『セピア 〜逢瀬〜 』

渡会・〓人（2941）＆盾原・柑奈（2907）

　起き抜けの頬は、涙に濡れていた。枕元にはあのノート。
「……夢じゃなかった」
　呟くのが精一杯。込み上げてくるのは切なさと嬉しさ。前世に生き、同じ想いを胸に現世を生きる――その喜び。
　僕は寝転んだまま、天井に描いた。その人の名を。
「カレン・エヴァニア……カレン…柑奈さん」
　柑奈さんと出会って最初の夜。握り締めた手から伝わった体温を思い出し眠った夜。僕はすべてを理解した。繰り返し夢に現れた声と、懐かしい面影。それは夢となって蘇った前世の記憶だったのだ。
　目を閉じた。
　セピア色の映像が鮮明に浮かび上がる。僕は時を忘れ、先ほど醒めてしまったばかりの夢を貪った。
　僕がキース・ルゴーであった頃の胸に去来する恋心とともに。

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　欧州。貴族と呼ばれる階級が世界のすべてだった時代。自由に向かう一般人の心と逆行するかのように、隔離され閉鎖された貴族世界は血脈と地位を守ることを良しとした。それは若き男女の仲ですら、思うようにならないことを意味していた。
　けれど、恋は身分の差を越える。軽々と。いつの時代においても男女の愛が、永遠の命題であるように。

「カレン。お前の絵を描いてもらおうと思う。美しく描いてもらうのだぞ」
「なぜですか……。別に絵を描いてもらう必要はありませんわ」
　父親は肩をすくめた。相変わらず変った娘だ。舞踏会にも出たがらないし、何か慈善事業をするわけでもない。もう年頃、エヴァニア家を存続し、良い縁談を結ぶためにもカレンを貴族界にアピールする必要がある。絵画を飾っておけば、人に逢いたがらない娘でも家を訪れる貴族男性の目に止まるやもしれぬ。父親はそう考えていた。
「まぁ、そういうな。亡くなったマリアも描いてもらうのが好きだったぞ」
「母上が？　……わかりました。でも、一度だけです。他にすることがありますので」
　上品で飾り気の少ないサルビア・ブルーのドレス。軽く持ち上げて会釈すると、カレンは部屋へと長い廊下に足を進めた。
　母譲りの艶やかな黒髪を通り抜ける風になびかせる娘。その胸に宿るのは文士としての熱意だった。父親にはまだ気づかれていない。けれど、いつかはと決めていた。
「絵画など私には不必要なのに……」
　その言葉が偽りになると、その時のカレンは気づきもしなかった。出会ってしまう運命を知らずに。


　ひと目見た瞬間、キース・ルゴーはこの人を愛してしまうだろうと予感した。凛とした表情。まっすぐに前を見つめている瞳。自分が絵師でこの人――カレン・エヴァニア嬢を描きに来たことすら忘れてしまいそうだったのだから。
　紹介の場面には父親がいたが、彼は忙しい人物らしく彼女を描く間、キースはカレンと二人きりになることがほとんどだった。歳若い男女が同じ部屋にふたりでいるなど許されるはずのない時代。父親は身分の違いから、間違いが起こるはずがないとでも安直に考えたのかもしれない。その貴族特有の唯我意識によって、キースとカレンの運命は急速に坂道を転がり始めたのだった。
　最初は一言も言葉を交わすことはなかった。
　キースは絵を描くこと以外では不器用で、女性とまともな会話すらしたことのない芸術青年。気取った台詞も美しい詩の暗唱もできるはずもなく、ただ日々募る熱い想いを胸に秘めたまま、無言で絵筆を動かし続けていた。
「貴方は…貴方はどうして絵を描いているのですか？」
　それは突然のことだった。見つめることの出来る幸せを感じていたキースの手が止まる。
「えっ…あの」
「私は自分でしたいことも満足にさせてもらえません。貴方はどうして絵を描こうと思ったのですか？」
　ついばみたいほどに愛らしい唇が言葉を綴る。それは誰にでもない、カンバスに木炭を走らせていたキースに向かって――。
　真摯な瞳。キースは眩暈を感じながら、答えを探した。

　――本当のことを話して変った男だと思われないだろうか。
　　　　いや、彼女は貴族。僕はただの絵描き。釣り合うはずもない。
　　　　今はまっすぐに問ってくる言葉に、素直に答えるのが彼女に対する誠意だろう。

「絵が好きだからです」
「それだけ？　……生活はできるのですか？　好きなことを仕事にして生きる…私にも出来るでしょうか」
　キースは思いもしなかった問いに頭をかいた。
「そんなことを聞かれると思いませんでした……」
「ご、ごめんなさい。私は憧れているのです。自分自身の手で生活を支え、星の流れを感じながら好きな仕事をする……そんな生き方に」
「謝らないで下さい。不快だったわけではありません……。ただ、貴族である貴方は何も不自由などないと思っていたものですから」
　カレンのオリーブ色の瞳がキースを見つめた。それは現実ではない、どこか遠くを夢見る色。
　虜になる。
　貴方は籠の鳥なのか。
　僕が扉を開け、そっと手のひらに飛び乗ってくれる幻想。
　貴方をもっと知りたい。
　言葉にしてしまいそうな想いがキースの胸の中に溢れた。絵を描くことにした興味のなかった青年に舞い降りた天使。手に入るはずのない幻だと知っていても、カレンに向かう焦がれる恋心。
「私は私です。身分など……」
「出来ると信じます。貴方なら、僕は信じます」
　カレンの固かった表情が緩んでいく。そして、ずっと晴れることのなかった顔が微笑みへと変る。白い頬は朱に染まり、小鳥のさえずりの如く声がキースの耳をくすぐった。
「ありがとう。これからも相談に乗って下さいね。ルゴーさん」
「い、いえ。僕は……。あ、あの僕のことは、キースと呼んで下さい」
　通い合った心。出会ってしまった運命。繰り返されるのは逢瀬。絵が仕上がる近づく心と体。
　ふたりが恋に落ちることを初夏の風だけが知っていた。


　触れ合う指先。頬に添えられた暖かな手のひら。
「キース様。また、絵の具がついていますわ」
　白いレースのハンカチーフでカレンがキースの頬を拭った。
「すみません……。あの、僕をキース様と呼ぶのはやめて頂けませんか。申し訳ないんです…カレン様」
「では、私のこともカレンと呼んで下さるなら、やめますわ」
　柔らかな小悪魔の笑顔にキースは苦笑した。たまらなく嬉しいくせに、現実感を失っていく自分を恐ろしく思った。もう少しで絵は完成する。そうなれば、この屋敷を出て行かねばならない。彼女を置いて。
　キースは頭を振った。

　――僕にカレン様を幸せに出来る保証はない……。
　　　　どうすればいい？
　　　　この果てのない感情をどうすれば――。

　手に入れたいと思う欲望。
　絵の具を重ねるように、心の中に深く色を残すカレンの微笑み。辛うじて指先を触れ合うだけの関係になったが、それさえも罪の意識に苛まれる。このままでは感情を押さえ切れなくなるのも時間の問題。それほどまでに、カレンの存在はしっかりと胸に刻まれてしまったのだ。
　ポーズに疲れてしまった様子で、カレンはキースの傍で自分の絵を眺め始めた。
「私って、こんな顔だったかしら？」
　無邪気に振り向いた笑顔。まっすぐに自分を見つめる瞳。
　それはあまりにも愛しくて――。
　理性の箍は軽々と弾け飛ぶ。
「カレン様……お許しを！」
　手首を取りかき抱いた。華奢な肩、細い腰。甘い香水の刺激。
　僅かに開かれた果実の如き唇。キースは震えるカレンの体を壁に押しつけるように、自分の唇を重ねた。
　カレンは逃げなかった。伏せられた睫毛は喜悦の涙に濡れていた。

　長い時。
　永遠なる逢瀬。

　しかし、願いは届かない。断罪の声がふたりを別つ。
「何をしている！！　ルゴー、お前という男は！　クビだ！　お前など、クビだ！！」
　現われたのは父親だった。歴史に名を残す名士エヴァニアの当主であり、キースの雇い主。絵を描くことしか人に自慢できるものはない。彼に逆らう術を青年は持っていなかった。
　愛しき人から引き離される。
　絵を仕上げる僅かな時間だけが与えられた。捨てられるように、キースは屋敷を出された。
　カレンがそれを知ったのは、恋しい青年の姿を彼の住んでいたはずの街にさえ見つけられないほど、日々が経過した後だった。
　残されたのは一枚の絵。
　焦がれる想いの結晶。
　柔らかく微笑んだカレン・エヴァニアの絵姿だけだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＋

　?R人は胸が痛んだ。これから起こることが、過去の出来事だと知っているのに。
　自分に置き換えた時、僕はどうするだろう。
　柑奈さんを失う。
　まだ、僕の想いが届いてさえいないというのに。
　失いたくなかった。だからこそ、前世の記憶から目を逸らしてはいけないのだ。
　辛く涙を零しても。


□END□

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　お言葉に甘えて、続きらしくさせて頂きました。ライターの杜野天音です。
　キースのどうしようもない恋心が、カレンの想いと重なって胸が熱い想いでいっぱいになりました。よかったですね。
　でも、これは過去の出来事。現実世界にどんな風に繋がっていくのか楽しみです♪
　ドレス姿のカレン（柑奈）さんは素敵でしょうね。キース（?R人）くんがメロメロなのが、かなりツボです(>v<)""
　それでは素敵な物語を書かせて頂いてありがとうございました！

PCシチュエーションノベル（ツイン）

杜野天音

東京怪談

2004年05月03日