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『さみだれ 』
綴・真言2719

 雨は遠い、と、さみだれの最中にあってでさえそう思う。なかに閉じこめられることは多くても、すぐ傍ら――極限の近接――にいられるような機会はめったに訪れず(あったとしてもそれはもはや『別の』雨になっているだろう、ヘラクレイトスのとなえた万物流転の法にのっとって)なかなか全体の把握をさせてくれない、いったいほんとうは何をしたいのやら思惑がさっぱり理解できない、それはまるで寂しがりやなくせに強情で気の弱いくせに意地っ張りな、始末におえない少女を連想させるから――‥‥。
 だから、嫌いだ。
 天上のひきこむ至福の元素も、都会においては大抵が路肩の溝に吸いこまれる運命にある。アスファルトの表面にすこしのあいだわだかまる、化石の骨のような底しれぬ黒光をたたえる、たまりみずにブーツのヒールを投げ込んでやると、飛沫は物理法則の義務感からけだるげに放散した。綴・真言(つづり・まこと)はかすか眉をひそめる。手には愛想のない彩度のブラウンのアンブレラ、彼女を具象した湿気から隔離する。
 ほんとうのところ、今日の真言はもうすこしはしゃいでもよかったのだ――それが本人に似合いか、だの、本人の所望か、だのは別の問題としても。めずらしく仕事を紹介されたし、首尾も上々。こちらの被害はたったの民家半壊で、もちろん真言の住宅とは異なる出先のものだ。なぁに、よけいな気を遣うことはない。保険はかけてあるだろうし、あんなおもしろみのない手抜きの構築なんぞ1ヶ月たらずで復元できる。仕事の成功で、懐は適度にぬくい。幸福の100パーセントを金銭で手に入れることはできないが、やりかたしだいで、99パーセントぐらいは可能なはずだ。
 しかし、そんなことは路傍の石にも劣る価値しかないとでもいうように、濡れたブーツを引き上げた真言は、カツン、とひとつ、爪先で石をころがそうとし、損ねる。
 顔までゆがめたのは、らしくない過敏さだ。原因は、くるぶしを刺すように突如はしった瞬間の激痛、その後の疼痛。いつのまにか、ひねったか。面倒な雨といい、不吉がかさなる。
「早く帰りましょう」
 幽霊を誘うように、真言は世界へささやいた。無口な死霊が通りすぎるばかりの、生のかきうせた世界へ。
 早く帰って、手当をしよう(だけど、湿布は家にあっただろうか。救護箱はもう何ヶ月も封じられたまま、そもそもどこに置いておいたかも定かではない。もちろん内包物のリストなんぞ、記憶の断片にすらなかった)。雨も面倒だし、痛いのもきらいだから。
 肉体の傷病は、精神をうがつ。ひらかれたうつろから、ごぼり、ごぼり、と記憶が涌く。温湯か清水ならば歓迎もしようが、それはたいてい、悪質な汚水だったり虫にまみれた潮だったりする。おまえのなかにはそんなものしかないのです、と、うすくせせらわらう冷血。捨てたはずの、無間、どうしてそこにいるのだ。
 ほら、今日も。
 ――まぶたを掩った、ひどく紅い幻聴。

◇◇◇

 路地裏にしょんぼりとうち捨てられた、大振りの紅の花。どこかのしあわせなお嬢さまが、花籠からでも落としていったのでしょうか。光源のすくななすきまで、それらは暗がりに沈むことなく、やけに浮きあがって見える。こちらにおいで、と誘ってみえる。みちびきのままに近付いて、ずいぶんと体積のたりぬことを知った。遠めからでも面積だけはやたらにあることが、分かっていたけれど。
 紅のフィールドは、いまもって拡散のワークを続行する。
 包み込むための宛があるかのように、滔々と拡がってゆく。いつのまにやら真言をかこむまでになっている、首を回した八方をすっかりとりこまれたところで、あぁ、と得心した。
 ‥‥なんだ、これはたんなる流血ではないか。
 死にゆく世界で、またなにかが死ぬ。その、とげとげしい、前兆のビジュアル。
 紅のなかに、黒が横たわっている。それには脚、胴、胸、腕、そして顔があり、要はただの、肉片の元、人、だ。虚空に据えた瞳だけに生き物の力が残っており、ギラギラと何者かを呪っている。ひゅぅ、ひゅぅ、と途切れ途切れの呼吸。苦しそうとかつらそうとか感じるまえに、いかにもできすぎた調子っぱずれに胸の苦い部分から笑いがこみあげかけて、それを抑えるのに一苦労する。葬礼に必要な道具は、百合と喪服と涙、どれも用意できそうにないから、せめてふさわしい表情ぐらいはしてみせないと。もうすぐ終わりをむかえる死者がひとり、終わりをむかえそこねた生者がひとりの、閉鎖した儀式はじきにほんとうの意味で閉じられようとしている。死者のてのひらが真言(いつのまに、そこまで)の足首をつかもうとし、かなわず墜落する。パーフェクト・アウト。
 あぁ、とうとう死んだ。
 死んでしまった。
「しかたがなかろう。おぬしが殺したのだから」
 どこかで誰かが宣告する。無情。怖いくらいに落ち着き払った、だが『音声』というにはあまりに掴み所のない紫煙のような声が、状況を端的に読みあげる。真言はそれを当然のこととした。犯罪を知られた、という事実にも、気配もなしに出現した、という不思議にも反発しなかった。唯々諾々と流されながら、しかしひとつだけ云わなければいけないことが、
「殺すつもりはなかったのです」
「それは言い訳ととるべきか」
 いいえ、
「ほんとうに。殺すつもりなんかなくって」
 ただ、
「生きようとしたら」
 もうちょっと生きてみたくて。
 でも、自分が生きているとはとても思えなくて。
 いっしゅんいっしゅんはそれでもよかったのだけど。ふとしたときに顧みるのだ、他人にさらせなくなった肌や、からっぽの腹、湯水のごとくあびせかけられる誹謗。心を凍らせれば、毎日を耐えられないことはなかった。なんにも傷つかないふりをつづけていれば、破れた皮膚はそのうちにダイアモンドより堅牢な覆いにとってかわられ、いつか来るだろう新しい時間をもっと強く生きられるはずだった。
 しかし気付いてしまったのだ、傷つかない『ふり』はけっきょく己の疵痕を認めてるだけ、ということに。新しい時間はいつ来るのだろう、それを待ち望む希望すら消え失せそうになってゆく。たいしたパラドクスだ、感受性の停止はそれを生み出した目的すら食い尽くす。生きるための擬態が、生存本能を刻一刻と劣化させる。
 それが怖かった。
 生きたかった。
 だけど、王子様はあらわれない。親切な妖精もあらわれない。釈迦の下ろす蜘蛛の糸もない。いっさいを持たぬ真言は、手ずからおこなうしかなかった。――まぁ、そこまで確たる料簡があったわけでもない、現実にはどうしようもない流れがあっただけだ。はじめはいつもとおなじで。あの人が汚らしいことばといっしょに唾を吐き、それが真言の頬を打った。なにげなく真言は頬をぬぐったが、それが彼女の気分に障ったらしく、いつもよりも凄惨さをました折檻がはじまった。真言はしまいまで耐えきった。音をあげたのは、むこうのほうだ。狩りを終えたばかりの獣のように暴力的な息をつきながら、真言から背を向けた。
 行ってしまおう、としていた。
 真言が堪えに堪え、あとすこしで天国のごく近い場所へ昇華できるはずのものを、踏みつけてにじってなかったことにしようとしていた。
 だから、先に手を下した。明確な殺意があったわけではなく、所有の希望が先行しただけである。おねがい――をとりあげないで、と。たしかに、あなたはあなたの腹をいためて私を産んだのかもしれないが、そんなの、とっくに過去の遺蹟の砂礫の一粒となっているのです。きっと。そして、真言の真相は切実なねがいに力をよこした、それまで真言自身も知らなかった力を。
「こうなっただけです」
 もしかすると『どうしようもない流れ』と感じたのは知覚のてちがいで、あらがう方法はまだ残されていたのかもしれない。道はふさがれたのでなく、横にそれていたのかもしれない。が、全部が全部、遅いのだ。真言はすぅと自嘲する。しでかしたことの意味も意義も分かっている、結果も余波も想像できる。逃亡という選択肢はなかった。だって現にもう、見つかってしまったじゃないか。目撃者を屍に帰するという方法もある。が、こんなことは一度でいい――否、できることなら一度だっていらない。
「生きたいか?」
 ところが、声なき声はおかしな質問を真言に投げる。さっきからそうだと云ってるのに。真言は口をとがらせるでなし、柔順な態度でうなずく。
「それでは、私が」
 気まぐれな息継ぎ、のあとの、気まぐれな台詞。
「生きる術を与えてやろう」

 ――‥‥20歳よりも一回り小さな真言が、電球の明滅する街灯の下で、妙にすましたとんがり帽子を発見する。

◇◇◇

 にゃあ、と呼びかける声音に、現実世界へ精神ごと帰還する。いっそう強まった雨脚に、三半規管を直に荒らされたようなような錯覚におちいったものだから、今の声音も幻かと寸刻かんがえたが、間髪おかず、にゃあ・にゃーあ、とたてつづけにふたつ、それもご丁寧に短音と長音をつかいわけるとは、幻にしては気が利きすぎている。
 下げぎみだった傘を幾分上向きにし、多重の線とおちる雫のあいまから、外界をみきわめた。すると、視界のはじにちょっとした違和感、まるでしつらえたような段ボールの蜜柑箱がひとつ、道のわきに置き去りにされている。
 なかで、小さな黒猫が一匹、ふるえている。
 小さくみえるのは、仔猫だからというのもあるけど、雨ですっかり濡れそぼり全身の毛が寝ているせいだ。箱をのぞきこんだが、兄弟姉妹はいないらしい。真言は箱のうえに傘をさしかける。ぬぅっと突きだされた雨避けに愕いたか歓んだかは定かでないが、とにかく仔猫は鳴くのを中止した。
「黒猫‥‥」
 降雨、負傷、ときて、こいつが三番目の不吉の象徴だろうか。真言は苦笑せずにはおられない。なんとまぁ、重なるときは重なるものだ。それも、最後(もっともこれが真実最後になるかどうかは、日付変更線を超えるまでは、不明だが)のおでましが魔女のファミリアの象徴とされがちの黒猫だなんて、あまりにできすぎで、かえって三文芝居のような安っぽさをぬぐえない。ベールをまとうようにうすくほころんだ真言を、仔猫はたいした感動もなく見上げている。
 その子はアンバーを思わせるゴールドの虹彩の持ち主であった。青雲の中心の、みずから灼きつきそうな、金色。黒雨に忘れ去られた快晴。――そぐわなさが、痛々しい。利き腕でないほうの手で傘を地面におろした真言は、そうやって片手間以上のスペースを体の真正面にこしらえ、仔猫をだきあげる。一連の動作のあいだも、仔猫はみぁと一声逆らうことすらしなかった。真言を呼んだ最初の鳴き声は、あんなに懸命であったのに。
 じかに触れ、熱と熱を交換しあい、察する。だいぶん長い間雨に打たれっぱなしであったのだろう、かなり弱っている。今すぐ、毛布、それと人肌にあたためたミルクが必要だ。
「‥‥寒い?」
 もちろん仔猫が言語をもって返答をするわけがない。にぃ、とすら返してこない。ただ、真言の台詞に反応したかのようなタイミングに、体をすこしばかり動かして移動しようとした。逃亡をもくろんだわけではなく、むしろその逆、真言の体のうちで一番落ち着く箇所を見い出そうとしたかのようだった。
 それで、じゅうぶんだ。
 自宅の内部を思う。毛布はどこかのキャビネットの奥深くにつっこんであるだろうからいいとして、冷蔵庫。おそらく――どころか確実に、なにも入っちゃいない。入れたおぼえもないのだから、あたりまえだ。収入もあることだし、コンビニエンスストアにでも寄るしかないだろうか、それもはてしなく面倒なのだけれども。真言は予定をたてるのが苦手である、机上といえどプランは肉体の操作に影響をあたえるからだ。自分の体ですら放任する真言が、仔猫の世話をしよう、というのだから、これは一か八かの賭だといってもよいレベルの話だ。
 けれど、捨て置けまい。
 器のようにがらんどうの瞳をして、視線をはずさないとけっして鳴き声をたてぬくせして、そんなふうに強がるくせにいじらしくぬくもりを捜しあてようとする仔猫を、冷雨のなかへ放り出すわけにもいくまい。
 封じたデジャ・ヴを刺激されるじゃないか。

◇◇◇

「生きたいか?」
 あの人の真似をしてうそぶいた瞬間、津波のいきおいでせまりくる後悔。聞き手が仔猫だけであったことを、神以外の奇蹟に感謝する。


※ライターより
 ええと‥‥ほんとうに遅くなりました。申し訳ありませんです。
 今回は細部で迷うことが多かったです。「猫ってどんな目の色してたっけ?」(‥‥字にすると、バカだな私)とか「真言さんの靴はどんなだろ」とか。いろいろと悩んだあげく、後者はけっきょくオールシーズン用のブーツということで描写してみましたが‥‥。雰囲気でなかったら、申し訳ございません。
 猫の瞳は金色に。あのこといっしょのがよいかと思いまして。これもよけいなお世話でないとよいのですが。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
紺一詠 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年06月10日

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