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『懸衣翁が、怠けた 』
田中・眞墨3108)&田中・緋玻(2240)


 ぼぉう…………んん……。


「いやあな音」
 どこかの寺院の鐘の音が、荒れ果てた姉川の河川敷にも届いていた。
 名家の身なりをした兄妹が、まだ血生臭い河川敷を、ざくざくと歩いていた。響き渡った鐘の音に、童女が顔をしかめて耳を塞いだ。
 氷色の汗衫を着た童女の目は、済みきっているような、冴えているような、蒼であった。先ほどの鐘の音をのぞけば、童女は川遊びを楽しんでいるのだった。戦が終わって間もない、この、つわものどもの腕や胴が転がる川原を、楽しみながら散策している。
 そんな童女の手を握っているのは、漆黒の直衣を身につけた青年だった。彼は、ひどく憂いを帯びた目をしていた。その目は、やはり、蒼であった。童女の蒼と違い、光の奥に、冷たく激しい憎悪と憤怒を湛えているようだった。
 童女は時折青年の手から離れて、ぱたぱたと駆けた。その足音が響くと、きまってその辺りの屍骸の陰から小さないきもののようなものが飛び出し、逃げ出そうとした。大概は逃亡もかなわず、童女の小さな手に捕らえられ、憐れな断末魔を上げた。童女が捕らえるそのいきものは、いびつな小鬼である。童女はにこにこと微笑みながら、捕らえた鬼をひょいと口の中に放り込んだ。或いは、鬼火のようなものでこんがりと焼いてから口に入れた。或いは、手足をもいで、ひとかけずつじっくり味わってみたりもしていた。
 童女は青年からさほども離れなかったが、ただ一度だけ、逃げる鬼を深追いした。
 そのとき、青年はようやく声を上げたのだ。
「緋玻、どこへ行く」
「だって、鬼が……」
「だめだ。兄から離れるな」
「……はあい」
 青年の目は、童女に向けられていてもなお恐ろしいものであった。その視線が恐ろしかったわけではないようだが、童女はむくれつつも素直に言いつけに従い、鬼を諦めて青年のそばに戻った。そして、手を繋いだ。
「眞墨あにさま、どうしたの?」
「ん?」
「こわい顔。どうしておこってるの?」
「ん……」
 青年は、難しい顔で俯いた。不機嫌な顔とは違ったが、似たようなものだ。童女は自分の質問が余計に兄の気分を悪くさせたかと、こくりと生唾を飲み込んだ。
 俯いた青年の視界には、首が無い武者の骸がある。あまり切れ味のよくない刀でようやく切り落としたのか、切り口はぎざぎざで、少しも美しくはなかった。ぶるん、と羽根を奮わせた蝿が飛び立った。青年の――眞墨の視線に怖気づいたか。
 ぶるる、ぶぶぶぶぶるるぶ――
 気づけば、姉川のほとりに響き渡るのは、鐘の音ではなく蝿の羽音なのだった。そして、鴉がやかましくなきわめきながら降り立ち、打ち棄てられた遺骸をついばんでいる。
 ここは、地獄なのだ。
「……あいつは、地獄を選んだわけではない」
「……眞墨あにさま?」
「行こう、緋玻。兄はここが嫌いになった」
 青年は呟くと、ぐいと妹の手を引いた。いたい、と童女は囁いたが、それははっきりとした抗議ではなかった。


 爪、牙、火、果ては角を棄てた鬼あり。
 名を口にするは禁じられた。
 地獄を捨て、人の世を求めた。
 同胞はその男をせせら笑う。顔を合わせることになれば、唾棄しただろう。
 それは、眞墨という名の鬼の弟であり、緋玻という名の鬼女の兄であった。


「止めたところでおまえは止まらぬ。好きにするがいい。だが、獄門は二度とくぐられぬと心得よ」
「兄上ならば、火を吐きながら止めると思うた」
「出来れば、そうしたい。甘く考えるな。俺ははらわたが煮えくり返っているところだ。ひとなどに骨を抜かれるとは、無間地獄に住まう鬼の面汚し」
「……」
「だが俺は、いまはひどく眠くもある。眠っているうちに、面汚しを取り逃がしてしまったのだ」
「……かたじけない」
「さあ、行け。さっさと行くのだ。緋玻が目を覚ますぞ。あやつに恋だの愛だのという話はまだ早い。俺も斯様な下らぬ話をしたくはないからな。……早く行け! 丑の門が閉まる」
「……かたじけない、兄上!」

 人間界の時で言えば、数年後。
 獄界の時で言えば、まったく、数日にも届かぬ後のことだ。
 そしてそれは、人間界の姉川で戦がおこる数日前のことだった。
 名前さえも取り上げられ、何も持たずに人間界にのぼった弟が死んだという報せがあった。眞墨にそれを報せてきたのは、腐り果てた怪鳥であり、弟自身であった。
 ぐすぐずと崩れ落ちながら、鳥は鬼を捨てた鬼と、鬼を娶った人間と、その間にできた子の物語を、眞墨に暗い声で話して聞かせた。不幸中の幸いにして、緋玻は眠っていた。緋玻は話を聞けば、ひょっとすると狂乱をするやもしれなかった。それほどに、鬼鳥が語る話は恐るべきものであった。
 人食を絶ち、ひとへのひたむきな愛を抱くに至ったにせよ、彼は人間にとっては鬼でしかなかったのだ。鬼は殺され、鬼の妻と子も殺された。
 鬼が娶った妻の家柄は、しかし実に鬼にとっては厄介なもので、腕のいい術師なのだった。鬼の妻が――つまりは自分らのいとしい娘が、鬼にたぶらかされ、挙句に子までもうけたことに気づくのは容易であったのか。そして、それを恥じたのか恐れたのか。或いは生まれた子に角や牙でもあったのかもしれない。眞墨と緋玻とかれのように、蒼い目を持っていたのかもしれない。
『呪ってくれる……』
 眞墨の奮える手の中で、怪鳥は恐るべき呪詛を吐きながら、腐り続けていた。
『われの呪われた魂を以って……』
「よせ」
『呪って、くれる……』
「よせ!」
『呪われるがいい……呪われろ……呪われろ……のろわ、れ、よ――』
 ばぉッ!
 眞墨の手の中で、鳥は弾けた。
 腐肉とどす黒い血とは、おぞましい逆梵字や逆さ星となり、奔流となって、真澄の手の中から飛び去っていく。
「やめろ! ――やめろ!!」
 眞墨は黒い流れを止めようと、蝶を捕らえたときのように、左手のひらに右手で蓋をした。だが、砂のように流れは指の間をすり抜けた。鬼が最期に、魂を以ってかけた呪いは、恐らく呪われた者どもの末代まで消えることがないだろう。恐ろしい病が、傷が、物の怪が、一族を人間界に居ながらの無間地獄に叩き込むのである。
 ――何故俺は、今このときのように、あのとき、あやつを止めなかったのだ。
『止めたところでおまえは止まらぬ』
 それはよくわかっている。
 今このときも、そうだった。
「眞墨あにさまぁ」
「……緋玻!」
「いまの音、なあに? ……眞墨あにさま?」
 寝所から抜け出してきたらしい緋玻が、目をこすり、あくびをしながら眞澄を見つめた。
 もう、鬼の呪詛はここにない。眞墨が止めても止まらなかった。人間界にのぼり、猛威を奮っているだろう。
「……泣いてるの? どうして泣いてるの?」
「……」
 眞墨は言われて初めて、自分がとめどなく涙を流していることに気がついた。
 血色の月を見ながら一献傾けていただけなのに。
 ただ一羽の鳥がやってきただけなのに。
「……兄は少し、気分が優れぬ」
「だいじょうぶ? それなら、早くねなくちゃだめよ」
「そうだな、もう寝よう。……緋玻が寝所に戻れば、寝るとする」
「それなら、ここに緋玻がいたら、眞墨あにさまはずっとおきているのね」
「へんに賢くなったな。……どれ、寝所に連れていってやろう」
 涙を拭いて無理矢理笑いながら、眞墨は立ち上がり、緋玻の手を取った。
「眞墨あにさま、さっきの音はなに?」
 忘れてくれるかと思った質問を、へんに賢くなった妹はしっかり覚えていた。
 眞墨は、うまくはぐらかせるかどうかわからなかった。
 どう答えたのか、覚えていない――。


 ぼぉう…………んん……。


 さわさわと風が新緑を撫でていく。その音に、鐘の音もかき消える。
 風上の丘には、さすがに姉川のほとりの腐臭ものぼっては来ない。
 切り株に腰かけて朝焼けを待ちながら、その膝に緋玻をのせて、眞墨は少しずつ語った。
 実の親兄弟に
(一族の面汚しめが!)
 腹を突かれて死んだ女の話。
 生きながら
(鬼の子だ。呪われた子だ)
 火をつけられた幼子の話。或いは、喉を裂かれた男子の話。
(獄界へ戻るがいい! これで戻るか! これでも戻らぬか!)
(戻れぬ! われは戻れぬ! われはここで生きるがさだめなのだ!)
 そして、人食を絶ち力を失った鬼が、術と宝剣で弄られる話を。
「その、鬼って――」
「おまえの、兄だ」
「う、うそよ」
「いいや」
「うそよ! ま、眞墨あにさま、言ったじゃない! あにさまは人間界にだいじな用事があって、すこし長く出かけてるだけだって――帰ってくるって、言ったじゃない!」
「大きな音がした夜があったろう」
「……」
「あの夜、おまえの兄の魂は砕け散ったのだ。あの音は――その、音だった」
「……うそよ。よっぱらった牛鬼さんが閻魔さまの石像に頭突きをした音だって、」
「それも、嘘であった。――下手な嘘だな。俺はそう嘘をついたのか……」
 眞墨は、ゆっくりと苦笑した。
 そして緋玻が、ぼろぼろと涙を流し始めたのだ。
「うそよ! うそつき! あにさまのうそつき! 石つみのじょうずなやり方教えてくれるって言ったのに! あけはまだなあんにも教わってないわ! みんなみんなうそつきよ! 閻魔さまにいいつけてやる! みんなみんな舌をぬかれちゃえばいいわ! ぅわぁぁぁあああ、うそつきぃいーッ!!」
 ごぉう、と風が哭いた。大気が、渦巻く鬼の怒気に縮みあがったのだ。
 緋玻は泣きながら丘を駆け下りていった。
 眞墨は、追わなかった。追えなかったのかもしれない。


「なんだ、ひとの子というのは育つのもせっかちだな。もう緋玻ほどにまで大きくなったか」
「あ、兄上……来ていらしたのか」
「なに、おまえの子を――」
「喰いにきた、のですか」
「莫迦な。俺が好くは、私利私欲や憎悪で黒ずんだ魂と肉と腑だ。死も知らぬ純白など、甘すぎて胸を悪くする。――おまえの子を、俺と緋玻の姪と甥を、俺は……見にきたのだ」
「もう二度と、会えないものかと」
「俺はそうは思わなかった」
「……かたじけない、兄上」


 ――人間ども、見るがいい。
 眞墨は心中で毒づいた。
 ――鬼の目の涙など、そう珍しいものでもないのだぞ。
 朝焼けが眩しすぎたときでさえ、鬼は涙を流すのだ。いまこのときの、緋玻と眞墨という鬼も、きっとそうであったに違いない。
 あとからあとからこぼれ落ち、蒼眸をうつくしく潤ませるのは、嘘偽りのない涙だった。




<了>

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2004年05月07日

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