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『東京 』
有佐・ユウシ3268


「ごくろうさまです。部署とお名前の確認を」
 数度の小さなノックのあとで、静かにドアを開いたユウシが問う。
 室内には憔悴しきった営業部の社員が三人――どれもユウシと年の変わらぬ、多少乱れていながらもスーツを着込んだサラリーマンである――、睡眠不足に落ち窪んだ目を細めながらそれぞれに己の名を告げた。
「スイマセンね、これ明日までなんですよ」
 見れば会議机の上には乱雑に広げられた幾多の書類、当然のことながらユウシにはそれら一枚一枚の意味は掴めない。赤い色のペンで手直しを施されていたり、おそらくは不要書類であるという意味なのだろう大きなバツが刻まれているものもあった。
「仮眠室を使われる際には、守衛室へお立ちよりください」
 つとめて、淡泊に。
 そして、冷静に。
 満たされない生理的欲求がある一定のラインを越えてしまうと、どういうわけか人はひどく饒舌になる。
 会議前の徹夜も数日続くと彼らの、ユウシのような見回り警備員への対応の距離がグンと近づく。親しげな口調で語りかけ、訊ねてもいないことをぺらぺらと語りはじめる。
 彼はそれを厭んだ。
「――それと、煙草を吸われる際は窓を開けてお願いします」
 このビルでは、喫煙室以外での喫煙は禁止されている。そういった規則に対して自分を甘くみるようになるのも、徹夜続きの若い会社員には多い話である。
 訪れたときと変わらぬ平静を以て、ユウシはゆっくりとドアを閉めた。
 彼らが発する無言の不平が、煙草の紫煙に澱んだその部屋の空気を重苦しく満たす前に。

 時折、ふと思うことがある。
 かたや、上司や営業先に愛想笑いを振り撒きながらも安定した収入のために日々を慌ただしく暮らす彼らのような生活。
 かたや、心までは束縛されないとは云えども――泡のように膨らむ借金のために時間と身体を拘束され続けて日々を慌ただしく暮らす自分のような生活。
 どちらにも、そこには互いに相容れぬ苦労と気楽さがあるのだろう。
 だが。
 どんな人生の分岐で、それぞれの今はこうして交わらぬ結果を過ごすことになったのだろうか。
「………」
 不毛であることはわかっている。
 望むと望まざるとに関わらず、あるべくしてある道であるとユウシは理解している。
 互いのスタンスを完全に理解することはできないのだろう、現にこうして自分は彼らの生きる理りについて理解しかねているのだから。
「………くだらない」
 そう、くだらない。
 くだらないが、他に考えることも見つからない。
 真夜中の警備職とは、そんな仕事である。

 職業病とも、ただ単にユウシの思考特性とも云えるそんな思案に明け暮れていたから、ロビーの隅でこちらに背を向けている人影を最初、見逃した。
 ビルの受付がある一階ロビーは、道に面した壁がガラス張りになっている。昼であればそこからまぶしい日光がロビーに差し込むのだが、今はただ不安げに灯される街灯の光が注ぎ込むだけになっている。
 透明なガラスの壁を境に同化するロビーと外の景色の狭間、その隅で――小さく丸められた華奢な背中がくっとユウシに向けられていた。
「………」
 懐中電灯の明かりを消す。
 カチン、とかすかな音のあとで辺りは蒼い静寂に包まれた。
「………部署と、お名前を」
 型通りの声音と言葉を、ユウシはその小さな背中に投げ掛ける。
 きっと、望む通りの答えは帰って来まい。ユウシはそう悟っている。
『それ』が、どこの誰だかまでは判らない。
 が、『それ』が何であるかを、ユウシは知っている。
『それ』はゆっくりと、ユウシに振り返る。
 そして、
「あら――ごくろうさま」
 平素ならばユウシが発するべきであろうその言葉を、『それ』――老いた女の姿が、紡いだのである。

「月が明るいから、道に迷わずにここまで来られたわ」
 受付から少し離れたところにある革張りの長椅子は、ガラスの向こうに広がる外の風景を眺められるように設置されている。来客時、担当の社員がやってくるまでそこで待っていてもらうためのものだ。
 その上に、ひどく品の良い小さな老婆がちょこんと腰を下ろしていた。
「………そうですか」
 ほっそりとした両手を膝の上で重ね、彼女はまぶしげに目を細めながらガラスの外を眺めている。
 ユウシのそっけない返答にも、ただ微笑んで頷くだけだった。
「景色もずいぶんと変わってしまった。昔はこの辺りからも富士山が見えたのに……背の低い平屋ばかり建っていたころの話だけれど」
 広いロビーに、そんな呟きだけが響き渡る。穏やかで、満ち足りた微笑の上に深く月明かりが陰影を作っている。
「壊れたら、また作れば良いの。無くなってしまったら、また探せばいいの。私たちはそんなやりかたで、決して上手にとは云えなくても幸せに生きて来たわ」
 風に吹かれ、街路樹が揺れる。
 それに合わせて、老婆の背中も少し揺らいだように見えた。
「すてきな街ね、ここは。どんなに見えるものが変わっても、暮らす人々の様子が変わっても――ほら、この、匂い。空気の匂いだけは、いつまでも全然変わらない。同じね」
 しんと静まりかえった湖面のように、御影石の床が光を反射させている。ふと見下したユウシの靴の爪先に、老婆の影は無い。
「良かったわ、さいごに……ここに戻って来れて」
 行かなくちゃ。
 老婆はゆっくりと起ち上がる。
「苦しめるうちに、たくさん苦しみなさい。泣けるうちに、たくさん泣いておきなさい。心が揺り動かされれば揺り動かされるほど、あとからそれを笑い飛ばしてしまえるようになるんだから」
 そこまでを告げたとき、ふと老婆がユウシの背中ごしに視線を止めた。
 あら――小さく呟き、壁際に配置されている大きな鉢植えに歩を進める。
「ずいぶんときれいな木ね……これは何て云う木なの?」
 鮮やかな緑と薄い黄緑の混じり合った大振りな葉を茂らせる観葉植物の、ユウシはその名を知らない。
 言い淀み、知らない、と告げようと口を開いたとき――
 既に老婆の姿はなかった。

 昭和の高度経済成長期において、人々が脇目も振らずただ慌ただしく日々の生活を送っていた頃があった。
 国内総生産は飛躍的に伸び、日本国民の生活は目に見えるほどその豊かさを増していく。
 戦後の貧しさを、自分たちの孫子の代には味合わせまい。そう心に決め、他の何を抛ってでも国を裕福にしようと働き続けた世代である。
 姿をかき消した老婆が、既にこの世の物ではないことをユウシは悟っていた。
 東京に生まれ東京に育ち、そしてまた東京の土に還っていく小さな老婆の心、だ。
 彼女はこの夜が明けるころ、そう遠くないどこかの地でひっそりと命を引き取るのだろう。
 生まれ育った東京の街を、今一度その目に映して。
「――お気をつけて」
 投げることのできなかった挨拶を、ユウシは1人残されたロビーで呟く。
 懐中電灯の明かりは必要なかった。
 夜が、明けはじめていた。

 彼女が残していった言葉の意味を理解するのに、未だユウシは若すぎた。
 が、いつかそう遠くない未来に、その理解が叶う日がくるであろうことも彼は知っていた。
 破壊と誕生、淘汰と輪廻。
 全てを受け入れ、常に再生を繰り返していく街、東京。
 いつか自分がこの命を終わらせるとき、この景色は見開いた両目にどう映ることになるのだろうか――
 答えは未だ、見つからない。

(了)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年05月25日

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