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『Windy Road 』
上総・辰巳2681

 少し肌寒さをもたらす風は、やがて、暖かな陽射しの温もりで忘れ去られる。
 3年前から変わりばえもなく、だが、今日は他に人影も無い校舎の屋上。上総辰巳はコンクリートに腰を下ろすと、ひやりと冷たさを伝える欄干に身体を預けた。
 今日が何の日だったのかは、微風が知らせる。体育館から響いてくるのは、『蛍の光』の合唱だ。
 予行練習までして『歌わされる』それは、今頃、同窓の女子達を泣かせているのかもしれないが……。
「ふん……」
 興味もなさ気に吐き出すと、辰巳は目を瞑った。

(「卒業……」)

 何を卒(お)えたというのだろう。この3年間、彼に目的があったとしたら、解き放たれる自由を手に入れることだ。
 実戦的であるが為に、技には危険なものも多くあり、失伝した流派も少なくない柔術・古の武道を伝える上総家。そこにあるのは、目に見えぬ『格式』の檻。
 父親は、望んでその檻に入った。だが、末息子ながら才気を受け継いだ辰巳は……ただ、そこから逃れることだけを望んできた。
 若さ故の軽率と、親戚連中は笑うだろう。実際、年始にはかかさず――それこそ機械的に挨拶回りに来る彼らが、形ばかりのもてなしの席で話すのを聞いたことがある。

「守らねばならんものがあるのを、辰巳君はまだ知らないのだろうね」
「格式ある上総家に生まれながら……」

 ――そんな風に。
 下らないのは、古い因習でも、格式でも、古武道そのものでもなく。偏に彼らそのものだと思う。
 彼らの居る檻の中に、同居するのが嫌だった。
 今の辰巳ほどにも目的意識はなく。そこが檻とも気付かず、『外に居る人々』と辰巳を嘲笑うしか出来ない彼らが……我慢ならない。
 この気持ちが若さと言うのなら、それでも構わなかった。

 物思いは、拍手の音で途絶える。長いばかりの式がやっと終わったらしい。
 ふと視線を流した辰巳は、体育館から戻ってくる生徒の群れが、渡り廊下に溢れ出すのに目を留める。まるで、逸れることも出来ずに、ひと処へ流れ行く川のようだった。暗い制服の色は、そのまま、水の濁りに見える。
 ――澱だ。
 上総の家にあるものと、とても似たもの。
 きっと、そう。世の中には、あの檻と同じようなものは幾つもあるのだ。これから辰巳が飛び立つ、その先にも……。
 それでも。
 辰巳は立ち上がった。それが旅立ちの時になるにしては、彼の動作に躊躇いはない。望んだ未来へ、1人歩き出す不安さえも。


 その日は、珍しく辰巳の方から父親へ手合わせを申し出た。帰宅したその足で、道場にいた自分の元へやって来た息子に、
「分かった」
 とだけ父親は返した。
 気負った素振りは、親子のどちらにもない。黙々と胴着に着替える辰巳の金の瞳だけが、僅かに色を濃くしただけだ。
 中段に構え、向き合う父親の『気』は、水のようだと思う。
 凪いだ海のごとく静かに感じられる時もあれば、全てを押し流す怒涛の流れに感じられることもある。そして、いつも変わらないのは、そこに少しも濁りがないことだ。
(「それだけは、認めてもいい」)
 父親が檻の中で守ろうとするものを、辰巳は肌で感じられる。天賦の才だろう。『気』の流れは、目に見えぬだけで、確かにそこにあるのだ。
 辰巳は、受け、流すことを幾度か繰り返す。
 最後だから。そんな思いがあったからではなく、手心を加えていたからだ。
 父親が感じる自分の『気』は、どんな風なのだろう。ふと、そんなことを思ったのは、この日だけだった。
 相容れぬ焔か、時に水に遮られ、時に切り裂く風の刃か。――おそらくは後者だ。
 微風ですら、風は水面を波立たせるのだから。

 そして、風は、檻に囚われることもない……。

 踏み込む辰巳は、顔面に向けた突きが来るのは承知しているが、受け身から流す手はあえて封じた。父親の喉元へ、刃のごとく繰り出した返しの突きは、だから、相打ち。
 古武道では基本の受けだ。ワザとであることは父親にも知れただろう。
 辰巳は1つ息を吐くと、投げ置いていた卒業証書の入った筒箱を父親へ突き出した。
「あんたに教わることはもう何もない」
 この家と決別する意思を込めて言い放つ辰巳に、父親は嘆息すらしなかった。
「そうか」
 また、ただひと言の返しで。
 予期していたのだろう。本当はこの家に関わる誰よりも、父親は辰巳のことを分かっていたかもしれないと思う。
 上総の家を出る辰巳に渡されたのは、用意されていたらしい貯金通帳と道場の免許皆伝。拒むことなく、彼は両方を受け取った。

 以来、辰巳がこの家を振り返ることはなかった。


 風が、花弁を運んでくる。
 一片、ひとひら。
 薄桃色の小さな春は、開け放った窓から舞い込んでは、フローリングの上に花紋様を浮かび上がらせた。
(「掃除が面倒だな……」)
 興趣に耽ることもなく、辰巳はぼんやりと考える。毎年、そうなるのを失念しては、舞い込む花弁で季節の巡りを知るのだ。
 彼が目を向けるのも稀な場所へも、花弁は迷い込む。
 ひら、と1枚が舞い降りたのは、丸めて紐をかけられた免許皆伝の証書。
 棚の中で埃をかぶりつつも、捨てられもしないその上へ。いつか、気付いてとでも言うように……。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北原みなみ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年06月30日

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