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『片隅に在りしもの 』
ぺんぎん・文太2769


 陽が落ちたらその時だ。
 そう思ってはいたものの、縁側に座り眩しい夕陽に目を細めていると、明日でも良いか、と迷う心持ちが湧いてくる。否々、思い立ったがと云うではないかと改めたが、さてその思い立った日が今日であったかどうかすら、もののけは憶えていない。
 煙管を銜えた。
 併し煙は一向に立ち昇らぬ。
 頸を傾げて先を見れば、火は疎か煙草さえ詰めてはいなかった。頼りにならぬ記憶を辿れば半刻ばかり前に落としたところだったか、やはりどうにも物覚えの悪過ぎる。日が経つにつれその程度も酷くなっているようにすら感じる。
 深く吐息を押し出して、ついと遠く見遣れば、真赤な陽の、丸みは既に黒山の向こう。朱色空もじわりじわりと藍色に、染め上げられては名残となりて、宵の訪れ、竹林を通う風の囁きは大きくなる、さやさやざわり。
 この風に。
 この風に送られて、押されるがまま進むのも良いかもしれぬ。
 北から吹けば南へふらり、西から吹くなら東へふらふら往けば良い。そうして湯煙見付けて、とっぷり浸かれば他に望むものなき身、良い良いそれが良い。
「……なに頷いてンだ」
 唐突に頭上から降ってきた声と共に、腰をげしりとひとつ蹴られる。床板を少しばかり滑って危うく縁側から落ちるところ、逆に蹴った相手の脹脛に黒の翼を引っ掛けて、事なきを得た。
「おお……気持ち悪ィ触り心地だな、その手」
 しかもそんな失礼極まりない感想を遣したので、離れる際に脛を叩いてやると、ぺしりと良い音がした。
「……痛ぇ」
 お前が先に蹴ったのだろうに。
 憮然として元の通りに縁側に座り直して、煙管を銜えた。煙は昇らぬ。火を入れていなかったことを思い出した。
「さっきから何も入ってねぇ煙管銜えて、何がしてぇンだ?」
 何。
 そう言われる程に何度もこの行為を繰り返しているのかと初めて知るに至って、傍らに置いた湯桶に煙管を容れた。桶は先程風呂場から持ち出してきたものである。一番新しいものを選んだのだが、繋ぎ目の辺りに黒い汚れが目立つ、そのうち洗うことにしよう。
「文太」
 桶に翼を突いたまま、頸を捻って自然半身で男を振り向く。
 男は特有の口の端を僅かに上げる笑いをその顔に浮かべて、此方を見下ろしている。
 風に揺れる竹が、軋む音が聴こえる。
 ふと、男は目許に和らぎを過ぎらせたような――気が、したのだが。
「……お前アレから一言も喋ってねぇな?」
 次いだ質問の意味を解そうと頭を切り替えると、すぐさま直前の男の些の表情の動きなど、追い遣られてしまった。
 こく、と小さい頷きを返す。
「別に此処に居る時ァ普通に喋って構わねぇよ。不便だろうが」
「……慣れるのに、時間が掛かるかと思ってな」
「だからってすぐに始めるこた……」
 言い掛けて、文太を見、ああ、と洩らすと、
「もう、か?」
 語尾を短い問いに掏り替えた。
 文太はもうひとつ、こっくり、頷いた。

 縁側に立ち、見える範囲でぐるりと視線を巡らした。夜の闇の更に濃い辺りなどはまったく窺い知れぬが大した広さの無い造り、灯りに照らされた男の影が壁に障子に大きく揺れる。互いに銜えた煙管から、はっきり白い煙が真直ぐ上に昇ったかと思えば、僅かな微風にさえ強く往く道違えて庵の奥の方へ消えてゆく。
 ――あの柱の疵はまた増えているのか。
 男がよく寝惚けてぶつかる、縁側に面した柱。
 ――そのうち一面、真黒になるぞ。
 男の座った辺りに点々と見える黒く丸い焦げ跡。
 闇には不慣れな眼がひとつひとつを見、あれはどうだ、なんだと、刻むように確かめる。己の記憶力の程度を知っている文太は、このうち幾つをこの先も憶えているか、とふと思うが併し、まあ良い、と促して次へ視線は移る。その間、男は物言わず、行燈の灯りをぼんやり眺めていた。
 一通りを見終わり煙管の灰を落として、ではと立ち上がろうとす。だがその動作は、部屋の隅に転がったそれに、遮られた。
 ――あれは、何だ。
 再び今度は立ち上がり、其方へ近付いて拾う。木片のようである。
「……どうした」
 背後から男の声が問う。
 文太は木片に灯りを当てた。思ったより大きなもので、長さは七尺余り、と云ったところか。何か彫られているようにも見受けられるが随分と粗削り、頭から足までそうとは知れるが、角張っており触りも悪い。
 男は文太の持つ彫り掛けと思しき木偶を認めて受け取ると、細かに観察し、苦笑した。
「この前片付けた時に出てきたヤツだな」
「それは何だ?」
「……観音様、の成り掛けとでも云うのかね。見ての通り、途中で投げちまった。罰当たりもイイとこだ」
 そう言って、親指の腹で辛うじて緩やかな部分――頸の辺りか――を撫ぜた。
 文太は聞き覚えの無い単語に反応し、問う。
「『かんのん』とは何だ?」
「あ?」
 思わず男は聞き返し、文太の表情をまじまじと見詰める。
「……観音様は観音様だろ?」
「だからそれは何だと訊いているのだ」
「知らねぇのか?」
「そう言っている」
 男は何やら渋面を作り、がしがしと頭を掻く。「『かんのん』の成り掛け」の像を畳の上に置くと、煙管も盆に戻して懐手。どうやら悩んでいる様子である。
「説明すると拙いことなのか?」
 若しや触れてはならぬ話題だったかと、文太が気を利かせて尋ねると、
「いや、多分説明すると良い話だ」
 と、訳の分からぬ応えが返った。併しすぐに頸を傾げて前言を取り消す。
「俺みてぇなのが話してもなァ……そもそも俺は坊主でも何でもねぇし、親父と餓鬼の頃、説法聞いた覚えはあるが、難しいことはとんと解らねぇぞ?」
「とりあえず、『かんのん』が何なのか解れば良い」
 男は唸り、やがて一言で表した。
「有難ぇ存在」
「……まったく解らん」
「物の怪に観音様とは何ぞやを説かなきゃならねぇ俺の身になれ。知りてぇなら寺に行きな」
「寺? そこに行けば教えて貰えるのか?」
「物の怪と知れると拙いことになると思うがな」
「却下だ」
 男は悩んだ。
 眼の前の物の怪――しかも人間の世にすら疎い――に一体どう説明すべきか、慈悲だの智慧だのを説いたところで理解するのは難しかろう。そういった観念が、物の怪に具わっているとは到底思えぬ。
 一番解りやすいものをと悩んだ末に浮かんだのは、功徳や霊験の話であった。
 文太はまた、空の煙管を銜えている。
「例えばだな、お前さんが何か危険な目に遭ったとする」
「危険?」
「何でもいい。とにかく自分の力じゃどうにもならねぇってことが偶にゃあるだろ。……誰かに、助けを求めたくなることとかよ」
「さっきお前が我輩を蹴ったことか?」
「助けを求めたくなるような痛さじゃねぇだろうが」
「痛かった」
「その後に叩かれた俺も痛ぇよ。お相こだ」
 だからそれはお前の方から蹴ってきたのだろう。
 そう反論したいのを抑えて、文太は男の話の先を促す。
「まあ、いい。とにかく何か危ない時に『南無観世音』って唱えるんだ」
「なむかん……?」
「ナムカンゼオン」
 文太も繰り返す。「そうだ」と男は頷いた。
「唱えるとどうなる?」
「助かる」
「助かる? どうやって?」
「だから、そりゃあ……」
 文太の銜えた煙管を取り、煙草を詰めてやる。
「観音様のお慈悲でよ」
「……『かんのん』が助けてくれるのか?」
「そういうことになるな」
 はっきりとした物言いはしなかったが、文太はそんな男の説明に、何故か妙に満足したような気になる。何故、か。
 何故。
 あ、

「補陀落」

 男の手が止まる。
 二三度目を瞬くと、手にしていた文太の煙管を玩ぶようにし、再び文太に返しつつ、
「観音は知らねぇのに補陀落は知ってるのか?」
 問うた。
 文太は煙管を銜え、小さくひとつ煙を吐くと、ふるふると頸を横に振る。知らなかった。
「今、補陀落って言ったじゃねぇか」
「言った」
「知ってるンだろ?」
「知らん。……何処かで聞いたことがあるような気はする。何処で聞いたかは毎度のことだが」
「憶えてねぇんだな」
 うむ、と旨い煙を口に含んだまま、文太は同意を示す。一体何処で聞いたのだったか思い出せぬばかりか、既に補陀落なる言葉もまた忘れようとしている。厄介な記憶力である。
「補陀落ってのは観音様の住んでる山のことだな」
 文太が説明を求める前に男はそう解説した。
 気付けば時は経ち、蒼い光の降る月夜。獣の遠吠え、風の渡るざわめき、近くで鳥が啼く声も聴こえる。
 文太は、ああ、往きそびれた、と気付いたが、明日にすれば良いと思い直し、男も何も言わず本日も蒲団を敷く。
「補陀落は、何処にある」
 早速蒲団に潜る男へそう訊くと、
「さあ、な。俺は海の向こうだと聞いた」
 興味がなさそうに、小さく呟きが応えた。

 陽が昇ればその時だ。
 早朝、冷えた山に懸かる朝靄を切りながら、黒く丸みを帯びたもののけは進む。竹林は常ですら方向と云うものの感覚を失わせるが、もののけにとってはどんな天候にしろ変わりがない。
 ――歩いてゆけば、何処かには辿り着く。
 小脇に抱えた湯桶の中身は手拭い一枚煙管もひとつ、それに底の辺りでころころ転がる軽い音。いつの間にやら佇んでいた街道の脇で、やはりいつの間にか聴こえていたその音の正体を確認する。
 木彫りの小さな、像である。
 さてこれは何と云ったか、昨日見たか、いや昨日のはもっと大きくあったような――様々に巡るうち、この像に名前があったことも、文太はやがて、忘れた。
 ――歩け、歩け。
 一先ず湯だ。
 無造作に湯桶の中に像を容れ、文太は街道を辿る。
 途中、奇異な視線を送ってくる人々の中、白の衣の笈摺姿は、ゆっくり辞儀して擦れ違った。
 文太の往く道は、海へ通じている。



  妙音観世音 梵音海潮音
  勝彼世間音 是故須常念

  念念勿生疑 観世音浄聖
  於苦悩死厄 能為作依怙

 ――南無観世音菩薩。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年06月16日

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