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『幸い願う現。 』
李・曙紅3093


「雷吼(レイホゥ)、おいで!」
 曙紅がそう言うと、大きな犬は嬉しそうに尻尾を振りながら、彼に向かって走り始めた。
 これは李 曙紅が、まだ幼い頃――両親も、年の離れた兄も健在し、何もかもが幸せだった、あの頃――の話である。
 曙紅は大人しくはあるものの、動物好きで、表情も豊か、荒事には全く向いていない性格の持ち主だった。
 広い庭で、大好きな飼い犬と過ごす時間。それが何より曙紅にとっての、楽しいひと時なのである。
「わぁっ、雷吼っ重いよ〜」
 笑い声が、庭内で響き渡っていた。小さな曙紅の上に、雷吼と呼ばれた犬はのしかかり、彼の頬をペロペロと舐め上げる。雷吼も、曙紅が大好きなのだ。
「雷吼、競争しよう!!」
 曙紅が起き上がってそういうと、雷吼は耳をピン、と動かし、ワン、と返事をした。曙紅の言葉を理解しているのだ。庭の端まで歩き、曙紅が構えると、雷吼もその隣で走る準備をしている。
「いくよ!」
 その声の合図で、二人(正確には一人と一匹だが)は同時に地を蹴り出した。当然と言ってもいいのだが、曙紅より犬の雷吼のほうが足は早い。決着は目に見えている、と思えたが、雷吼はそれを裏切る存在であった。スタートしてからずっと、曙紅の傍にぴったりくっつきながら走り、決して彼を追い越すことはしない。必死に走っている曙紅を見上げながら、雷吼もまた楽しそうにゴールを目指して走っていた。そんな、心根の優しい、犬なのである。それは曙紅がこの犬をどれだけ可愛がっているか、と言う事が解る瞬間とも言える。
「……っ」
 曙紅が力いっぱい、ゴールする。雷吼も同時だ。
 荒い息を整えながら、曙紅は満足そうに雷吼を振り返り、にっこり笑った。
「…はぁ〜…いっぱい走ったね、雷吼」
 曙紅はその場で腰を下ろした。すると雷吼は彼の背中のほうで、すとんと座り、上体を地に付ける。曙紅がそのまま、ごろんと寝転がるのを、予測していたのだ。
「う〜ん…気持ちいいね〜、雷吼…」
 雷吼が丁度枕代わりになり、曙紅はまたも満足げにそう言った。どうやら雷吼の行動は、これが初めてではなさそうだ。
「クゥーン…」
 雷吼が曙紅の言葉に答えるように、喉を鳴らす。
「…………」
 曙紅はその雷吼の声を聞きながら、真っ青な空をじっと見つめていた。
 頬をくすぐる風が、心地いい。その風を受けながら、雷吼も前足の上に顎を乗せ、瞳を閉じていた。
 曙紅も知らぬ間に、瞳を閉じてしまっている。気持ちの良い風に促され、眠ってしまったようだ。
 その柔らかい風は暫く、二人の間を包み込むかのように、緩やかに流れていた。


「……、ん…」
 遠くで母の呼び声が聞こえたような気がして、曙紅はゆっくりと瞳を開いた。すると辺りは夕暮れで、空も紅く染まり、夜が訪れようとしているところであった。
「…寝ちゃったんだね…」
 雷吼は覚醒しきっていない曙紅の背中を頭で押し上げ、起き上がるのを手伝ってやっている。
 そしてゆっくりと立ち上がった曙紅は、そこで大きく伸びをした。
「……、さむ…」
 伸びをした瞬間に、懐に舞い込んできた風が、冷たく感じた。曙紅は軽く身震いをして、雷吼を見下ろす。
「お前も、寒い?」
 そう問いかけると、雷吼は首を傾げて見せた。
「…そうだ、一緒にお風呂入ろう!」
 曙紅は自分の思い付きを雷吼に言いながら、駆け出した。雷吼はそれに遅れを取らないように彼の後を付いて走る。
「…こっそりだよ、雷吼?」
 雷吼にそう言うと、曙紅はこっそり裏口玄関の扉を開き、顔だけを覗かせた。そして辺りに人気の無いことを確認して、雷吼を招き入れる。
「早く早く」
 自然と声が小声になりながら、曙紅と雷吼は足音を立てないように、廊下を進んだ。素早くバスルームに入り込み、服を脱ぎ捨てて、浴室に入る。
 そこでようやく安心したのか、大きな溜息を吐きながら、雷吼ににこっと笑いかけた。雷吼は雷吼で、多少戸惑っているようにも、見える。悪いことをしている、と言うのを、解っているかのように。
「僕が洗ってあげるよ」
 言いながら、曙紅はさっそくスポンジを取り出し、ボディソープをつけ泡を作り出した。見る間に泡だらけになっていくのを、雷吼は不思議そうに見上げている。
「ほらっ、雷吼」
 曙紅は桶に浴槽の湯を入れて、それを雷吼にかけた。雷吼は目を閉じているものの、嫌がることも無く、黙ったままでそれを受けている。
 曙紅の身体以上の体格を持つ雷吼を洗うのは大変だったが、曙紅は音を上げるどころか始終楽しそうにしながら浴室内を泡だらけにして、自分も一緒に洗っていた。
「雷吼、おいで」
 一通り洗い終わり、すっかり泡を流した後は、浴槽に入るのみだ。先に足を付け、湯船に身体を沈めた曙紅は、雷吼に向かってそういい、隣に招き寄せる。
「クゥン…」
 雷吼は躊躇いながらも、曙紅の言うとおりにその湯船に入り込んだ。ざば、と湯があふれ出し、浴槽から逃げていく。
「気持ちいいね、雷吼」
 ゆらゆらと立ち上る湯煙を、眺めながら、ゆったりとした息を漏らす曙紅。雷吼もうっとりしながら上を向いていた。
 
「そろそろ上がろっか」
 ぴちょん、と滴が湯船を跳ねる音で、曙紅は惚けていた頭を覚醒させ、ゆっくりと立ち上がった。そして雷吼を呼び、浴室を後にする。
 雷吼は浴室に上がった瞬間に、身体を振り、水滴を掃い始めた。曙紅はそれを見ながら、自分の身体をバスタオルで拭き始める。
 一通り拭き終えた後、静かに脱衣所の扉を開け、廊下の様子を伺う。ひょこ、と雷吼もそれに習って扉から顔を出していた。
 言うまでも無いが、洗い場から浴槽は毛だらけになり、脱衣所は水が飛び散り、水溜りが出来ている状態なのだ。どう考えても見つかってしまえは怒られてしまうのは避けられない。
「いくよ、雷吼」
 こそこそと廊下へと足を踏み入れた曙紅の後には、未だに振り払いきれなかった水滴を毛先につけたままの、雷吼の姿。二人の歩いた後には、ぽたぽた、と滴が残されていた。
「曙紅!!」
 ある程度進んだ頃に、背後から怒号が聞こえた。曙紅も雷吼も、身体を震わせて、動きを止める。
「………」
 恐る恐る振り返ると、そこには物凄い剣幕で彼を見下している、母親の姿があった。
「また雷吼をお風呂に入れたのね! あれほど駄目といってあったのに!!」
「……ごめんなさい…雷吼も寒いかと思って…」
「犬は長い毛がある分、寒くないの! それよりどうするの、あの浴室!!」
 母の怒りは頂点に達しているようであった。言葉から、曙紅が雷吼を風呂に入れたのは、一度や二度では無いらしい。
 二人はその場で小一時間、説教をされる羽目になった。

「ごめんね、雷吼…」
 ようやく母から解放され後、罰として浴室の掃除を命じられた曙紅と雷吼。部屋に戻った頃には、すっかり夜も更けていた。楽しかった気分など、今では何処にも存在していない。
「クゥーン」
 雷吼は曙紅の頬を舐めて機嫌を取ろうとしていたが、それにも反応は返ってこない。
 そんな姿を見ながら、雷吼もかくんと頭を落とす。
「…曙紅、いるのかい」
 とんとん、と静かに扉を叩く音が聞こえた。その直後に聞きなれた声が曙紅を呼ぶ。
「兄さんだ」
 雷吼もそれに反応し、軽く尻尾を振って見せている。
「入るよ」
「うん」
 扉から顔を覗かせたのは、今帰ってきたばかりらしい、兄だった。にっこりと笑う優しい笑顔に、曙紅は少しだけ救われた気分になる。
「…また雷吼と一緒にお風呂に入ったんだって?」
「うん…だって、寒いかな、って思ったから…」
 曙紅の頭を撫でながら、曙紅をベッドの上に座らせる。そしてその隣に兄も腰を下ろした。
 兄は、少しも怒っているようには見えなかった。実際、少しも怒ってはいなかったのだが。
「気持ちはわかるけどね、曙紅。雷吼には立派な毛があるだろう?これが寒さも凌げるようになっているんだよ」
「……うん」
 兄は優しい笑顔で、曙紅を宥めてやる。
「…そうだ、これから暑い季節がやってくる。そうしたら、庭で水遊びと称して、雷吼と水風呂に入るといい。それなら母さんも怒らないと思うよ」
「本当に?」
「ああ」
 兄はしょげたままの弟を喜ばせるために、瞬時に思いついたことを、そのまま言葉にした。すると曙紅はぱっと顔を上げて、兄に聞きなおす。
「雷吼とずっと一緒がいいんだろう? いい案だと思わないかい?」
「うん、うんっ 兄さん凄いよ!」
 ぱぁ、と笑顔を取り戻した曙紅は、兄に抱きついて喜びを露にした。それに続くように雷吼も兄の膝の上に足を乗せて、尻尾を振っている。
 兄はやれやれと思いながらも、甘えてくる弟と犬の頭を交互に撫ぜながら
「もう寝なさい。寝坊してしまうよ」
 と促してやった。
「はい」
 実に素直に返事を返す、曙紅。兄が腰を上げるのと同時に、自分のベッドの中へと身体を沈めた。
「おやすみ、曙紅」
 兄は布団に納まった曙紅の頭を優しく撫でて、にっこりと笑ってみせる。
 曙紅もその笑顔に答えるように、にっこりと笑う。
「おやすみなさい、兄さん。…ありがとう」
 曙紅のその言葉に頷きながら、兄は部屋を後にする。見送りは、雷吼の役目だ。
 足音が遠ざかっていくのを確認した後、曙紅を振り返った雷吼は、彼が既に夢の中だということを確認した後、自分のその傍まで歩き、腰を下ろして目を閉じるのであった。


 この時はまだ、こんな毎日が続くと思って、疑いもしなかった。優しい人々に囲まれて、ずっと幸せな日々を過ごせると思っていた。
 彼が絶望の淵へと叩き落されるのは、これから数年後のことである。


-了-




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李・曙紅さま

ライターの桐岬です。再びのご依頼、有難うございました。
前作も気に入っていただけたようで、安心致しました。
今回はほのぼのと言うことでしたので、こんな風に仕上げてみたのですが…
如何でしたでしょうか?
感想等聞かせていただけると、嬉しいです。

誤字脱字がありました場合、申し訳ありません。

桐岬 美沖。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
朱園ハルヒ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年05月20日

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