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『男は背中で愛を語るべきなのだ 』
上社・房八2587)&本郷・源(1108)

 年頃、思春期の少女と言うのは、とかく傷付き易くて繊細である。
 が、同じように年頃の娘を持つ父親と言うのも、同じく傷付きやすいものなのである…。

 その日、房八は見てはならぬものを見てしまった。見なければ見ないで済んだ筈なのにと、房八は、己の鋭い嗅覚を呪った。だが、今となっては後の祭り。房八の、扉の縁を握る手の平が、緊張の余りぶるぶると震え、知らず知らずのうちに頬には涙が伝っていたようだ。
 それから、房八は自分がどうしたのか覚えていない。まるで魂魄が抜け、封神され掛かったかのよう、男はふらふらと覚束ない足取りで街を歩いた。そうして辿り着いたのは、夏と言うその商売における最大の敵を前にし、且つ、伝説の食材探しも難航中のおでん屋台【蛸忠】であった。

 「…おや、珍しい顔ではないか。いらっしゃい」
 暖簾を手で掻き上げ、屋台の席にどっかり腰を下ろした房八を見て、物憂げな表情の源が客を迎え入れた。夏故か、余りおでん種の入っていないおでん鍋を前に、頬杖を突いて大欠伸をかます。物憂げと言えば聞こえは良かったが、実のところは暇を持て余していただけかも知れない。
 「酒」
 「は?」
 「………酒」
 いつもと違い、棒読み、虚ろな目でそう注文する房八に、源は驚いて目を丸くするが、そこは商売人。あいよ、と小皿の上にコップを置き、そこに冷酒をとくとくと注ぐ。透明な液体がガラスのコップから盛り上がり、表面張力を超えて小皿へと溢れ出すまで、源は日本酒を注ぎ続けた。溢れた分が、小皿からもはみ出そうになる。それは彼女にしてみればかなりなサービスであったが、その事にさえ房八は気付かないようだった。源から冷酒を差し出されるとグラスを小皿ごと取り、まずは小皿の酒を啜る。それから一気に半分程、グラスの冷酒をぐぐぐいっと飲み干してしまった。
 「……。いい飲みっぷりじゃな。どうかしたのかえ、房八殿」
 「……ぁ?……あ、源さん……」
 房八が目をぱちくりとさせる。どうやら、今になってようやく、己が何処に居るのかを悟ったようであった。
 「房八殿にしては珍しいのではないか?おんしはいつも身体には気を遣っておったではないか。愛娘がちゃんと成長するまでは、とか何とか……」
 「娘……」
 源の言葉に感応するよう、房八がその部分だけを繰り返す。うん?と聞き返そうとした源は、次の瞬間、思わずぎょっとして椅子から転げ落ちそうになった。何故なら、イイトシこいたオッサンが、おでん屋の台に突っ伏して、おいおい泣き始めたからである。
 涙ながらに房八が語った話しは、こうである。


 つい数時間前の話である。上社家では、多忙な母を想い、暗黙の了解で休日の洗濯の係りは娘と言う事になっている。
 素晴らしい。房八は自画自賛した。イマドキ、進んで家の手伝いをする小学生がどこにいるだろう。確かに、小学生の仕事故、シャツの縁が伸ばされないままに乾いてしまった等の仕上がりが甘い部分もあるが、それはそれ。しかもその理由は、『お母さんは大変だから』だ。なんて優しい娘だろう。そこで、『お父さんは大変だから』との理由で、己を労ってくれた事などついぞ一度も無い事実には気付かない辺り、房八の思考能力には娘ラブのフィルターが掛かっている。
 で、今日はそんな休日である。しかも天気も上々、お洗濯日和。勿論、娘も鼻歌など歌いながら水場の方に居た。
 房八は、そんな働き者の娘に、『ご苦労様』と声を掛けようと思ったのだ。そうすれば、『そんな事ないわ、当然の事よ』『いやいや、思っていてもなかなか出来ない事だよ、父さん自慢の娘だよ、お前は』『いやね、お父さんったら。でももしあたしが自慢の娘だとしたら…』『うん?』『……お父さんの娘だからよ(頬染め)』何て言う微笑ましい親子の会話が交わされた筈だったのだ(妄想率二五〇%)
 だが。しかし。
 現実は、余りに房八にとって辛いものであった。確かに、世間的にそう言う話は良く聞く。だがそれは、愛の無い寂れた親子関係でのみ見られる現象だと思っていたのだ。よもや、この愛情溢れた上社家に、そんな悲劇が訪れようとは……。

 「どうでもいいが、おんしの話は要領を得んな。もっと核心を的確な言葉で表現する努力をせんか」
 「……嬉璃殿、いつの間に…」
 いつの間にか、嬉璃が源の隣にやって来て、同じように頬杖を突いて房八の語りに聞き入っていたのだ。
 「で、何が起こったのぢゃ。娘が万引きでもしたか?それともえんこーでもしたか?或いは……」
 「わっ、私の娘は、そんな子じゃありませんっ!」
 「ではなんぢゃ。有り体に話をするが良い」
 「………せ、洗濯物を……」
 「洗濯物を?」
 嬉璃と源が、声を合わせて復唱する。
 「わ、私の洗濯物……ぱ、パンツを……」
 「房八殿のパンツはビキニかえ。それともトランクスか。或いはいっそ、懐かしき白のブリーフ、はたまた由緒正しき越中褌!とか…」
 「おんし、詳しいのぅ」
 嬉璃が感心したように源の方を見ると、源は女の嗜みじゃ、と頬を染めて恥じらった。
 「フツーのトランクスですよ。何の変哲もない。その、至って平凡、スーパーで三枚九八〇円で売られているような、父親のトランクスをですね…あの娘(こ)は………」
 ぐすん。房八が啜り上げた。
 「あの娘は、箸で摘まみ上げ、洗濯籠に戻したんです!!」
 どーん!房八は、またわーっと泣き崩れ、台に突っ伏した。


 「確かに、休みの次の日、妻と娘の下着は洗濯が完了しているのに、私のだけ残されている時があって、不思議に思ったものです。しかし、よもやこんな事になっているとは…」
 「その調子だと、普段の洗濯でもおんしの下着だけは仕分けされているようぢゃな。大方、娘が母親にそう頼んでいる事であろ」
 頷きながら嬉璃がそう指摘すると、思い当たる点があるのか、房八がウッと言葉に詰まって黄昏た。
 「嬉璃殿、本当の事をそうズバズバ言うものでない。房八殿がショックを受けているではないか」
 「片腹痛いわ、その程度の事でしょげるような男、ざっくり袈裟懸けに斬り捨てて、山の野犬にでも食わせてしまうが良い」
 さすが、男嫌いの嬉璃、言う事が辛辣…と言うより、むごい。
 「まぁまぁ房八殿。娘御は過敏なオトシゴロなのじゃ。あの年の娘は、父親と同じ年齢の男を須らく嫌う時期と言うのがあるからの。まぁ、愛情の裏返しだと思えば…」
 「裏からもう一回裏に返って、実は表だったりするのぢゃがな」
 ぼそっとツッコむ嬉璃に、源が事実を言うなとシィッと小声で諫めるが、目の前でこっそりそれをやられても一目瞭然過ぎて嘆くに嘆けない。
 「しかし、今まで手塩に掛けて育てた娘に、そんな汚いものみたいに思われているなんて…」
 「案ずるな、房八殿。おんしだけでない。おそらくこの世の殆ど全ての父親が、少なくとも一回は、娘からバイキン扱いされておる筈じゃ」
 にこり笑ってフォローしたつもりの源だが、バイキンと言われた房八は、さらに嘆いて空を仰いだ。空には、おでん鍋の湯気で少しだけ変色し染みの浮いた、屋台の木の屋根が見えただけだったが。
 「じゃがな、房八殿。娘はそのうち気付くものなのじゃ。父親の存在、と言うものの大切さを。今は、敏感なその感性故、一番最初に認識する異性―――つまり、おんしら父親の事に関して過剰反応しているだけなのじゃ」
 「過剰反応…ですか」
 房八は鼻を啜り上げ、冷酒のお代わりを頼む。さっきのコップに、またなみなみに注ぎながら源が話を続ける。
 「そうじゃ。つまりは、娘御はそれだけ成長していると言う事なのじゃ。それを喜んだらどうじゃの、房八殿」
 「成長…ですか。確かに、娘は、一人前の女性になろうとしているのかもしれませんね…」
 しみじみとそう語って、冷酒を啜る房八。その瞳には穏やかな光が宿り、その場に居ない愛娘を慈しむ色に染まっていた。源は、そんな客の表情を目を細めて見遣る。
 「そうじゃ。もう少し待つが良い。そのうち、娘御も気付くであろ。父親が、どれだけ己の事を慈しんでくれていたか、をな。黙って堪え忍び、背を向けている振りでただ見守ってこそ、それが父の愛情と言うものじゃ」
 「……なかなか父親と言うのは大変なものなのですね…」
 感慨深げにそう呟く房八であるが、諭されている相手が己の娘よりも更に年若い六歳時である事には気付いていないようだった。
 「ありがとうございます、源さん。私は少し焦り過ぎましたね。もう少し、娘の事を信じてあげなくてはいけなかったんですね。母親の為に洗濯してくれるような優しい娘ですから、そのうちきっと、私の事も穏やかに見られる時が訪れましょう」
 そう言って頭を下げる房八に、源はただ頷き、微笑むだけだ。ご馳走様、と礼を言い、房八は代金以上の札を置いて立ち上がる。その金額を見て、源が口許で笑った。
 「これはツケにしておこう。今度おんしが来た時に、この分で旨い酒を飲ましてやろう」
 「楽しみにしてますよ、源さん。では嬉璃さんも、お先に御無礼します」
 会釈をし、また暖簾を手で掻き上げて屋台を後にする房八。その背中が消えるか消えないかのうちに、嬉璃が呟いた。
 「…ぢゃが、娘御が父親に寛容になった頃には、大抵は他の男に掻っ攫われていくのぢゃろうがの…」
 どんがらがっしゃーん!、と向こうの方で何かが何かに蹴躓いて派手に転んだような音がした。


 打ち拉がれつつ、房八は自宅へと戻った。既に時は夕方、近所のどこかの家で魚を煮る甘辛い匂いが漂い、平凡だが平和な空気が周囲を包み込んでいた。
 「……ただいまー…」
 疲れた様子で玄関の扉を潜り抜ける。すると、偶然にか目の前に、娘が棒アイスを咥えて立っていたのだ。
 「あ………」
 房八がつい口篭る、先程の源の言葉、娘は女としての成長過程なのだと言う言葉が脳裏に浮かんだ。
 「た、ただいま」
 乾いた口を無理矢理引っ剥がしながら、房八はもう一度言う。すると、娘は目を瞬いてこう言った。

 「……出掛けていたの?」

 が――――――んッ!!


 どうやら房八は、家に居たのか出掛けていたのかも気にされない程、娘の中では存在感が希薄だったらしい。オカエリ、とおざなりに返して自室へと引き上げる為に階段を昇る娘の足音が遠ざかり消えてもなお、玄関先に突っ伏して屍累々とする房八の抜け殻は動けなかった。

 哀愁一杯の父親の背中には、残酷な程に優しい夕焼けの光が降り注いでいた……。


おわり。
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東京怪談
2004年06月14日

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