。そして目を細めながら余裕の表情。
 見覚えがある。
 あの時、あの場所…数人の男たちの中に、この男も存在した。
 曙紅はあの時、『なぜ?』と言う問いかけをひたすら繰り返すのみだった。血の海の惨状の中、薄ら笑う男…その男は、生前の父が目に掛けていた、部下の一人であったのだから。そして家に何度も訪れては、曙紅にも優しく接していてくれていた、人物。
 …今となっては、その『優しさ』など、ただの演技に過ぎなかったのだと、理解も出来るのだが。
「……っ、貴様ッ!!」
 曙紅は奥底にしまいこんでいた感情を一気に溢れ出させた。男の手を弾き返し、身体を起こそうとする。
 だが。
「いい反応です。しかし…今の君は、力不足だ。…ほらね?」
 男は慌てるそぶりも見せずに、笑いながら曙紅の背をその足で踏みつけた。そしてまた、彼を冷たい地へと逆戻りさせる。今度は頬が、少しの悲鳴をあげた。
「…この世界に、甘さなど存在しない。それをもっと学びなさい。喰うか喰われるかのこの闇を、もっと…」
 遠まわしに、父を嵌めた事、そして手に掛けた事を、仄めかすような。そんな口調。
 ぐり…と踏み込みをいっそう深めながら。男は動けずにいる曙紅にそう言葉を投げかけた。
「生きるか死ぬか。…もっと堕ちて、そこから這い上がりなさい…」
 楽しそうな、声。
 曙紅はその言葉に、何も返せずにいた。肺を圧迫されていて、言葉を吐けないのが現実なのだが、それ以前に、心を見えない刃物で裂かれたような気がしたからだ。もう、傷つく場所など、無いと思っていたのに。
「…敵は目の前だ。それでも君は立ち上がる事すら出来ない。これが現実なのですよ。『敵討ち』などを考える前に、もっと選択肢があると思いますけどね…堕ちるための」
 ガスッ、と鈍い音がした。直後に襲う、激痛。
 男は言いながら、また曙紅の頭を掴み、コンクリートへと叩き付けたのだ。
「………」
 曙紅は、その痛みには表情を変えずにいた。
「……君は『こちら』の素質のほうがあると思うんですけどね。以前のように、狂気のような快楽を、欲しいと思いませんか?」
 飼い殺しの生活に戻らないか、と言っているような気がした。それでも曙紅は何も言い返さない。
「…………」
「…まぁ、いいでしょう。足掻く姿も、面白い。…もっと楽しませてください。期待してますから」
 男はそれを言い放つと、ごみを捨てるかのような感覚で、曙紅を投げ捨てる。そして笑みを崩さぬまま、その場を去っていった。
「…………」
 規則正しい靴音が、いつまでも続くような気がしていた。
 肌に直接伝わる、冷たい地。そこに追いかけるようにじわりと広がる、生臭いもの。…それは自分の血臭であったのだが、曙紅は気にも留めずにいた。
「……、くそっ…」
 静まり返った後に、湧き上がってくる悔しさ。一度は殺してみたものの、どうしても蘇生してしまう。
 ゆっくりと、震える腕に力を込めて、身を起こす。そして頭を垂れたまま、曙紅はその場に座り込むような形で、身体を震わせていた。
 直後に、鈍い音。
 右手に広がる、痛み。
 握り締めた拳から滲み出る、新しい赤い色。そして僅かに粉と散った、コンクリートの破片。
 彼が悔しさの余りに地へと拳を打ちつけたことは、言わずと知れた事。
 捕まるか、と最初はそちらのほうの危機感があった。そしてその事に対しての安堵感すらない。そんな事より、『仇』に誰よりも近い存在であるだろうあの男に、手も足も出なかった事への屈辱感のほうが、勝っているのだ。
「……っ…」
 涙などは、とうに枯れ果てた。今の曙紅には流すものなど、無いのだ。外傷から湧き出る、赤いものを除いては。
 うな垂れたままの彼の肩は、小さく震えていた。そしてその姿は、その後暫くは、動く事も無かった。


-了-

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李・曙紅さま

ライターの桐岬です。
今回もご指名いただき、有難うございました。
どうでしょうか、ご期待にきちんとお答えできたでしょうか…?
気に入っていただければ、嬉しいです。
またご感想など、聞かせてください。

誤字脱字がありました場合、申し訳ありません。

桐岬 美沖。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
朱園ハルヒ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年06月30日

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