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『波歌―花の言霊― 』
鬼童・蝉歌3372

……『    』

 ――――それは、もう随分昔に母の背で聞かされた花の持つ言霊。


■□―夏の始まり―

 一九八八年の夏の始まり。
 本州から少し離れた場所にある地図にない島で、小さな出来事が起こった。

 本当に取るに足らないことだった。

 朝方。夏の始まりの日差しはもう随分と勢いを増しつつある。
 砂は、日の出から光を浴び続けて熱され、裸足で歩けば熱いくらいだろう、ということは島のものなら誰でも知っている。
 そんな中を一人の少女が散歩していたのは、日ごろから彼女が打ち寄せる波の音を好いていたせいもある。
 けれども、彼女はあとになって、「あの日はなんだか足が向いたんだって。本当に、行かなきゃ、って思ったんだから」とどこか自慢げに笑っていた。

 ――――つくづく、おかしな女だ、と思った。


□■―蝉歌―

 またどうして自分がそんなところに倒れていたのかは知れなかった。だが、何故倒れたのかはなかなか容易に想像がついた。
 ……日射病だろう。
 真っ黒で、指の一つも引っかからない髪はいまだありえないほどの温度を保っている。
 頭の中がぼーっとしていた。記憶が著しく途切れている。
 少し、落ち着いて考えろよ、と鬼童(きどう)は大してあせってもいない頭で考えた。
 ここは……どこなんだ?
 確か、倒れた時には浜辺にいたはずだが、と開きにくい目で辺りを眺めると、どうやら自分が今いるのは人間の家のようだ、と思った。
 もう随分使い古されたいぐさの香りが鼻をつく。熱を持った自分の髪をさらさらと舞い上げる風は、懐かしい青い羽の扇風機から流れていた。
 ちりちり、と澄んだ音が聞こえる。どこかに、風鈴が吊り下げられているのかもしれない。
 ……薄暗い部屋だ。障子が閉められているせいか、あまり太陽の光は差し込んでこない。それは歓迎すべきことだ。
 おそらく、それなりの年代を過ぎてきた家だろう。随分と魂(たま)がこもっている。これならば、家神の一つも住んでいるかもしれない。それは厄介だな、となんとなく思った。ああいった連中は自分のような胡散臭い妖(あやかし)を嫌う。
 薄い布団の上に横たわったまま、鬼童はゆっくりとした呼吸を繰り返し、ぽつぽつと浮かび上がったしみで黒々とした天井に目を這わせていた。
 こうしていると少しずつ判然としなかった頭にはっきりとした思考が甦ってくる。そうして身体が調子を取り戻して行くのと共に、その最奥でずぐん、と蠢くものに気づき、顔を顰めた。

 蟲め。もっと成りをひそめやがれ。俺は人など食っていないだろう。

 憎憎しげに内部に毒づき、最悪の気分で鬼童は投げ出した手足を身じろぎさせる。
 この身体の奥底に巣食う蟲は、鬼童の冷酷な監視者。
 かつて人食いとしてこの世に生を受けた自分の生きる意味を失くした、忌々しい蟲。
 ある陰陽師によって体内に植え付けられたこの呪いの蟲は、内側から蝉歌を蝕み、人を食うという唯一の彼の欲望をけして許さず、満たさない。
 だからもう途中から数えるのもやめてしまった年月の間、鬼童は人を食っていない。食えなくなった。いつも飢えている。渇いている。たまに、叫びだしたくなるほどの激しい衝動を感じる。

 だが、それにも慣れきってしまった。順応性はある方なんだろう。
 ほら見ろ。もう、蟲の感触も馴染んできた――――。

 その時だった。
 板敷きの廊下を歩くにしては妙に軽快な足音が、遠くの方から自分のいる部屋に向かってくるのが分かった。
 知らず、身構える。手足がきちんと動くかどうかを確かめ、そのままの体勢で相手を待った。やがて、視線をはずさなかった障子がからり、と引き開けられる。
「……あ、よかった。目が、覚めたんだ」
 それは非常にオーソドックスといえるセーラー服を身に着けた少女だった。
 白い上着に赤いタイ。紺のスカートは長くも短くもなく、ふわり、と少女自身がたてた風に揺れる。無表情に目を開けたまま、身じろぎもしない鬼童の傍らに正座し、少女は「あんた、倒れてたんだよ、浜辺に」といってはにかんだ笑みを浮かべた。
 自分とはまったくかけ離れた空気をもつ少女だった。快活なさらっとした笑みをなんのてらいもなく向けてくる。――苦手な部類の人間だ。
 一瞬の内にそう判断した鬼童は、自分を助けたらしいこの少女に礼の一つも言おうとはしなかった。
 鬼童が喋ろうとしないことに少し不安を感じたのだろう。少女は彼の意識を確かめるように日に焼けた健康的な手を額に伸ばそうとする。鬼童がそれを嫌って軽く頭を動かして避けたのを見て、どことなく安心と困惑の入り混じった顔を見せた。
 鬼童は喋らない。
 少女も、それ以上は喋らずに、しばらく黙り込んだ。風鈴が二人の様子などてんでおかまいなしに涼やかな音をたてる。
 目の前の少女を行き過ぎて、鬼童はほんの少しあいた障子の隙間から外を眺める。
 太陽はさっきよりもさらに猛威を振るっているように見えた。ひどく暑そうだ。
 冗談じゃないな、あの中に出て行くとなると、とぼんやり考える頭の奥まで、非常にうるさい蝉の声が響き渡る。
 ――まだ夏の始まりだというのに。蝉はいつも気が早い。
 生まれたはるか昔、江戸という時代から、そんなことだけは変わらないままに。自分がこうして見も知らない少女の傍らで寝転がっていることが妙に不思議だった。
 ……しかし日射病で倒れるなんてな。どんな妖だか。ざまあない。
 あほすぎる不覚をとってしまった鬼童は、ただただ自分の間抜けさを呪う。蝉の声だけがそんな自分を責めたてる。だが、それも続けば何の気にもならなくなった。

 やがてそんな蝉の声が当たり前でしかなくなった頃。ほんの少しだけ途切れた声の合間に、いくらか勇気を含んだような声が聞こえた。それが少女が発したものだ、と気づいて意識を向けるまでにほんの数秒かかった。視線だけを向けてくる鬼童に、少女はもう一度言う。

「あんた、名前はなんていうの?」
「……もう覚えてない」

 聞いていることが分かれば答えるのは簡単だった。適当な偽名を答えてもよかったが、なんとなくそれさえも億劫だったから、一番よく使う言葉をするり、と言ってやる。
 少女はというと、初めて鬼童が喋ったことが嬉しいのか、また先ほどのように微笑んだ。嫌になるほど健康的な笑顔だった。勢い込んで尋ねてくる。

「わたしね、名前をつけるのはうまいの。名前が思い出せないなら、センカって呼んでもいい?」
「……センカ?」

 訝しげに眉を顰めると、少女は何度か頷いて、少しだけ開いていた障子を全開にした。思っていたよりも広い庭先と、眩しすぎる日の光が一気に鬼童に差し込んでくる。
 不快げな顔を隠そうともしない鬼童の様子をものともせず、少女は「ほら」とその庭の向こうに指を向ける。

 ――――真っ赤だった。

 彼女の細い指をたどって僅かに首を動かし、見た先にあったのは、鮮やかに咲き誇る赤の花。……それは、とても見慣れたものに似ている、と思った。
「ホウセンカよ。綺麗でしょう? 毎年うちの庭に咲くの。あの花のセンカなの」
 名前の由来を少し得意そうに説明した少女の方は見もせず、なるほど、と鬼童は心で頷いた。あの花が由来ならば、それはきっとお似合い、ということだろう。
 だって俺の手も身体も、あの花のように真っ赤に染まったことがある。
「……字は?」
「え?」
「字は、どうあてる」
 短い言葉でしか喋らない男が、どこか自嘲気味に笑った。どうしてだろう、と思いながらも、少女は聞かれたことを考える。
「じゃあ、蝉の歌と」
 お粗末な自分の頭にしては上出来だ、といいながら今いるこの状態にふさわしい字をあてて、少女はまたはにかんだ。
 鬼童はその日から鬼童・蝉歌(きどう・せんか)となり、しばらく少女の家に留まることになった。


■□―家つくり―

 少女の家を体力が回復するまでの根城とするために、蝉歌が一番最初にしたことは少女の家族に対する記憶弄りだった。
 同じ場所で長い時を過ごすことができない自分がいつの間にか身につけた、今は数少ない妖としての力の一つ。
 見たこともない老人たちが蝉歌を「よく来たなぁ」と迎え、見たこともない中年の女が「好物だったろう」と人間の食べ物をたらふく作ってよこした。
 設定なんかはいちいち細かく決めはしないから予想外のことを当たり前のように話しかけらることもよくある。だが、蝉歌が記憶弄りをする時の雛形には必ず『無愛想な』という形容詞がつくので、蝉歌が何一つ答えなかったことで何ら問題はない。そのあとにくっついている従兄弟だの、息子だの、孫だのという名詞はどれでもさして関係ないのだ。
 こうして予め自分の存在を認めざるを得ない偽の記憶を与えてやれば、自分はひとまず誰にもほとんど干渉されず一所(ひとところ)に留まることが叶う。
 ――便利な能力だ。今の世の中で生きていく妖には。
 だから蝉歌はいつも一番初めにその仕事を終わらせておく。根城にすると決めた場所にいる人間全員に。

 ――――けれど。――――なんでか。

 あの気に食わない顔で笑う少女の記憶だけは、まったく手をつけずそのままにしておいた。
 それでいいような気がしたとしか言いようがない。そしてその勘は間違っていなかった。
 知らないはずの蝉歌を親しい親類のように扱う家族について、少女は何一つ触れようとしてこなかったからだ。


□■―島の日常―

 島は、いつも穏やかに見えた。
 しばらくの間をこの島で過ごす、と決めた蝉歌は、特に何をするでもなく、ただひたすらに人間と関わることを避けてひっそりとした毎日を過ごしていたが、それがほんの数時間破られる時があった。
 ――例の少女が自分を見つけた時だ。

 大抵、蝉歌は波の音が良く聞こえる、それでいて人のいない静かな場所を好んで一日の大半を過ごす。少女がそんな自分の時間に関わってくるのはいつも学校が終わって、陽が最後の足掻きを見せる夕暮れ時だった。
 彼女は波間に紛れる蝉歌を見つけては遠くの方からまず声をかけてくる。
「蝉歌さん!」
 そんなにふったらはずれるんじゃないのか。
 思わず蝉歌がそう不安になるほどに、腕を大きく振り回しながら彼女は元気にやってくる。
 用事でもあるのか、と無言のままに首だけを回せば、いつの時もそういう類のことではなく、ただ自分を見つけたことが嬉しくて寄ってきているだけのようだった。
 この島に来て三日連続でそういうことをした少女に、蝉歌は心底訝しげに尋ねたものだ。
「素性の知れない男を見つけて何がそんなに嬉しい」
 少女は珍しく口を開いたかと思えば何を言う、というようなおかしげな笑みを浮かべて「だって蝉歌さんだもの」と返してきた。
 思わず呆れて「……あんたは妙な女だな」と呟くと失礼な、と膨れられた。彼女の反応は心底分らない。
 どことなく馴染みのない感覚がぽっかり体の隅に浮いてきて、それと一緒にずぐん、と呻く蟲に気づいた。ほんの少しだけ緩んだ顔が強張るのがわかる。
 そんな風に誰でも信用していると、そのうち鬼に攫われてしまうぞ。

 俺のような、無慈悲な人食いに。

 唇だけを動かして紡いだ言葉は僅かばかりも少女に届かず、彼女はなおも嬉しそうだった。
 急にとても嫌な気分になったから、目を閉じ、視界をふさぎ、意識を閉じて、気づいた時には辺りは真っ暗だった。そして、少女も消えていた。


■□―毎日―

 毎日毎日、出て行こうと思う。
 忌まわしい陽の光により著しく奪われた身体も、少しずつだが回復していた。

 それでも少し遠く、見晴らしのいい崖に上って、いざ奴らの偽の記憶を解いてやろう、とすると意識が止まった。
 そのまま夕暮れまで過ごす日も多かった。

 ――――わけがわからない。考えることさえ、面倒だ。

 自分の行動が理解不能で、こんなことはそうそうなかった。
 結局何もせずに真っ黒にそまった海の表面を飽きるだけ眺めて少女の家に戻った。
 惰性のように、日々は過ぎる。穏やかに過ぎる日々に埋没して。どこか、今までと違う自分が体の奥底から這いのぼってきている気がした。生まれかけている。
 嫌な気分だけが残った。


□■―海馬―

 ある日は、打ち寄せる波の音がとても好きだ、と少女が言った。
 蝉歌はそれを聞くとはなしに聞いていて、続けて彼女が何かにあたって舞い散る白い水も好きだ、といったので軽く笑ってしまった。随分昔に聞いた話を思い出したのだ。
 あれはいつのことだったか。
 古い時代だったのは間違いがない。目に浮かぶのは茶渋につけこんだようなボロ布を纏った老婆。
 ここと同じような狭い浜の隅っこの、崩れかけた小屋に住んでいた人間だった。

 ――――ざぁざぁ。波の音。
 古いことほど覚えている。頭の中に、甦る。

 よくよく考えたら随分昔から自分はこういう景色を眺めていた。
 もう人を食うことはできなくなっていたから、時間なんて山ほどあった。何かをしていないと狂ってしまいそうな時が過ぎれば、何一つしたくない時がやってくる。
 感情に僅かながらも起伏があることが、まだ自分が生きている証だった。
 たまに人の姿を目にしても、もう随分疼きはしなくなった身体をだるそうに抱えて、今と同じようにこうして波間を見ていたら、小汚い老婆がいつの間にかやってきて、自分に言ったのだ。

「海馬(かいば)を見ているのか」、と。

 その頃はまだ、かつて餌の対象でしかなかった人間と口をきくほどまではいっていなかった。だから蝉歌は黙って身じろぎ一つせずに波を見ていた。

 ――ざぁざぁ。波の音。
 老婆も蝉歌が聞いているかどうかはどうでもいいらしく、潮にやられたらしいしわがれた声で話す。

「海馬は、海の亡者じゃ。あの広く、深い水の底で命をなくすものは多い。海で命を落としたものは、すべて海に囚われる。囚われ、亡者となるが、きゃつらは陸に戻りたくてかなわん。だからああしてな。海から這い上がろうと、馬の姿で駆け戻るのよ。けして、けしてでられはせずに、同じように海底に戻されていくばかり。それでも諦めきれずにな」

 ごつごつとした岩にぶつかり、砕けた白い波の部分が、ちょうど馬の鬣(たてがみ)に見える。だから、海馬というのだ、と老婆は恍惚とした表情で言った。どこか、疲れを含んだ声でもあった。

 言うだけ言っていつのまにやら消えてしまった老婆はどうでもよかったが、彼女の語った話にはどうしてか興をひかれた。
「…………海馬」
 一人きりになった波打ち際で低く呟く。
 一定の間隔で繰り返す波の音が急に亡霊の啼き声のように聞こえて、おかしくもないのに笑った。

 それ以来、波の音はずっと好きではなかった。
 唯一の本能を封じられた自分と同じように不毛な存在のように感じたから。しても仕方のない苦労を重ねてどうしようもないことで足掻いている。
 そんな波の音を、少女は好きだ、と何の構えもなく言った。
 ふぅん、そうか。
 口に出して答えはしなかったが、すんなりとそう思った自分の思考に少しだけ驚いた。


□■―焦燥―

 こげついてくる。こげついてくる。どす黒い煙に包まれて、やがてすべて焼き払われる。

 皮が溶けて肉が削げ落ち、薄汚れた骨だけになれば俺は何になるのだろう。
 生ぬるい場所に埋もれる俺を嘲笑っているのか、蟲はぴくりとも動かない。

 蝉歌は思った。

 ――帰りたい。

 帰る場所など、どこにあるのか自分だって知らないのに。
 うわべだけ穏やかに、時は過ぎる。


■□―人食い―

 そしてある日。
 その日は、朝から妙な天気だった。
 島の中央に据えつけられた音の割れたスピーカーは、午後からの空模様と波の高さに十分注意するように、と告げ、島民たちはそれに従って乱暴ものの嵐を迎える準備を早くから始めていた。
 昭和という時代になってから現れたテレビというちっぽけな箱では(ものによってはでかいが)、頭を不自然に七三に分けた男が「この夏、最後の大型台風でしょう」と無表情に告げていた。
 だが、蝉歌にそんなことは関係がない。どちらかというと嵐は大歓迎だった。
 すぐにでも大粒の雨が降り出しそうな空の下、忙しげな少女の家族の目を縫っていつもどおり浜に足を向けると、何故か学校に向かうはずの少女が自分の後ろにくっついてきた。
 迷惑そうな目を向けると、「今日は警報で学校はお休み」とどうでもいいことを言ってきた。
 追い返すのも逆に面倒で、勝手にしろとばかりに歩き出す。
 歩く道々は、いつもとまったく変わらない。
 喋らない蝉歌と、それを気にせずに何かと話しかけてくる少女。
 学校は急に休みになったのか、少女が着ているのは初めて出会ったときと同じセーラー服だ。
 一度も言ったことはないが、少女にはそれが良く似合っている、と蝉歌は思っていた。

 ――もしもそう言ってやったなら。きっと、とても嬉しそうな顔をするんだろう。

 今まで考えようともしなかった思考がこんなにも簡単に出てくるようになった。
 これは、どういう変化なのか。
 喜ぶことなのか、そうではないのか。
 ただ、このところ一度も蟲が体の中で動かない。それがどうしてなのか、蝉歌ももはや少しずつ気づいていた。
 むしろ、もう理由は知っていた。だけど認めるのは面倒で、それで見ないふりをしているだけのことだ。
 もう少し、なのか。もう駄目なのか。
 答えはどちらかだったけど、それはまだ決めかねていた。

 歩く道の土はやがてだんだんとさらさらとした砂になり、足は今まで以上に深く地面に食い込むようになる。履き古したスニーカーはどこかに穴でもあいたのか、こまかな砂が靴底に入り込んで足の裏をざりざりと押す。
 それは初め気持ちの悪い感覚だったが、素足で砂を踏んでいたことを思い出せば何の気にもならなくなった。靴がこうなり始めれば浜はもうすぐそこなんだから。
 そう思って何気なく顔をあげた蝉歌の顔に、厚い空気の塊がぶつかってゆきすぎる。
 浜だ。
 もう、随分風が強い。岩場の方を見れば波も高かった。――嵐が来る。風はすでに雨の匂いを含んで重く、空は完全に雲に阻まれ、薄灰色に染まる。
 蝉歌の赤い目にその全てが映りこむ。黒い髪が乱暴に空へと吹き上げられた。
 どことなく、この風は気持ちがいい。
 何故だかわからないが、懐かしい感じがする。

 そう思ってぼうっと空を眺めていると、いつの間にか黙り込んでここまでくっついてきていた少女がやおら波に向かって走った。
 突然自分の隣を行き過ぎる少女が切っていく風と、砂の気配に何事か、と少女を目で追った。
 蝉歌のものよりもまだまだ長い、少女の黒髪が風になびき、まるで戦にあげる名乗り旗のようだと暢気に思った。目を眩しげに顰めた瞬間、激しい水音がして少女は海へと飛び込んでいく。
「!? おいっ――」
 そこでようやく事態に気づいて、蝉歌は慌てて少女を追った。衣服が濡れることも気にせず、いつもよりも鈍い色合いの波間をざばざばとけり散らす。
 やがて彼女の細い腕を捉えた時には、もう二人ともびしょ濡れだった。
「おまえは――莫迦か! 何をしてる」
 いらだった声で少女を引き戻すと、少女は何の表情も浮かばない、自分のような顔で振り返った。
 じっと視線を向けてくる。それに動じるような蝉歌ではないので、しばらくにらみ合いが続いた。
 やがて、少女が少しうつむく。泣くのか、と思ったら、そうじゃなかった。彼女は、怒っているようだ。
「――――だって、蝉歌さんが」
 あんたが、どっかに行ってしまいそうな、そんな顔をするから。
 押さえつけた声でそう答える少女に、蝉歌は「何だ、それは」と眉を顰めて呟く。
 それでどうしてこういうことになるんだ。
「ちょっと驚かしてやろうと思っただけ。だって蝉歌さんはいっつも眉一つ動かさないんから。――でも、追っかけてくれなかったらどうしようかと思った」
 一人で濡れただけだと莫迦みたいだし、と不機嫌そうに言う少女に、ほうっとくんだった、と蝉歌は掴んでいた手を離した。
 水を吸ったズボンが重い。塩水だから、渇いてもべたべたするだろう。
 踵を返してまたざばざばと波を蹴る蝉歌の背中に、少女の声が追いかけてきた。

「――――蝉歌さんは知ってる? この島に伝わる昔の話」

 答えず、もう一つ二つ足を進める。声はやまなかった。少女の声は張り上げている風(ふう)でもないのに、波音に紛れずよく通る。

「多分、知らないでしょう? 島の、人食い鬼の話」

 ばしゃり。
 足が止まった。
 ほんの数瞬で振り返る。
 少女は、自分に背を向けていた。遠く、どこまでも続く水平線の向こうを眺めて、次第に高くなる波にもはや腰まで浸かっている。波の流れは、少しずつ速さを増していたが、少女は根でも生えたように止まった場所からぴくりとも動かなかった。


「……こんな風に海が時化る日にはね。海から鬼がやってくる。この島には、そういう話があるの」

 遠い遠い、昔の話。

「そいつは無慈悲な人食いで、固く戸を閉めた人間たちの家にやってきては、片っ端から人を引きずり出してしまう」

 少女の声は、歌に似ていた。

「とりわけ、好むのは子供と女。親が泣き叫ぼうが、女がひれ伏そうが、何一つ残らず食ってしまう。頭からばりばりと食ってしまう」

 やがて、ぽつぽつ、と、雨が降り始めた。

「あんまり鬼が無慈悲に人を食らうので、村人たちは一人の偉いお坊様をこの島に招いた。お坊様は、大きな船で、恐ろしいほど早い船でやってきた」

 足の下の砂が、水の下の足を隠しては、さらけ出した。

「とても強い力を持ったお坊様とその鬼は、三日三晩戦い抜いた。そうしてしまいに……鬼は、お坊様に退治された」

 ずぐん。このところ一つも動かなかった、蟲が動いた。

「お坊様は人食い鬼を石にした。島には、今でもまだその石が残っている。人食い鬼なのに……人の形をした、石像が」
「村の人たちは、その石を憎んだ」
「憎い憎い鬼がそのままの姿を晒した石が、憎くて仕方がなかった。だけど、お坊様がこれをきちんと奉るように、と言ったから、そうした」

 いつの間にか、少女はこちらを向いていた。少しずつ、自分に近づいてくる。
 蝉歌は一つも動かなかった。顔には、どんな表情が浮かんでいるものか、自分ではわかりようもなかった。
 やがて、少女が目の前に来る。
「わたし、その石を小さい頃に一度だけ見たことがある」
 蝉歌は少女を見た。少女の手が無造作に伸びてくる。思わず、数歩後ろに下がった。少女は小さく笑ってそれ以上は近づこうとしない。
「憎むはずの人食いの鬼のなれの果ては、わたしにはとても憎めなかった。本当は、そんな昔話なんて全部嘘で、ただの誰かが作った石像かもしれないけど」
 だってすごく悲しそうだったの。
 少女はもう蝉歌を見ずに、下でゆらぐ波を見つめてぽつん、と言った。ざばり、と水を掻いて、そのまま蝉歌の横をすり抜ける。

 波間に残された蝉歌はしばらくたってようやく彼女の背を振り返った。一足先に水から上がった彼女は濡れたスカートをしぼっている。
 気づいたら、その背に聞いていた。
「……あんたは。自分の家族が食われても憎まないか、その鬼を?」

 少女は蝉歌がそんな問いかけをしてくるとは思いもしなかったらしい。しっかりとした拒絶を浮かべていた背中さえも覆して、まん丸な瞳で蝉歌をまじまじと見つめてきた。
 蝉歌は繰り返す。

「……村の連中が憎んだのは、近しい大切な者が食われたからだろう。あんたは、どうなんだ」
 まったく同じ目にあって、それでもそんな暢気なことがいえるのか。

 自分でもあほらしいことを聞いている気になった。それでも繰り返して聞いた。
 少女の目は少しばかり蝉歌を咎めるように揺れて、そしてしばらく視線を外し、海を眺めていた。
 海は徐々に波を増す。雨の勢いも強くなってきた。間もなく、時化がくるだろう。
 蝉歌もそれ以上急かすことはせずに、むしろ――その問いかけ自身、やはり莫迦らしく思えて、ただ変則的な動きを繰り返す海馬を眺めていた。せり上がり、今にも這い登ってこようとする海の哀れな亡霊たちを。

 ――どれだけ時が過ぎたか知らない。
 耳には波と風と雨の音しか届かない。やがて亡霊の叫びも静けさに溶け込んだ。

 波間に立ち続けることにも、答えを待つことにも飽きた蝉歌は、もっと風の吹く場所を探そうか、と重たいほどに水を吸った足を上げる。
 少女がしたように波を蹴って、やがて砂の上にたどりついた。濡れた砂はこれでもかというほどに足に絡み付いてくる。
 脇を抜けていく蝉歌を、少女は振り返りもしない。
 大して気にも留めず、砂を踏みしめて歩いてゆこうとしたその耳に、僅かにかすれた声が届く。

「わたしは――――きっと」

 その声が風にのって自分の耳に届いた時。蝉歌はもうこの場所からいなくなってしまおう、と思った。


■□―独り言―

 わたしは――――きっと、その鬼を深く憎む。憎むけど、その目がとても悲しそうなら。……やっぱり、最後までは憎みきれないかもしれない。


□■―芽生えかけた何か―

 ――言われるまでもなく、すべてを許してしまいそうな少女だった。
 自分や、自分の大切なものを害するかもしれない相手でさえも、彼女は。
 ひどく苦しんで。どうしようもなく、迷って、躊躇って、それでも。――許してしまうのでは。同じ血の通わない人食いを、許そうとするんじゃないのか、と。
 それはただの直感だ。けど、そういうのに限ってよくあたる。
 これ以上少女の傍にいることで、いつか見透かされてしまいそうな自分の罪がぴっちりと背に重くのしかかった。
 俺は――そのすべてを知られることよりも、知られたあとに俺を受け入れるかもしれないあの女が何より恐ろしかった。

 今でも、何故、と思うものを。
 俺たち妖とどこも変わらぬ醜悪な人という生き物を食いちぎろうとするたびに何故これほどまでに頭が痛むのか。
 事実と理屈は分かっていても、生まれた時から消えたことのない本能は知っているというのに。

 その本能を許す人間がいた時、自分は。一体、どんな気がするんだろうか。

 ――――その先は考えたくもなくて、いつも通りに考えを放り投げてしまった。

 深く底の見えない心の淀みの中に沈めて、けして見はしない。

 触れられたくない。触れられたくない。まだ、どうしても……俺には、分からないから。

 知らず握り締めた指の爪は、強すぎて蝉歌のやわらかな手のひらを傷つけた。
 赤い血が、一筋流れてぬかるんで泥になった土に混ざる。
 それが人間が流す血と変わらない色であることを、蝉歌は意地でも見ようとしない。見ずに、ただ、いつものようにどこかだるそうに、砂の上を歩いて行く。
 水を盛大に吸ったスニーカーが奇妙な音をたてて啼く。
 啼く声が聞こえる、砂の上を、ゆっくりどこまでも歩いていった。


■□―夏の終わり―

 夏の始まりに割れよ、とばかりに鳴きわめいた蝉は夏の終わりにふっつりとその声を閉ざした。秋を知らせる蝉はいない。この島には、いないのだ。
 胸いっぱいに大好きな古ぼけた木の香りを吸い込みながら、少女は家の縁側からその月を眺める。
 いつも眺める風景だというのに、今日ばかりはそれが少し懐かしい。
 同じような月が夜を飾った日が幾度とあった夏。その夏が終わった嵐の一夜に。
 一人の少女が見つけた男は跡形もなく、消えてしまっていた。
「じゃあな」も、「またな」も何もなかった。
 彼のいなくなった家の中で、彼のことを知っていた家族たちは当たり前のようにその記憶を綺麗さっぱりなくしてしまっていた。
 入ってきた時も、少し驚いたけど。
 そういう便利な力なんだろう。それとも、自分だけが長く狐にでもだまされていたのか。

 ……狐にしては、目つきが悪かったけど。

 そう思って、少女はなんとなく浮んだその考えを笑う。
 蝉歌さんは、こんなことを思うわたしをきっとまた面倒そうに見るだろう。呆れた顔で、「何を言っているんだ、あんた」と言うのかもしれない。

 ……だけど、最後まで。わたし――あなたに触れられなかった。
 それだけが、ほんの少し。少しだけ、わたしは悲しい。

 こんな田舎では月だけで十分空は明るい。
 目に映るすべてに意識を馳せて、少女はゆっくり目をつむる。
 ――――静かな波の音が聞こえる。

 わたしね、名前をつけるのがうまいの。

 そう言った時の、とても不思議そうに、そして迷惑そうに眉をしかめた蝉歌の顔が浮んだ。
 ……うまかった、でしょう? わたし、ぴったりの名前をつけたでしょう?

――――『ホウセンカのセンカなの』

 だけど、もし、もう一度だけでも、会えたのなら。

 小さく古い唄を幾節か口ずさんで、少女は縁側で足をぶらぶらさせた。



 一九八八年の夏の終わり。
 本州から少し離れた場所にある地図にない島で、とても小さな出来事が起こった。

 本当に取るに足らないことだった。


 ……『私に触れないで』


 ――――それは、もう随分昔に母の背で聞かされた花の持つ言霊。
 

 わたし、あなたがなんなのか、ほんとはなんとなくわかっていた。


END


*ライターより*
はじめまして、ねこあです。
この度はご発注ありがとうございます。

できるだけ設定を自分の中で消化させ、私なりの彼らの始まりと終わりを書かせていただきましたが、イメージを壊していないか、ただそれだけが心配です。後半少しねこあ風味がですぎたような気がするので。(つまり走っている)

少しでもお気に召せば幸いです。
それではありがとうございました。

ねこあ拝
PCシチュエーションノベル(シングル) -
猫亞阿月 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年06月15日

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