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『”Hoch und heilig versprechen” 』
セレスティ・カーニンガム1883)&ケーナズ・ルクセンブルク(1481)


――某所シンフォニーホール。某日。

■□                        □■
―――――
―――――――

……

演奏曲目:ラヴェル/「ダフニスとクロエ」第2組曲
         /亡き王女のためのパヴァーヌ
         /左手のための協奏曲
/「マ・メール・ロワ(マザー・グース)」
     ムソグルスキー/ラヴェル編曲/「展覧会の絵」

          ……アンコール

     J.シュトラウス?U/喜歌劇「こうもり」
              /ラデツキー行進曲
     ビゼー/ファランドール

■□                        □■

 ――ほんの一瞬、誰もが制止し、静寂を守った。
 だが、その次の瞬間、大地に振動を伝えるほどの拍手がホールを満たしていた。
 アンコール曲目の最後の一振りが、先ほど指揮者の雄雄しい手と腕によって振り下ろされ、人々は歓喜と感動、ねぎらいを込めて惜しみのない拍手を舞台へと送る。
 真に心を揺さぶられた後の独特の熱狂がその場を埋め尽くしていた。

「……素晴らしい演奏でしたね」
「ああ、本当だ。二年ぶりの来日で少々前評判が気になっていたが、何のことはなかったな」
 鳴り止まぬ拍手の中で短く言葉を交し合い、二人の青年は笑いあう。
 一人はセレスティ・カーニンガム。若き総帥は今日、銀白色の長髪を中ほどでゆるく纏め、シンプルな型のオートクチュールのスーツを身につけていた。対するもう一人はケーナズ・ルクセンブルクだ。こちらは幾分かカジュアルなスーツではあるものの、シルクのシャツにあしらわれた白の刺繍にワインレッドのタイが際立っている。なかなかに目立つ二人であったが、今、現在はどの観客もまだ舞台に釘付けだった。
 それを見計らって、ケーナズは隣のセレスティに軽く目配せする。セレスティもそれに頷いて手にもっていった杖をつき、立ち上がった。
 入り口に人々が殺到する前に出よう、と言うのだった。

 重たい防音の二重扉を押し開いて、会場の外に出ると、火照った身体に冷たい風が吹き付けてきた。ホールの外から吹き込む風がここまで流れている。二人、なびく髪を押さえて出口へとゆったりと歩く。
「セレスティ殿の言うとおりだったな。いつもいつも同じ席に座るのはもったいないものだ」
 歩きながら、少し、認識を改めたよ、というケーナズに、セレスティは微笑む。
「そうでしょう? 確かにアリーナなどの特別な席は悪くないのですがね……そればかりだと曲と、そのホールの相性も表情も一つしか聞けない。全部違うのにね。それに気づくことができないから……それではもったいないでしょう?」
 ゆったりとボックスで聞く音楽も良いでしょうが、私はああして他の人々と一体になり、音楽の様々な表情を楽しむのが好きなんです、と嬉しそうに語る友人を眺め、ケーナズはただ頷く。
 行きつけのコンサートホールで用意されていた特別なボックス席ではなく、何故か一般にも開放される席を選んだセレスティを訝しく思っていたケーナズだったが、彼の選択は正しかった、と思った。一体どうやって探し出すのかわからないが、セレスティが選んだ席はよく音が聞こえるとか、全貌を見やすい、などだけではなく、体全体に音が流れ込んできた。すべてで、演奏を受け止められた気がした。
「日本の聴衆は随分と大人しい。ウィーンでは、あれほどの演奏となれば手だけでは足らずに足を踏み鳴らし、声を枯らしてbravoを叫ぶものだ」
「そうですね。ですがやはり日本ではあんなものだと思いますよ。あれでも最大級の賛辞に入るでしょう」
「ああ。演奏はまったく、良かった。……だが、あのワイン。あれはいただけないな」
 ホールの入り口から出ると、そこにはすでに迎えの車が横付けしてあった。開いたドアにケーナズを促しながら、セレスティも苦笑する。
 口の中に、途中の小休憩に味わったワインの味が甦る。
 こうした管弦楽のコンサートやオペラなどは上演時間が非常に長いものが多い。それだから、大抵中ほどに数分の休憩を挟むのだ。そうした際に軽くワインを振舞われることがある。
 海外では普通に行われる休憩中のワインの振る舞いだが、日本ではそう多くはない。飲食が完全に禁止されているコンサートホールの方が目立つほどだった。
 そのせいなのか、出されたワインは二人にとってとても満足のいくものとは言えなかった。二人の口が互いに肥えすぎているせいもあるかもしれないが……それにしても、と二人は小さく息をつく。
「ええ、やはりそうですね。……惜しいことです」
 素晴らしい音楽。すばらしい演奏者たち、すばらしい音響設備、と揃えばやはり完璧を求めてしまうのは人の常だ。今ひとつ足りないものがあるとすればそれを満たしたくなってしまう。
 車の中、過ぎていく夜の光をなんとなく目で追っていた二人は、どちらともなく呟いた。
『口直しをしようか』と。

「ちょうどいい。私が所有しているホテルに、いいバーがあります。大きな店ではありませんが、カーヴを設けていますから、品揃えは良いんです。大抵のものは、飲めますから……キミの口に合うといいですが」
「……また謙遜をするものだ。セレスティ殿の店とあらば、こちらは是非もないさ」
 貴方の総帥としての責任感と趣味を信じている、と応えるケーナズに、セレスティはただ僅かに微笑んだ。
 リンスターほどの財閥ともなれば、その傘下の店や会社は幾多にも上る。そしてセレスティはその全ての管理にけして手を抜かない。生み出したものに目を配るのは当たり前のことだと感じていたし、ケーナズもそうした彼のこだわりをよく知っていた。
 心根を知る者同士の会話は処し易く、ひどく心地の良いものだった。
 静かにセレスティたちの会話から行き先を了承した運転手は、車を東京郊外へと向ける。

§

 時計の針が意外と大きな音で午後十時を刻んだ。
 その音が響き渡るほどに、バーの中は静けさがたゆたっている。
「何か、かけますか?」
 音楽を、とテーブルについたセレスティが尋ねると、ケーナズは「いや」と呟きゆるゆると首を振る。
「せっかくあれほどの音を聞いてきたんだ。録音で間に合わせるには惜しい。ワインは、余韻が際立たせてくれるだろう」
 スーツの上着を脱ぎながら小さく微笑んだ彼に、セレスティも同意する。
「ラヴェルの残した楽曲は一つとして駄作がない、と言われますが、こうして現代に残る数々を耳にするとその言葉に嘘はなかった、と思いますね」
 脳外科手術の失敗の為に命を落としたラヴェル。その死の知らせを受けたコントラバス奏者が残した有名な言葉がある。

『悲しみはわかりますが、でも元気を出して。ラヴェルは、少なくとも駄作なんか残していないのですから』

 芸術家への真摯な、最高の賛美。そう言わしめるだけの実力がラヴェルには確かにあると感じる。
「……演奏するものによってはそれも自在に姿を変えますが。やはりかの楽団は素晴らしい」
 ドレスデン・シュターツカペレ(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)。
 1548年に創立された世界で最も古い歴史と伝統のあるオーケストラのひとつで、世界的に有名な楽団であった。日本での公演は実に二年ぶりということになる。
 そんな良き日に同好の友とこうして崇高な音楽の一時を共にできたことがセレスティにはとても喜ばしかった。
「ラヴェルには赤を、という人も多いと聞きますが、今日はこれを」
 そういってセレスティが運ばせたのは明るい黄金色にオレンジがかかったような不思議な色合いのワインだった。
「Chateau LAFAURIE PEYRAGUEY……【シャトー・ラフォリー・ペラゲー・ソーテルヌ・グランドクリュ】。これは、1990年ものです」
「ソーテルヌ。悪くない」
 口の端を引き上げてグラスを持ち上げるケーナズにそうでしょう、と微笑む。

『Zum Wohl!(乾杯)』

 グラスを交し合い、十分に冷えた味わいを口の中に流し込んだ。
 その途端、口内でさっと広がる芳醇とある種の渇きを癒す感覚。

 時計の針が大きく音を刻む。

 二人はしばらく無言でグラスを傾け、夜に漂うしじまを楽しんだ。聞こえてくるのは互いの僅かな息遣いや仕草だけ。

 そんな中、どこか物問いたげな声でその静寂を切り裂いたのは他ならぬセレスティだった。
「……ラヴェルの音楽には」
 そう呟いて顔を上げたケーナズをちらり、と見やる。だがすぐに視線を戻し、それは虚空を見つめていた。
「――よく言われますね。ラヴェルの音楽には"冷たさ"が感じられると。時計職人のような精密で狂いのない作曲をしているようだ、と」
「……ああ。よく耳にする」
「けれども――実際のところはどうにも違うように思います。私はね。彼に関わる書物や、音楽に関わっていると、こう思うのです。ラヴェルの音楽にあったのは二面性だと」
「…………二面性」
 ――何か思うところがあるのだろう。核心をつくのではなくその外堀を埋めるように話を続けるセレスティを見るともなしに見ながら、ケーナズはグラスを傾ける。くるりと、中のワインを一度回して、呟いた。
「セレスティ殿が言いたいのは……ラヴェルの持つ優しさと、暗闇のようなもののことだろうか」
 そういって目を向けると、セレスティはにっこりと笑う。
「……ルクセンブルク。キミも気づいていたんですね」
 今日の選曲に、と繋げるセレスティにケーナズは一度頷いた。「誰に言っているんだ?」と肩を竦めるとおかしそうに「それもそうですね」と返ってくる。
「……マ・メール・ロアに見られる子供への優しさ。ラヴェルの最年少の弟子はこう言っています。"ラヴェルは常に子供と同じ視線を失うことがない"。ラヴェルは子供と同じ視線でもって確固たる優しさを音楽に注いだ。その反面――」
 ぐい、と煽られたワインの黄金が暖かいオレンジの照明の中で眩しく煌く。
「……その反面。彼の持つ暗闇はまた暗かったと思うのですよ」
「左手のための協奏曲か。あれを聴いている時は、どうにも鳥肌がたってたまらなかったな……。彼の音楽は確かに一見怜悧で整然とした機械的な印象を受ける。だが……その下に蠢くものが。肌の下を這いずり回る不気味な生物のようなものが、私には見えて仕方がない」
「耳に聞こえる清麗さと、心に響くものがこれほどに異なっています。少なくとも彼は機械職人などではなく、私たちと同じ――それ以上の強い感情を持って生きた人なのだろう、と思うのですよ」
 一言で言えば、グロテスク。うっすらと乱れのない薄く、冷たい氷の真下に、何かひどくおどろおどろとした怪物を飼っている。それはラヴェル自身の内奥で渦巻くやり場のない感情のように思えた。
「――――冷たい、とは思わない。血の通った暖かい温度を持った人間だったんだろう、と。今日の演奏を聴いて、強くそう思ったものですから」
 そう締めくくる友人を見ながら、ケーナズはふと思う。何故、セレスティはそんなことを話すのだろう。
 コンサートの余韻が、あまりに鮮烈だったから?
 このワインが、それを思い起こすに適したものだったから……?
 ――そうではないだろう、恐らく。
 暖かげな光の下でもなお白く、穏やかな表情をたたえるセレスティの横顔を見ながら、ケーナズはなんとなく思った。
 一見冷たくも見える。本当の心は綺麗に隠し、穏やかで優しげな面を持ちながら、真実――その身の下に恐ろしいほどの怪物を……激情を押さえ込み、それを特定の形でしか表現できない。
 冷徹。完璧。機械のように整然としたその所作、振る舞い。

(セレスティ殿……。それは、もしや)

『自分と似ていると……思ったのか?』

 口には出さないまま、横顔を見ているとそれに気づいた彼が「どうしたましたか」と穏やかに微笑んできた。「いいや」と応えながら、ケーナズはある種の確信を込めて呟く。
「……貴方の目は、温かい。貴方の中に流れる血はとても温かいと思うし――」
 セレスティ殿の全てをひっくるめてかけがえのない友人と私は思っている――。
 大きな声ではなかった。
 かすかな呟きではあった。
 けれども確かに届いたそれにセレスティはほんの少しだけ驚いたように目を見開き。
 やがて、ふわりと微笑んだ。

「……知っていますよ」
 ――ありがとう。

 次は何をあけましょう? と聞いてきたセレスティに、ケーナズは少し照れくさそうに顔を背けながらも、何でも、と応えた。


 飲み明かそう、この不思議な余韻が漂う間は。
 こんなにもゆったりとした時間も久しぶりのことだから、当分、話も尽きないはずだ。


END


*ライターより*
この度はご発注ありがとうございます。ねこあです。
十分に時間をいただいていたというのに遅延してしまい、本当に申し訳ありません;

せめて少しでもお楽しみいただけるものに仕上がっていることを願うばかりです。

タイトルで使用しているドイツ語は直訳すると「神にかけて厳かに約束する」で、「かけがえのないもの」という意味です。(……だった、と思います;)

それでは、本当にお待たせしてすいません。ありがとうございました。

ねこあ拝
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
猫亞阿月 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年05月14日

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