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『たった一マルク 』
ウィン・ルクセンブルク1588

『ありがとう! おかあさま』

 頬を上気させて小さな硬貨を握った。
 あの遠い日から、私は。

□■

 鐘が鳴る。

 日本に比べて幾分も涼しく、湿気もない大気の中で目を覚ました教会が人々を起こす。
ドイツの朝が明けるのは早い。四時頃にはもう空もしらみ、地平を照らす太陽が始まりに相応しい澄んだ赤を持って空に上る。
 明るくなるにつれ、名前を知らない鳥の声が揺れるカーテンをすり抜けて、ベッドでまどろむ耳に転がる。幼い頃、今時分になるともう自分の目は大いに輝いていたと思う。

 夜に眠ることが嫌いだった。今から考えると遊び足りなかったのだろう。
 夜を過ぎればパジャマ姿で、厳格な母に「Gute Nacht!―おやすみなさい―」と挨拶をし、養母が夜のしじまに奏でる柔らかな鍵盤の旋律に意識を馳せた。
 けれど、大きなベッドに一人埋まるように横になって、洗いたてのシーツに顔を寄せてもやはり落ち着かない。足がむずむずと動き出す。目も暗闇の中で自然と開く。ふとベッドから少し顔を
出して扉の向こうを見れば、夜の間もずっと灯し続けてくれるほの黄色い灯りが下の隙間から入り込んできていた。
 いつも自分はその光を確かめては、落ち着かない心をなんとか収めてベッドに沈んだ。
 明日は何があるのかしら。
 ああ、行きたいところがたくさんある。
 あの湖のほとりで水遊び。草の匂いのする原野で花飾り。木が茂るあの森で木の実拾い。城の中で探検もいい。
 思えば、この城は昔自分たちの――今は和解した兄との恰好の遊び場だった。

 かつて軍事的な目的から造り上げられたという城の我が家は、居城の為に随分と改築を施されたものの、まだまだ子供が興味を示すような秘密をいくつも抱え込んでいた。
 使えなくなった仕掛けのあと。開かずになってしまった扉。古城ホテルと名を変えた今でさえも、この我が家には確かに兵たちが刻んだ跡と積み重なった歴史が依然としてそこにある。
 荒々しい騎士たちの息吹がいまだ残る気がする。住んでいた時には、気づかなかった中世の名残とでもいうものが静かに重くこの身にのしかかってきた。


 ――――私の家。私が継ぐ城。

 声には乗せず唇だけで呟いて、ウィン・ルクセンブルクは帰国してからというもの、既に数日を過ごした城を見上げた。
 日差しは、そう強くはない。身を包む空気は日本に比べて驚くほどに涼しい。

 もう、夏が来るのね。こんなことじゃあ、今から先が思いやられるわ。

 ほんの数日前、日本でそう交わした言葉がここでは嘘のようだ。
 それでも、ずっとこちらに住んでいる母に言わせればドイツも年々温暖化が進んでいるらしい。ついてすぐに「涼しいわ、こちらは」と言った時、「毎年よりもどんどん暑くなっているでしょう」と少しあきれたように言われ、自分が随分長い間故郷を離れていたのだ、ということに気づいた。
 薄灰とも茶ともつかぬ色の城壁。ところどころ赤いレンガが深く身を埋め、朝露に湿っている。かつては硬い鉄格子がはまっていた窓は、今大きく開け放たれウィンが歩く早朝のドイツの空気を取り入れている。

『…………式は、六月二十日だね。ジューンブライドってことになるのかな……?』

 少しはにかんだ顔で照れたようにそういったあの人。
 ウィンは城を継ぐ為、彼は養子という立場になる。だからあまり嫁ぐ、といったイメージはないが、いよいよこの城をこの手にゆだねられる為の入り口に立つのだ、という気が強くあった。……正確に言えば、少しの気負いと、感慨が。
 経営などは根っから向かない、金銭感覚の破綻した兄を持つ自分という存在を認めた日に、既に覚悟は決めたものと思っていた。今だって、迷いはない。ないが、やはり。実際にその場所の近く、崖の近くまで来てしまえばこんな不思議な気分になるのだ、と実感した。
 昂揚感。ある種の自信。正反対の不安。少なからず――先を見つめる思い。
 そっと撫でた腹部には、まだ目立たないが確かに命が育ちつつある。それもふたつの命だ。やがて、自分は二人の母になる。そして古城ホテルの経営者になり、『EOLH』をも育てていくのだから。
 自分が見つけた生きがいがあまりにやりがいがありすぎて、常に前進していてももっと、もっと何かできないだろうか、と思ってしまう。そんな時にはあの人に少しだけ笑われてしまう。
『ねぇ。ちょっとだけ僕と休もうよ』
 今はいない人の笑みがぱっと胸に広がって、それは温かな余韻になる。知らず胸を押さえながら、ウィンは美しく剪定された広い庭を歩き――――ふと、手に触れたものに気づいた。
 それは白く、落ち着いた輝きをひそかに放つ。
 そっと指でそれをなぞると、一つの粒がくるり、と回る。
 朝のほんの少しの間だけ。誰の目にも触れない間だけつけていよう、と思い、つけてきたものだった。
 ドイツに帰郷したその夜に母が最高の言葉とともにくれたもの。

『……サムシングオールドよ。わたくしたちはいつも貴方の最高の幸せを願っている』
 隣にいた養母も言ってくれた。
『そして貴方という子をもてたことを誇りに思うでしょう。どんな時もね』
 あまりの感情の奔流に口がきけなくなったウィンに優しく笑いかけて、養母が持つ箱から取り出し、母がそっと首にかけてくれた。
 もう十数年前にいなくなってしまった祖母から譲り受けたという、真珠のネックレス。古いしきたり、サムシングフォーにちなんだものの一つとして、是非受け取ってほしい、といわれたそれは代々ルクセンブルク家に伝えられてきた由緒あるものだった。
 それには母たちが自分を正式な後継者として認め、委ねてくれた信頼と、親としてのとても親らしい心が加えられ、懐かしい祖母の気持ちさえ背負った気がした。だがこれほどに嬉しい重みが他にあるだろうか。
 涙ぐんだ目を精一杯にまっすぐ向けて、震える唇で一言「Danke……」と言えただけだった。
 そんなウィンを見て母はただ静かに気品ある微笑みで応え、養母は柔らかな口調で懐かしむように言った。
『……ほんの少し前まで貴方も貴方のお兄さんも、本当に小さかった気がするのにね。小さな小さな貴方の手に握らせた一マルクが懐かしくてたまらないわ。たった一マルクよ? もっと高価なお菓子も、食べ物もたくさんここにはあったのにね。貴方は街に出て、自分の貯めたお金で買い物をすることがとても好きだったわね』
 もっと髪も短かったわ、いつも太陽にすけてとても綺麗なの。おチビさんだったわ、その割りには負けん気が強くて、できないことがあればできるようになるまで頑張ったわね? 与えられたことをやり遂げられる賢い子だったわ、今も、ずっとそうだわね――……。

 養母が語る思い出は、いつもは雄弁に指によって奏でられる音楽のように心地よかった。
 ひどく照れくさかった。そんなことがあったっけ、と驚いた。ばつが悪くて、苦笑いした。
 そして最後には。ただ感謝の気持ちで感極まって泣いた。

 庭に射す陽は少しずつ勢いを増している。
 空は青く、ほんの一つ二つ、夏の雲が早足で駆けていた。

 ……ありがとう、おかあさま。私、結婚するわ。この、生まれおちた場所で。

 遠い日に一マルクを握った手は今はこんなに大きくて、背負うものがたくさんできたわ。
 それがとても嬉しいの。

「……嬉しいの。ありがとう」

 そっと目を閉じて呟いた言葉が、さっと風に吹き上げられ、空に溶けた。

 ――この嬉しさ、空を流れて日本にいる貴方に届けばいい――
 あの遠い日にこの手に掴んだ一マルクと同じ温かさで。

END
PCシチュエーションノベル(シングル) -
猫亞阿月 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年06月29日

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