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『闇の彼方へ 』
飛桜・神夜3035


 私の意識は目前の、ただ一点に引き寄せられていた。背に棺桶を背負う少年の胸元、滴る真紅の血液。まだ幼いがために薄い皮膚と柔らかい筋肉とを、手で突き破って、彼の体内で規則的に踊る心臓の鼓動を、私は手の平で直に感じていた。
 彼は最初、苦しそうに呻いていたが、先刻からは急に黙りこくって一言も発しない。壁に押しつけて私の目の高さまで持ち上げた体は軽く、片手で支えきれる程だった。あまり食事も摂れていないのか、空いた手で掴んだ首もやけに細い。
 青白い顔を俯かせていた彼は、今も彼から流れ落ちる、血の色に似た瞳だけを動かして、動きの止まってしまっている私を嘲笑った。
「殺せないのか?」
 実際彼は声を出してはいなかったのだが、その目がそんな風に語っているように感じて、私は手中の心臓を、握り潰さんばかりの勢いで締め上げた。
 だが彼は、何の反応も示さない。
 私は急に焦燥を感じた。今にも心の臓を破壊されて、殺されようという者が、こんなにも無反応であるものだろうか?もしかして彼の根源は、心臓ではないのかも知れない。
 ぐちゃり、という音を肌で感じて、私は我に返った。力加減が出来なかったらしい。ゆっくりと手を引き戻そうとすると、彼の心臓に繋がっていた太い血管が切れ、生暖かい血を飛び散らせた。折れた肋骨の尖った先に手の甲を掠めてしまい、そこからじんわりと私の血が滲む。
 その鈍い痛みに、暫し呆然としていたが、肩に触れた冷たい手の感触に、驚いて顔を上げた。
「まだ生きてる」
 唇の端を吊り上げて、彼は大層嫌味ったらしく笑った。私は右手に握り潰した彼の心臓を見る。小さな肉塊に分たれ、私の手の平にこびりついているそれはまだ温かく、血液も温度を保っているように思われる。
 もっともそれは、私の手の甲から涌き出る血液の温かさなのかもしれなかったが。
 私はぼんやりと彼を見上げた。彼は私の目を見て、それから薄く笑って言った。
「私の秘密を知りたいか……?」
 その声は柔らかで、まるで眠りを誘う子守唄のように、甘い響きを持っていた。
 私が頷くと、彼は笑みを深くした。
「飛桜 神夜なんて人間は存在しない。私は……この棺桶が創り出した幻影なのさ」
 それが真実であるということは、私は既に体験していた。彼は幻影で、だから殺しても死なない。
「つまり、私を消滅させるためには、本体である棺桶を壊さないといけないってこと。だけど……」
「残念ながら、そんなことは不可能なんです」
 彼の言葉の続きを、彼に背負われている棺桶が繋いだ。その棺桶は小振りで、丁度彼ぐらいの少年が納まる程度の大きさだった。白木の木目が美しい品だ。
 私はふいに強烈な違和感を感じた。白く清潔な廊下に散りばめられた赤い血。少年と棺桶。死体に宿る生……。今更ながらにそれらの二律背反に、背筋が凍る思いがした。
「私は常に一つで有り続けるんです。今ここに存在する私が壊されても、世界のどこかでまた別の“私”が生まれる。アカシックレコードへの門……つまり私の存在は、世界の意志であり法則なんです。私を殺すことは、世界を殺すことに他ならない。私の言っている意味、わかります?」
 棺桶は薄ら笑っていた。それの言うことを理解していながら、理解していない風を装う私のことを。
 それの話す内容は、人が知ってはならないものの類に聞こえた。
 ……こいつは、私を消すつもりなのだろうか?
「遠いところをご苦労様でした、エクソシスト」
 私が予期したことを知ってか、それはそう告げた。鼓動が速まる。顔から血の気が引いていくのが自分でも分かったが、脳はそれに反してもの凄い熱を持ち、沸騰しそうだ、と思った。
 残酷な死刑宣告が下される。
「最後に教えてあげましょう。私の本当の名は……“    ”」
 最後の声が届く前に、私は闇の彼方へと飲まれていった。だから私はそれの名を、永遠に知ることはないのだ。


「……バイバイ」
 別れの挨拶は、意識の外側で聞こえた。



                          ―了―
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2004年05月17日

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