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『 □赤蝶の旅路□ 』
御佩刀・緋羽3298


 はらり、はらりと誰かの涙のように零れ落ちる小雨の中を、一筋の赤い色が縫うようにして舞う。
 鳥のように強い羽ばたきではなく、虫のように弱いそれでもなく、赤光はただ蝶のように湿った空気の中を漂っていた。

 雨の隙間から見える赤は少女の背から生えており、時折、鱗粉のように朱の輝きが散った。
 幻想と呼ぶに値する蝶の翅を背にした少女は、深い色の衣の裾を僅かに翻しながらあてどなく舞う。
 闇に近い色の髪は雨の雫を受け、今や烏の濡れ羽のようにしっとりと濡れ光っていたが、彼女自身はそれを不快に思うような仕草すら見せずにただ宙を飛んでいた。

 少女の名は、御佩刀 緋羽といった。
 誰がどんな意味を込めてつけたものなのか、緋羽自身にもそれは分からない。何故、こうやって『主』となる人物を探し求めているのかも。
 しかし緋羽にとって探す事だけが真実であり、役目でもあった。少なくとも少女は自分がそれを成すべきなのだと信じていた。だからこそ、こうしてずっと永い間、少女は主を探し続けていた。

 時代が移り、地図が書き換わっても、緋羽はこうして変わらず少女の姿のまま、ふわふわと赤く儚い軌跡を残しながら飛んでいる。
 ふわふわ、ふわふわ。ゆうるりと、静かに。

 誰もいないガードレールの下、雨とは異なる暗がりを飛んでいた時、ほんの微かな響きを緋羽の耳がとらえた。
 少女は飛行を止めて音もたてずにアスファルトの上に降りると、そっと耳を澄ます。

 「………何処に……」

 白い糸のような、細く、けれどはっきりと通る声で緋羽が虚空に問いかける。
 それに応えるようにして、また、何かが響いた。今度はもっと大きな、喉を振り絞るような鳴き声だった。それは逝く者が最期にあげる声に似ている。

 緋羽は地面を軽く蹴った。また、音は出ない。
 翅を一度開いて閉じた距離、ちょうどガードレールを出た場所にあったのは、小さな段ボール箱だった。
 ところどころに濃い色の染みや汚れの目立つそれは、雨ざらしになってからもう随分と時間が経っている事を如実に表している。

 少女はじっとそれを見下ろした。いや、正確に言えばその中にあるものを見下ろしていた。
 薄汚い段ボールの中に敷かれた申し訳程度の毛布。その中にか細い声の正体はいた。

 そこにいたのは、一匹の仔猫だった。

 元は白い毛並みだっただろうに、今はぶち猫のように茶色くまだらに汚れ、食べ物も満足に食べていないのか、ただでさえ小さな身体はより小さくやせ細っている。
 けれど力を振り絞って、なおも仔猫は鳴いた。自分を見下ろす緋羽に向かって、ただか細い叫びをあげ続ける。

 「……………」

 緋羽は赤色の瞳でしばらくじっと仔猫を見下ろしていたが、やがて着物が水溜りに浸かるのも厭わずにしゃがみ込み、白い両の手でそっと仔猫を抱き上げた。
 仔猫の頬に自身の頬をすり合わせ、体温を伝えると、仔猫は安心したように甘えた声を出す。手のひらから伝わる冷え切った感触は、まるで氷のそれのようだった。
 その冷たさに、緋羽は覚えがあった。




 いつかの記憶。
 時は定かではない。
 けれど、以前にも緋羽は同じ冷たさに出会った事がある。

 まだ殆どの家の屋根が瓦だった頃、今と同じように飛んでいた緋羽は、仔猫を一匹見つけた。
 毛並みもそんなに良いものではなく、みすぼらしいと誰もが言うだろうその仔猫は、濡れ鼠になりながらふらふらと歩いていた。
 一歩、また一歩と足を前に進めるがその歩はとても弱々しく、今にも倒れそうなほど。
 緋羽は、ただ濡れた髪の向こう側にいるそんな幼い猫の仔の様子を見ていた。

 数歩進んだ所で、仔猫は水溜りへと音を立てて横たわった。びしゃり、と跳ねた雨水が緋羽の足元まで来るほどだった。
 仔猫は動かない。泥混じりの水が、黒毛混じりの身体へと染み込み始め、身体の色を土色に染め上げていく。それは死の色によく似ていた。

 そんな中、緋羽は仔猫を抱き上げて道端に腰を降ろした。
 雨避けも何もない、町を僅かに外れた道に座り込んだ一人と一匹を、小雨は遠慮も何もなく静かに打ち据えていく。
 柔らかく抱き込んだ仔猫に雨が当たらないように、緋羽は身体を心持ち前に倒して仔猫に即席の雨宿りをさせるが、しかし既に濡れそぼっていた少女の頬から、髪から落ちる冷たい雫は防ぎようもなかった。
 だが仔猫は、感謝するように、にゃあと鳴いた。

 雨は三日三晩続いた。
 しとしとと心の底まで沁み入るような天の涙は、顔を上げた緋羽の滑らかな白い頬を濡らし続けるが、それでも彼女は仔猫を抱き続けていた。義務でも、ましてや命令でもないというのに、緋羽という少女はただそこに在り続けた。
 やがて、三日目の夜が明けた時、仔猫は最期に小さく鳴いて、息を引き取った。
 現れるのが遅すぎた太陽は、天へと誘うように仔猫の亡骸を照らしていた。




 それが、緋羽の記憶だった。
 仔猫が亡くなってしまった後の事は、彼女は覚えてはいなかった。埋葬したのか、それとも火葬にしたのかすらも記憶にはない。
 だが、その瞬間までは昨日の事のように思い出せるのは、その時と同じように、今にも息をしなくなりそうな仔猫を抱いているからかもしれなかった。

 しかし同じように雨に降られた緋羽が今もこうして生きているのは、彼女の特殊性故だった。
 緋羽は大気中の精を吸収して、生命を繋いでいる。必要とあらば人と同じように食事も摂れるが、あくまでそれは予備のようなものであるので、しなくとも決して死にはしない。
 少女が奇跡のように永い間世界に存在し続けているのは、そういう理由でもある。
 大気のない場所など、この地上には存在しないからだ。

 過去に一度だけ、緋羽は死に瀕した仔猫に自分の中に満ちる大気の精を分け与えようと手をかざした時がある。もし、分け与える事ができるなら、と。
 けれど奇跡はあくまで一人だけのものであるのか、満ち溢れるほどに少女の身体を巡っていた精は、その一粒たりとも仔猫には落ちようとはしなかった。

 その時、緋羽の胸に浮かんだのは悲壮感ではなく、また自責の念でもなかった。涙も溢れなかった。ただ、出来ないという事実だけがそこにはあったからだった。
 少女は聡く、力が成し得る事とそうではない事を静かに受け入れられるだけの頭もあった。
 できないものはできない。
 緋羽は住む家も持たず、仔猫を養えるだけのものを何もかも持ってはいない。だから彼女にはこの瀕死の仔猫を救うだけの手立てはない。

 だが、理解と今胸に湧き上がる衝動は別のものだった。

 自分にできないのならば、他の人間ならどうなのだろうか。
 家もあり、養えるだけの力もある。そんな人間がいるとしたなら、それを見つけ出せたなら、胸に顔をあずけて寒そうに鼻を鳴らすこの小さな命の灯火を、消さずにすむのだろうか。
 ひとりでこんな思いをせずに、すむのだろうか。



 「汝よ、汝よ。汝が主は、何処に有りや」



 歌うような少女の声が世界に溶けた時、すでにそこには少女の姿も、そして仔猫の姿すらも残ってはいなかった。





 人の中を飛ぶ。街の中を飛ぶ。家のまにまを飛んで行く。
 緋羽の『隠密』の力は、そこにある全てのものに彼女の存在を知らせはしない。なので少女はそれこそ大胆に、けれど懐の中の仔猫にできるだけ負担をかけないように、できるだけの注意を払いながら空を舞う。

 人の多くいる場所は駄目だった。ビルの多い場所は、仔猫になど構っていられない人間の多くいる場所だと、緋羽は知っている。
 ならば何処にいるのだろう。そう考えながら、少女は速さを増した。ぐんと風の抵抗が強まって黒髪が煽られるのにも構わずに、気配を探し求める。この仔猫を包み、暖めてくれる柔らかで穏やかな気配を。

 雨が強さを増したせいか、仔猫がぶるりと身震いするのが着物越しに肌へと伝わる。時間はもうあといくばくも残されてはいない。
 しかし更に速度を上げようと翅を広げたその矢先、視界の端に掠めた光景に緋羽は飛行を止めた。

 この雨にもかかわらず、その少年はそんな事など構いもしないように公園のベンチに腰かけていた。
 両の手に何か皮製の紐のようなものを握り締めながら、俯いている。その小さな背中に雨が降りしきる様子は、先刻までの仔猫と同じように緋羽には見えた。
 気配を全て絶ったままそっと緋羽は歩み寄り、間近で少年を見下ろした。
 少年の手に握られているものは、紐ではなく首輪のようだった。赤い色のそれには小さく名前が記してある。つい先ほど書かれたものなのか、マジックの黒色が鮮やかだった。

 「……っくしょお……。チビの奴、何処行ったんだよっ」

 呻くように吐き出された言葉に、緋羽の懐にいた仔猫がぴくり、と反応した。
 か細く零れた声の響きに、少女はそっと自らの胸へと問う。

 「汝の知る者か?」

 みゃああ、と仔猫が頷くように返した。
 改めて視線を少年へと戻せば、傍らに置かれた袋が視界に入る。中を見れば、ミルクらしい容器とスポイトが入っていた。

 「もう、誰かに拾われちまったのかな……。せっかく、親父が許してくれたってのに……!!」

 喉を絞るような叫びに反応し、また仔猫が鳴く。みゃあ、みゃああ。と、何処にこんな力が残っていたのかと思うほどに。
 緋羽は一度だけ、少年と仔猫を見比べた。どちらもまだ幼く、けれど力の限り呼び合っている。
 少年はずっと仔猫を探し続けていたのか、泥にまみれたシャツの前には転んで擦ったような跡が残り、その行動の必死さを物語っていた。

 そんな有様になっても、少年は探し続けていたのだ。
 みすぼらしく名前もない仔猫に、たったひとつの名前をやる為に。

 「………………」

 緋羽は後ろへと飛び、そう離れていない植え込みへと身を隠した上で隠密の術を解いた。
 懐から出された猫は落ちる雨の雫に少しだけ身体を震わせながら伸び上がると、ざらざらした舌で少女の頬を舐め上げる。
 最後の、礼のように。

 「あ」

 動きを止めた緋羽の腕から、静かに小さな命がすり抜けていく。
 植え込みから飛び出した仔猫は、すぐに少年の元へと辿り着いたようだった。少女からは見えない向こうからは少年の驚きと喜びが綯い交ぜになった声が聞こえる。

 緋羽は再び気配を消し、蝶の翅をもってふわりと飛び上がった。
 下界では、少年が仔猫を抱いて走り去ろうとしている。
 笑みが満ち溢れている彼らの表情を見ながら、いつのまにか緋羽は自身がほんの僅かにだけれども笑顔を浮かべている事に気付いた。





 空は、晴れつつある。
 雨を落とし続けていた暗雲は徐々に姿を消し、その隙間から見える光は眩いばかりに全てを、そして緋羽を照らす。
 雲間より現れつつある太陽の光を黙して受けながら、蝶のような少女はその光景にひとつの事を思った。


 いつかこの額に印を刻むべき主と巡り逢う未来。
 ただそれだけを輝きの向こうに。




 (終)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
ドール クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年05月31日

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