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『■ アヴェ・ヴェルム・コルプス ■ 』
セレスティ・カーニンガム1883)&モーリス・ラジアル(2318)

 六月の雨に憂鬱を誘われると言うのは誰だろうか。
 この日、セレスティ・カーニンガムの屋敷に降る雨は、あまりにも柔らかく優しかった。
 屋敷の主が一日の時間の大半を過ごす書斎。
 その部屋の窓枠を叩く雨音は、室内に静かに流れる音楽に、身を添わせているかのようだった。
 品の良いワインレッドの書斎椅子にゆったりと身体を預けているセレスティは、それらの調べを耳に聴きながら、目の前に立つ端正な顔立ちの男、この部屋への立ち入りを許している己が護衛者へと、美しい笑みを向けていた。
 対する護衛者ことモーリス・ラジアルの表情は、少しばかり懸念の色に曇っている。
「……セレスティ様はいつも無茶ばかりなさいますから」
 モーリスが深い溜息をついた。
 数日後にセレスティの友の結婚式がドイツで挙げられる。
 セレスティとモーリスのふたりは、そのパーティへ招待されていた。
「御友人のパーティに出席なさるのは一向に構わないのです。御結婚式となれば当然、記念すべき祝い事ですし。ですが、セレスティ様の向かわれる先々には大抵トラブルが待っているような気がして……なのに御身体の弱い貴方は……。私が心配性なのかもしれませんが」
「そう、モーリスが酷く心配性なだけでしょう?」
 言葉を選ぶのに迷って視線を彷徨わせていたモーリスへと、セレスティが楽しそうに笑った。ゆるやかに脚を組めば、微かに布地の擦れる音。
「婚儀のパーティでいったい何が起こるというのです。たとえ、何かあったとしても、モーリスがいてくれるのです。何も案じる必要はないでしょう? モーリス、取り越し苦労は止しなさい。身も心も保ちませんよ、君らしくもない」
「私らしくない、ですか……」
 その取り越し苦労の癖をモーリスにつけさせたのは、ほかならぬセレスティ本人なのだが、それを自覚しているのかしていないのか、至高の芸術品のような相貌は、視線の吸い寄せられるような謎めいた微笑以外、何も読み取らせない。
 モーリスは、今度は心の中でため息をつく。
 元来の自分の性格からすれば、大抵のことには、ゆらぎもほころびもしない。
 だが、セレスティと相対する時だけは、常に錯綜する複雑な想いに駆られる自分に気付いている。
 寧ろ、いい加減慣れても良いほどなのだが、それを許さないのがこの主の魔力だ。
 モーリスは、せめて態度や声音の表情にそれが出ぬよう、毎度慣れぬのことの出来ぬ苦心をする。
 それさえも、この主にかかれば見通しなのかもしれない可能性を考えても、だ。
 継ぐべき言葉を探して沈黙していたモーリスは、セレスティの声を聞いて視線を上げた。
「モーリス、ドイツへの旅は、君も楽しめるでしょう。余計なことさえ考えなければ。私は楽しみにしているのですよ。どこの国にもそれぞれ魅力はありますが、かの国は、知れば知るほど面白いですから。けれど、君のその言葉からすると、ドイツへの印象はあまり良いとは言えないような。いったい、君はどんなイメージを抱いているのです?」
 僅かに首を傾げて問い掛けてくる主の視線を受け止めて、モーリスは首を横に振り、自分の知る事を呟くようにして低く答えた。
「いえ、美しい国だと思います。背筋が寒くなるほどに。都市も郊外も、人も自然も、どの面を取ってもまるで映画か何かの世界のようで、返って……そうですね、芸術的過ぎるところが、魅力的過ぎるようなところが、私の許容範囲を超えるところでしょうか。ですから、私はドイツの事は必要最低限しか知りません。私の手にはあまりますので」
 それは、取りも直さず、モーリスにとってのセレスティの存在そのものだ。
 騎士道物語と並んでドイツを代表する古城の数々、宮廷庭園、色濃く残るかの国の文化の絵画的色彩は、ある種の麻薬のようなものだとモーリスは思っている。
 なぜならば、それらは、かの国の激動の歴史背景の証でありながら、その事を忘れさせるからだ。甘く、あたたかい、ロマンティックな幻夢を見せることで。
(そして、セレスティ様もまた――)
 自分の思いに囚われていたモーリスは、主人に対して述べた言葉が失言ではなかったかと狼狽しかけた。少しでも取り乱すところを見せたくなくて、思いつくままに続けた。
「余暇がありましたら、宮殿巡りでもいたしますか。シャルロッテンブルク宮殿……バート・ヴィンプフェン皇帝広場……サンスーシ宮殿……どこも一見の価値はあるかと」
 優雅に腕を組んでいたセレスティがゆっくりと瞬き、少し雨音の高くなった窓辺へと視線を移し、それは面白いですね、と後を取った。
「ベルリン、バーデン・ヴュルテンベルク、そして、ブランデンブルク。どれも、時代と土地を超えた、3人のフリードリッヒという名の王の城。これは偶然でしょうか?」
 セレスティの視線がモーリスへと戻り、その眼差しにモーリスは貫かれる。
「いいでしょう。パーティの後に時間があれば、私たちが古のフォーゲルヴァイデになるのも一興です」
 モーリスは一瞬、主人の言葉の意がわからず首を傾げた。
 その不可解そうな表情を見たセレスティが目を細めて深く笑み、書斎机の上に置いてあった一冊の本を手に取り、モーリスへと見せた。
 臙脂の革を張った背表紙はかなり変色と傷みが目立ち、流れた時間を感じさせる。
 色あせた表紙には、墨色の版画で一人の男が頬杖をついて思惟する様が描かれており、そこに記してある文字は、アルファベットにしては特徴ある書体で、辛うじてこう読めた。
『DER VON DER VOGELWEIDE』
「ヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデ……のことですか。確か、有名な詩人だったと記憶していますが」
 聞いたセレスティが頷きを見せる。
 モーリスが、そのフォーゲルヴァイデと古城にどのような関係が、と考えたところ、主人に思考を読まれたらしい。セレスティは、その古書をぱらぱら捲り、所々の章の始めと思しき頁をモーリスに見せた。
 どの章題にも「KAPITEL」の単語が読み取れる。
 その文字を、セレスティの白くしなやかな指先が滑らかに辿る。
「フォーゲルヴァイデは偉大な吟遊詩人と言われていますね。ですが、吟遊詩人、宮廷詩人のどちらにも属するようです。というのは、この詩人が、この伝記に書かれているとおり、城から城へと渡り歩いたからですよ。率直で豊かな感性をもって、それまでの抑圧的な詩風を改革した詩人として知られる彼ですが、この書を読む限りでは、そして私の知る限りでは、金銭と名誉と美女にひどく執着したそうです。それゆえに、それらの財を有する城から城へと旅を続けたのでしょう。このように言うと詩人のイメージを幻滅させるのかもしれませんが、自身の欲求にも率直だった、と考えると彼の人となりが窺える気もしますね。……フォーゲルヴァイデの、この奔放さ……」
 独白のように呟かれた言葉に、その羨望するような調子が微かに混じっていたような声音に、モーリスは危うく咄嗟に開きかけた口をつぐんで言葉を飲み込んだ。
 奔放なのは貴方だ、と。
(――貴方の魂は限りなく奔放だ――)
 足の自由は利かず、視力もほぼ与えられず、体質としても、社会的立場としても、この世界に生きるには厳しい。
 だが。
 肉体こそ制限を与えられ、拘束されてはいるが、内在するこの方の魂は無限の自由性を持ち合わせている。
 そして、この世の誰よりも自由であるがゆえに、孤独だ。
 その孤独は、嘆くべき種類のものでもなく、他者のシンパシーすらも許されぬ。
 純然たる、孤独。
 ふと思った。
 ――セレスティ様、貴方はいったい何処にいらっしゃるのですか――
 これほど近くにこの方を目にしていながら、時間を多く共有しながら、それでも、この方の存在は、世界のどこにも捉えられない。もしかしたら宇宙にも、とまで思えてくる。 いや、存在のあまりの大きさに、見えないのだろうな、とモーリスはぼんやり思った。 それでいて、時折、この人の深淵を、ちらとだけ垣間見るような瞬間がある。
 否、それもまた幻影のようなものかもしれない、そう思ってモーリスは心の中で目を瞑る。
 この主人を守ること、この主人に仕えること、この主人の傍らにいること。
 それすなわち、目も眩むような誇りであり、溢れ出しそうな悦びでもあり。
 また、それと同等の値を持った拷問にも等しい苦痛でもある。
(いつの日か、貴方という存在に触れることは叶うのでしょうか、セレスティ様……)
 たとえそれが叶わずとも。
(私の居るべき場所は永遠に決まっています。貴方の傍らである、と。この生ある限り、いや、生尽きても、未来永劫、途絶えることなく、貴方への私の――) 
 それまで、僅かながらも苦悩の色を滲ませていたモーリスは、巧みに感情を隠蔽した。余裕ある微笑さえ浮かべて。
「古城巡りは決定ですね。私もドイツを不得手と思い込んでいるだけで、もしかするとただの食べず嫌いのようなものかもしれません。城への交通手段なども調べておきましょう。空路は便利ですが、旅の醍醐味を味わうならば、ドイツ鉄道の利用も捨てがたいと思いますし、フォーゲルヴァイデの旅路を追体験なさりたいのならば尚のこと」
 それを聞いたセレスティは穏やかな笑みを口元に刻み、それから珍しく楽しげな笑い声を零した。
「古城巡りの綿密な計画を立ててくれるのは嬉しいですが、その前に大事な結婚式があることを忘れてはいけませんよ? 振舞い方などについては問題を感じていませんが、君のことですから、その淡々とした物言いで私の大切な人々を傷つけはしないかと、それが心配でここのところ夜も眠れないのですよ?」
 戯れ交じりの口調で見上げてくる主人へ、留意いたします、と一度頭を下げ、そう仰るセレスティ様も、と続ける。
「時節柄、あの国は昼夜の気温差が激しいそうです。ながらく強い日差しを浴びられるのは御身体に害ですから、私も現地で対策は講じますが、セレスティ様もそのあたり御気をつけくださるよう。ああ、それと同行者としてお尋ねしたいことが。食事はいかがなさいますか? ドイツ料理は量こそ多いですが、肝心の味は……お口に合うかどうか。くどいほど濃厚な味付けが多いそうですから」
 モーリスは、セレスティが出された料理を残すのが目に見えるような気がした。小さく笑いながら、大丈夫なのですか、と囁きかけてみると、セレスティは少しばかり眉を上げ、守られる者のあどけなさとでも言うべきか、邪気のない顔を見せた。少なくとも、モーリスにはそう見えた。
「君が忠告してくれる通り、天候には気をつけます。が、料理はそうと決まったわけでもないでしょう? チーズはもとより、ザウワークラウト、ビアソースを使った料理も美味と聞いていますしね。そうそう、ドイチェビアも良いですが、やはりワインを堪能したいでしょうか。良いものが手に入ると嬉しいのですが」
 久し振りの遠出に、セレスティもやはり心は躍るのか、明るい声だった。
 モーリスは、主人の愛らしい一面を見た気がして、思わず笑みそうになるのを抑えながら、知識を引っ張り出していた。
「ドイツワインと言えば、私などが思いつくのはシュヴァルツ・カッツェや、リープフラウミルヒ程度ですが、良いワインはその黄金色が美しいと聞きました。たしか、クロイツナッハー……ヒンメルライヒ……何かそのような名のワインの噂ならば耳にしたことがありますが……」
 ふと、モーリスの言葉が途切れた。身の内に引っ掛かるものがあった。
 HIMMELREICH――ヘブン――。
 モーリスの脳裡にその言葉が響く。
 そして、先刻からエンドレスで室内に流れていた、賛美歌曲にもまた気が付いた。
 いつぞや、どこかのカソリック教会の行事で耳にした事のある曲だった。
 華々しくもない、仰々しくもない、主張が強いわけでもない。
 だが、清冽にして、究極まで澄みきったその旋律は、忘れようもない。
 その祈りの響きが、いつしかこの部屋を満たしていた。
「あの、セレスティ様」
 少し気になって、控えめに訊ねてみる。
「この曲はなんという……?」
 モーリスは、曲名を知らなかった。
 膝の上で指を組ませていたセレスティは、一瞬、モーリスの瞳を真っ直ぐに見詰めたが、プレイヤーの上で回り続けるレコードを見遣ってから、少し目を伏せて静かな声音で答えた。
「……『アヴェ・ヴェルム・コルプス』……モーツァルトのモテットです。名曲でしょう? この曲の詞と、当時のモーツァルトを少し知って、何故この曲がこんなにもこの世のものとは思えない清浄さを持っているのか、わかったような気がしました」
 モーツァルトは没する半年前に、この曲を、病と逆境の最中にあってつくったという。 そうだ。これはもうこの世の調べではない。
 天上の音色。
「……『めでたきかな 真なる御体よ』……」
 セレスティが祈祷文を呟いた。
 ――ひとの世の苦悩を負うて、十字架の上に生贄となり給いし、血と水とを流された御体よ …… 願わくは、戦いに臨むにわれらに天国の幸いを――
 モーリスは目を閉じ、賛美歌の冒頭に合わせ、口の中でひっそりと呟いた。
 アヴェ・ヴェルム・コルプス、と。
 それは、おのが主人へと捧げた、ひとりのガーディアンの真摯な祈りだった。
 この世の誰よりも自由で、この世の誰よりも孤独な、私が命とするこの方のすべてを、天よ、守り給え。守り給え……
 かくして、とある雨の日の昼下がりは過ぎゆくのだった。


   <了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2004年06月22日

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