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『<箱庭の櫻> 』
綾辻・焔0856)&鶴来・那王(0607)

 春の世界。
 白い装束を身に纏い、僕は櫻の木を見上げていた。
 何故その場所にいるのか、いつからその場所にいたのか。
 それまでの記憶を復元しようとしても、見つける事が出来るものは霧の様に霞んだ映像だけだった。
 大気に漂う香りは咽返るほどに強い。
 それはまるで、初めて口にしたアルコールのように甘く深く、僕の中に染み渡っていった。

 櫻色の雪。
 風の無い世界の中では、枝から剥がれ落ちた花弁が、不規則な軌跡を作りながら地上への自由落下を繰り返していく。
 その刹那に見る事の出来る櫻色の雪は、息を呑むほどに美しい姿をしていた。

 闇の空。
 天満を描いた蒼白い月が、僕の短い影を地上へと映し出している。
 月の光に照らされた掌が、夜の闇の中に白く浮かび上がる。
 その不気味なほどにの無機質な白に、僕は思わず眼を背けた。

 ぴしゃりと。
 頬に当たる粘ついた何かに、僕は顔を上げた。
 咽返る匂い。
 舞い落ちる雪。
 不気味なほどに無機質な白。
 その向こうには、錆び付いた赤。

 あぁ、そうだ。
 この櫻が余りにも綺麗だったから。

 ――僕はこの木の下で、君を殺したんだ。


<箱庭の櫻>
 瞼の裏に焼きついた君の瞳は、竦みそうなほどに美しかった。


 1

 白く濁った太陽の光が、視界の中で反射した。
 顔を上げると、上空には濁りのない青空が広がっている。
 薄い雲が途切れると、勿忘草色の空からは色を遮るものが消える。
 フィルタが掛けられたような起伏の無い空はどこか無機質で、圧迫されるような息苦しさすら感じさせた。
「……っ」
 その息苦しさから逃れようと、俺は俯くようにして睫を伏せた。
 瞼越しに太陽の光が透過され、網膜の中へ赤と黒のモザイクを映し出す。
 瞼の裏側に広がる次元の無い世界は、吐き出しそうなほどに近く狭い。
 その狭い世界に、俺は喉元を締め付けられるような感覚をおぼえた。
「……っ!」
 ふいに、全身の感覚が軸を失ったように眩暈を起こす。
 聞こえていたはずの周囲の音が遠くなり、知覚出来る世界が閉塞していく。
 足元から、自分という存在が拡散していく感覚。
「……あ、くっ……!」
 本能的な危機感から、彼は深呼吸を繰り返し感覚を取り戻すようにと身体中の神経に向けて命令を繰り返す。
 時間にすれば数分の出来事だっただろうか。
 認識出来る世界が戻り、重い瞼を開くと、両手は小さく震え汗ばんでいた。
 震える両手を握り込むようにして、胸の前で抱きしめる。
 冷たくなった両手は、まるで死人の肌のように青白い色をしていた。

 閉ざされた世界から目を覚ましてから数箇月、目覚めている間の時間に、こうした奇妙な感覚に襲われる事があった。
 初めは軽い眩暈程度のものだったが、日が経つにつれ症状は重くなり、ある時期から常態は急速に悪化した。
 意識が遠くなる、気を失うといった症状が起こり始め、酷い時には記憶が欠如する、記憶が復元出来なる事すらあった。
 それは心地良い夢のようで、あるいは呼吸を止めるほどの悪夢のようで。
 戒めるものは過去の記憶でも現在の世界でもない。
 ただ暖かな、四月という季節と、目を逸らしたくなるほどに美しく咲いた櫻の花弁。
 春というイメージが、侵食する液体のように意識を犯していく。
 夢と現実の境界は、どこまでも曖昧で、どこまでも遠い。

 目覚めなければ、こんな世界を見る事などなかったのに。
 通過した現実は二度と修復する事は出来ない。
 目を逸らす事の出来ない現実は、ただ冷たい凶器のように、網膜の中に焼き付けられる。

 俺は、望まれた末に目覚めを迎えたのか。
 それとも、ただ世界に繋ぎ留められただけの悪戯の末の結果だったのか。

 ただひとつ、解っている事があるとすれば。
 自分ではない誰かの存在が、俺の強く世界に干渉していたという事。
 それは幼い日の願いのように、純粋で狂気的なものかもしれないという事。


2

 俺は夢を見た。
 いや。
 正しくは夢なのか現実なのかが解らなくなるほど、曖昧でリアルなイメージが記憶の中に残っていたのだ。
 それは、暖かな大気に包まれた春の世界。
 狂ったように咲き乱れる櫻の花の中に、俺は存在した。
 その場所が、朝だったのか夜だったのか。
 その場所には、俺の他に誰かが存在していたのか。
 その場所で俺は何を思い、そして何をしていたのか。
 記憶の中の大切な部分は、最初から存在していなかったかのように抜け落ちている。
 だが、欠落だらけの記憶の中で、俺が覚えている唯一のイメージがあった。
 それは、眩暈がするほどの甘い香りが漂う櫻の雪の中で、錆び付いた赤い雨にうたれていたという事。
 全ては、ぼやけた残像だけを残して記憶の中に紛れてしまっていた。

 七年という長過ぎる月日の果てに彼と再会した時、彼は長過ぎる夢の中にいた。
 二度と巡り合う事がないと思っていた相手は驚くほどに痩せ、そして息を呑むほどに美しい姿で眠り続けていた。
 呪いという闇が彼を蝕み続けていたという事を知った時、俺の意識に純粋な殺意が芽生えた。
 彼と最後の言葉を交わした七年前の日に、俺は心の中で誓いをたてた。
 醜悪な血に汚染された力では、人を守る事など出来はしない。
 だから俺は、彼の世界を犯す全てを排除する。
 それが誰であろうとも、何であろうとも。
 彼を苦しめる世界を許しはしない。
 だが。
 彼を苦しめていたはずの人間の命が世界から消滅た時、彼は現実の世界を否定するかのように死を願った。
 彼の望みとは何だったのか、彼の願う未来とは何だったのか。
 もしもそれが本当の願いだったのだとしたら、俺は彼の願いを叶えるために何をすれば良かったのだろうか。
 死を望む彼を、この手にかける。
 それは至極単純で、俺にとっては安易過ぎる事だった。
 だが。
 空ろ気な懐かしい眼差しを向けられた時、俺の感情の中に混乱にも似た甘く痛いものが溢れた。
 幼い日から、彼の背中だけを見つめて生きていた事。
 彼の隣を歩きたいと、必死になって歩幅を合わせていた事。
 縮まる事のない年齢差と、届く事のない思いを秘めて、彼の姿を探していた事。
 それが、あまりにも簡単で、あまりにも純粋過ぎるものであった事。

 そして、俺は彼の生を望んだ。
 喩えこの世界が、彼の望む未来ではなかったとしても。
 俺は、彼の呼吸する世界に存在していたい、俺の呼吸する世界に存在していて欲しい。
 彼の傍で、誰よりも近い場所で、貴方を見ていたいから。


 3

 優しい春の風が吹く日本家屋の縁側は、まるで時間が止まったかのような穏やかな空間が広がっていた。広く作られた縁側の先には、スケールを小さくしたような日本庭園風の庭が広がっている。塀の内側には木が植えられ、その中の一本が大きな影を庭先に落としていた。
 耳に入る音は、木々が奏でる若葉が擦れ合う音だけ。異なる音といえば、空を旋回する鳥の鳴き声と、離れから聞こえる犬の鳴き声程度で、他の音が耳に入る事はない。
 彼が訪れた懐かしい従兄弟の家は、記憶よりも少し広く、木々の茂った姿をしていた。

 ある事件が切っ掛けとなり、屋敷の主である綾辻焔は、七年もの間行方が解らなくなっていた従兄弟、鶴来那王との再会を果たした。
 長く歪んだ因果の中に存在した事件は、一人の人物の死をもって終焉を迎え、そして事件の中核に存在した那王は、長く深い眠りから目を覚ました。
 結果だけを見れば、事件は解決をしたといえただろう。だが、事件という因果に触れた者達は、それぞれの意識下に大きな異物のような記憶を残す事となった。
 それは那王にとっても例外ではなく、鶴来那王という存在の意識にも強く深い傷痕を残した。
 再会を果たしてから焔は、幾度となく那王の元へと足を運んだ。言葉では多くの事が不自由になってしまった彼を見舞ってと言ったが、内心は那王の近くにいたいという衝動に突き動かされていた。
 初めは、七年という長く深い時間が言葉の内側に見えない境界を作り出し、互いに巧く会話をする事が出来なかった。焔が話しかけ、那王がそれに僅かな頷きを見せる。彼の反応に言葉を返そうとするが、続く言葉が浮かばない。そんな不器用なやりとりを繰り返すだけの会話だった。
 だが、時間が経つにつれて焔の口数は増え、那王にも僅かながら表情が見えるようになっていった。
 そして、季節は冬を巡り春へと変わり、二人は『二度目の再会』を果たした。

『髪を、切ってあげるよ。……やっと会えたのに、これじゃなおちゃんの綺麗な顔が見えないから』

 ふいに、地面へと吹き降ろすような強い風に、那王の長い黒髪が大きく煽られた。柔らかいサイドの髪が舞い上がり、煩く視界を遮る。那王は目を閉じて眉を寄せるが、中々風は止む気配を見せなかった。
「あっ、ごめん。……なおちゃん、大丈夫?」
 那王の肩越しから彼を見下ろすような形で、焔が言葉をかけた。霧吹きで少しだけ湿らせた髪は、春の暖かな日差しの中では直ぐに柔らかさを取り戻してしまう。焔は霧吹きを手にすると、再度那王の長い髪に水気を与えていく。
「髪、上げるね?」
 ある程度髪が湿り気を帯びたところで、焔はビップバッグのベルトに挟んであった銀色のクリップを抜くと、両サイドの髪をアップにして留めた。
 髪が持ち上がると、今まで髪に隠れて目にする事のなかった那王の首のラインが光の中に露になった。襟足から肩にかけての形の良い曲線が呼吸と共に上下し、白くなめらかな肌が美しさと暖かさを匂わせる。
 その白いラインを見下ろした瞬間、髪に触れていた焔の両手が、痙攣を起こしたかのような動きをして、動きを止めた。何度もまばたきを繰り返すが、視線は那王の肩のラインを凝視したまま動く気配がない。
『……触れたいんだろう? この男の髪や肩に』
 焔の思考を、醜悪な感情が支配する。全身の血液が逆流をはじめたかのように身体が熱を持ち、動悸が激しくなる。
 動きを止めていた手が、無意識に首筋へと伸びようとした瞬間、彼の動きは那王の言葉によって停止させられた。
「……扱い、辛い? 俺の髪」
「……っ! あぁ。い、いや」
 瞬間、焔は目を見開き、手を反射的に引っ込めた。感情を悟られないようにと呼吸をして、言葉を取り繕う。
「……人の、髪に慣れてないだけ。犬なら、慣れてるんだけど」
 そんな焔の言葉に、那王は僅かに口元を上げて笑みを浮かべる。だが、那王は直ぐに表情を変えると、僅かに辛そうな視線を地面へと向けた。
 那王が目覚めてから時々、焔の意識を不気味な感情が支配する事があった。それは那王が見せる少しの仕草や言葉といったものに触発されるように現れ、破壊衝動にも似た暴力的な感情に思考が奪われる。その度に焔は、感情を殺すように自分に向けて命令を続けていた。那王に悟られないようにと。
 だが、那王はそんな不自然な態度の焔の気配に気づいていた。
 何故彼がそんな衝動に襲われるのか、那王には心理状態をイメージする事が出来なかった。彼の身体に流れる血が見せるものなのか、それとも自分に対しての疑心的な感情からなのか。そんな感情の動きすら感じる事は出来なかった。
 何を思い、何を感じ、そして何を伝えたいのか。
 互いは互いを理解する事なく、そして触れる事もなく、ただその場所に存在する事だけを望んだ。いや、正しくは望んだのは焔だけだったのかもしれないが。
「じゃぁ、切るね?」
 焔は短く告げると、ヒップバッグに挿していたカット用のハサミを取り出し、残された髪にゆっくりとハサミを入れた。
 規則的で軽い金属音が、那王の直ぐ後ろで響く。クリップを外し、髪を上げ、少しずつ髪を切る。それを何度か繰り返す。肩したまであった髪は、いつしか肩が見えるほどの長さになっていた。
「……」
 焔は一度、全ての髪を下ろすと、全体のバランスを測るように髪を整えた。まだ少し髪は長く、襟足も耳も全てが髪に隠れている。
 焔はハサミをカミソリに持ちかえると、毛先を指で摘み大きく削ぐようにして髪を切り始めた。金属音がザリザリとした独特の音に変わる。僅かな痛みが頭部に走るが、那王は表情を変える事なく目を閉じていた。
「……あぁ。ねぇ、焔? 最後に会った日の事を、覚えてる?」
「えっ? 最後に会った……日?」
 不意に告げられた那王の言葉に、焔の手が止まった。眉を寄せ、鮮明に記録された記憶を復元する。小さく息を吐き出すと、焔は感情を殺した声で返答した。
「……それが、どうかした?」
 那王は、焔の表情の変化に気づきながらも、それに気づく振りをする事なく言葉を続けた。
「あの日……。俺は焔に夢を話をしたよね? どんな夢だったのか、あの時も今もおぼろげにしか思い出す事は出来ないけど。酷く不気味で恐ろしい夢だったのを覚えてる」
「……」
「それは……そう。今みたいに櫻の咲く、春だった気がする。美しい櫻の咲いたその場所で、俺は何かをしていたんだ。満月の浮かぶ、綺麗な夜だった。
 俺は櫻を見上げていたのか……それとも、地上を見下ろしていたのか。そんな事すら思い出す事が出来なくて。
 ……ただ俺が覚えているのは、酷く錆び付いた匂いがしていた事。その中に、誰かがいたような気がする事」
「……」
 焔の両目が大きく見開かれ、そして硬く閉ざされる。幼い日の感情が、視界の中に現れる。
 那王は目を伏せたまま、一度言葉を切り息をついた。こびり付いた傷痕のように、記憶の影が瞼の裏にゆらめく。
「その話をしていた時、焔が突然泣き出して俺は驚いたよ。どうして泣くのか、何故泣いているのか。俺には何も解らなくて、どうすればいいのか解らなくて、ただ泣いている焔を見下ろす事しか出来なかった。
 ……今でも、それは解らない。ただ、焔が俺に告げた『イカナイデ』という言葉に、俺はもう二度と焔に会ってはいけないような気がした。
 それで良かった。二度と会えなくなったとしても、何かを傷付けて痛みを残すならば、初めからなかったものなのだと思えばいいと」
 言葉を切った那王の口元には、不思議と笑みが浮かんでいた。何故こんな話をしたのか。彼にも、その理由を見つける事は出来なかった。
「だから……だからなのかな? 理由は解らないけど、俺は春も櫻も好きにはなれない」
 消え入りそうな声で呟いた言葉の中にに、焔は初めて那王の本当の気持ちを告げられたような感覚がした。
 そして、自分の中で生まれた感情の意味をようやく理解した。
「……あれから」
 焔が呟く。
 ずっと意識の中に沈み続けていた感情が、少しずつ明確な形を伴い色を持つ。
「もう、十年も経ったんだね。……なおちゃんはずっと綺麗になって、俺も大人になれた。あの時に比べれば自分の周りの世界は広くなったし、嘘をつく事も言葉を選べるようにもなった。なおちゃんからすれば、俺はまだまだ子供かもしれないけれど……」
 焔の言葉が、那王の意識に触れる。十歳近い年齢差の彼の言葉は、まるで夢に縋り付きたい子供の言葉のようにも聞こえた。それが酷く残酷な感情だと糾弾されても、那王は否定をする事は出来ないと確信していた。
「けど。小さい頃から、なおちゃんに追いつきたくて、ずっと見ていたんだ。もう直ぐ身長だって届く、なおちゃんと同じ年齢にだってなっていく。俺はなおちゃんの傍にいたい。なおちゃんを見ていたいんだ。
 ……だから」
「……焔。夢に、溺れないで」
 呟くと同時に那王は目を開けた。肩に触れた暖かさに僅かに顔を上げる。カミソリを手にしていない方の腕で、那王の身体は焔の中に抱きしめられていた。
 肩の直ぐ傍。鎖骨のラインに、焔の呼吸を感じる。
「……那王」
 焔が名前を呼ぶ。
 それはとても大人びた声をしていた。
 那王は小さく呼吸をする。
 僅かに眉を寄せた表情は、どんな顔を向ければいいのか解らない、彼なりの精一杯の反応だった。

「貴方を       」

 呼吸が詰まる。
 那王は、理解が出来ないというように、困った表情を浮かべた。
 彼の言葉はあまりにも真っ直ぐで、あまりにも無防備過ぎた。それはいつか、那王が感じたイメージに酷く似ていた。
「……焔」
 期待と不安、そして願いの入り混じった感情が、抱きしめられた腕の向こうから伝わる。彼のイメージは驚きと確信、そして酷く大きな痛みに変わる。
 子供が望む憧れは、いつも鮮やかで綺麗なものである、と。
「……焔」
 那王が言葉を続ける。それが喩え、彼を傷つける言葉になったとしても。
 夢を見続けさせてやれるほど、望まれる人間ではない。ましてや、夢に縋る事がどんな形で人を愚かなものに変えてしまうか。那王はそんな、なれの果てに残るものを知っていた。
「……夢を見ているんだよ、きっと。俺という存在に。会わなかった時間があまりにも長すぎたから」
 抱き締められた腕に、僅かな力がこもる。それは彼の言葉を理解した意味とも、言葉の意味に抗うような意味とも感じる事が出来た。
「今じゃなくていい。答えなくていい。……貴方に信じてもらえるまで。……貴方に許してもらえるまで。傍にいたい。……それだけ、だから」
 願いとも言い訳とも聞こえる言葉は、わずかに震えていた。
 視線を上げると、舞い続ける櫻が視界の中に溢れる。それは夢の中で目にした櫻と同じ、美しい姿をしていた。
 もしも。
「……そうだね。いつか」
 もしも、この櫻を好きに慣れたとしたら、彼の言葉を少しだけ信じてみよう。
 誓いのような言葉が思考の中に溢れた時、彼の顔は酷く儚げで優しい笑みを浮かべていた。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2004年05月06日

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