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『皓祈 』
久坂・よう1430)&久坂・つき(1320)

 言葉を交わさなくとも、心を通わせることの出来る人がいる。
 この世に産声を上げた瞬間から――否、そのずっとずっと前。原初の海を漂う名もなき存在であった頃から。
 それは天にある太陽と月が、変わらぬ速度で人々の頭上を廻り続けるのと同じく、当たり前で不変的なこと。


 混じり気のない漆黒の空に、凛然とした皓い輝きを放つ月が浮かぶ。
 さくり、と一歩を踏み出すごとに鳴る、ほのかに柔らかい春特有の土。都心では少なくなった地球の鼓動に直に触れられるその温もりを、確かめるようにゆっくりと踏みしめながら、ようは視界を覆い尽くす薄紅に翠の視線を馳せた。
「もう、終わりの時期かな」
 呟きは甘い香りを乗せた風に攫われ、薄茶の髪をふわりと揺らす。
 何かに導かれるように、足を向けた公園。そこには近くの街灯に照らし出されて幻想的な雰囲気を醸し出す桜の群落があった。
 しかし、盛りの頃を既に逸してしまっているのか。花弁が落ちて萼だけになってしまったものや、まばらではあるが夜目にも鮮やかな緑の葉を覗かせている部分もある。
 ふっと一枚、透き通るように薄い花弁がようの頬に舞い降りた。
 それを、まだ大人にはなりきれていない危うさが残るラインを描く指先で摘み取り、静かに息を吹きかけ宙へと還す。
 目には見えない何かと戯れながら、ようの足はまっすぐと公園の最奥を迷わず目指していた。
 そこにあるのは、この公園で一番古く、そして大きな桜の木。
 『彼女』がここにいたことを知っていたわけではないが、どうして自分が今、ここを訪れているのかをようは誰よりも理解している。
「どうしたの?」
 ようの問い掛けに、『彼女』は黙したまま。
 いや、ひょっとしたら話すことが出来ないのかもしれない。
 その証のように、その桜の木だけ未だ蕾さえつけず、固く心を閉ざした少女のように全身を硬く強張らせてしまっていた。
「もったいないな。君が花を咲かす事ができたならどれほど綺麗かしれないのに……」
 心底悔やまれてならない、とようは樹齢を重ねごつごつとした、けれど微かに優しい滑らかさを残した表皮を、まるで大切な人の髪を梳くようにゆるりと撫でた。
「何が君を縛っているのかな……もしかして、その足許のもの?」
 かつては髪と同じ色をしていた、しかし今は彼の確かな決意を現す色の瞳が、無言のまま桜の木の根元に移る。
 桜より淡い色の唇が、小さく溜息をこぼし、白い額が微妙な腹立たしさに浅い皺を刻む。
「うん、確かにね桜の花の下には死体が埋まっていると言うけれど……」
 語尾は再びの嘆息に掻き消される。
 ようには視えていた。
 視える力があるからこそ、今宵ここへと招かれたのであろう――『彼女』から。
 渦巻く瘴気。
 ヘドロにも似た不快な臭気を放つそれは、『彼女』が大地に深く根を下ろすその場所に、不気味な触手を伸ばし幾重にも絡み付いていた。
「この世で最も恐ろしいのは人の心、か」
 桜に寄り添うようにも、闇色の手を伸ばさんとしているのは、死者の妄執。
 己の死を悔やみ嘆き、天に還る事を放棄した哀れな魂たち。
 最初は何かの偶然で引き寄せられたのかもしれない。おそらく何よりも美しく咲き誇っていただろう『彼女』に。
 けれどそれはいつの間にか、捨て切れぬ生への執着から生きとし生けるもの全てへの嫉妬と憎悪に成り果て、同じ色をしたものを呼び込み、生命の輝きに満ちる『彼女』を縛り上げて行った。
「うん、確かに貴方たちも可哀想だな、とかは思うんだけど」
 耳に届いたのは何かの咆哮。
 生者を自分達と同じ世界へ招こうとする黒い聖歌。
 ざわり、と一帯の木々がざわめき始める、それは呼ばれることへの恐れ。
「だけど、ね。やっぱり一年に一度花を咲かせる楽しみを邪魔をするなんてちょっと野暮だと思わない?」
 くすり、と笑む。そうして一度口元へ運んだ手を、一閃。
 その瞬きの間ほどの動作で、ようは自身に身を寄せようとしていた澱みを払い去った。
 それから再び、『彼女』に触れる。
「君に名がないというなら僕がつけてあげる」
 このまま術力を行使し、穢れを落すのはようにとっては容易なことだが、それでは哀れな魂たちを救うことは出来ない。
 ならば、道は一つ。
 桜に名を与え、『彼女』の耀自体で死者の闇から抜け出し、その輝きを力に変えて立ち止まってしまっている心を在るべき場所へ還す。
「言葉にはね、力が宿っているんだよ。言霊って言うんだけど、知ってるかな?」
 語りかける先は両者。
「言葉は力になる。その一つ一つが世界に影響を及ぼし、運命を形作る。その最たるは、名。名は全ての理となる」
 まっすぐに姿勢を正し、ようは微笑を浮かべ凛と響く声で浪々と詠い上げた。
 木々のざわめきに満たされていた空間が、固く弦を引き絞るように緊張に張り詰め、無音の霊場が整えられる。
「久坂よう、この名の下に新たな魄を授ける。汝の名は『皓祈(こうき)』、真白な祈りで惑いし魂を天へと導く者」
 一言一句、ようの言葉だけが場の唯一無二の真実となり、全ての魂を奮わせた。それは歓喜、解き放たれる、導かれる喜びの咏。
 刹那、世界が昼の光よりなお目を眩ませる白に染まった。


「つき? 今から出てこない? うん、うん……そう。あぁ、でもちゃんと暖かくして出ておいで。今夜は少し冷えるから」
 本当は電話など必要はないと分かっている。
 けれど、どうしてだか声が聞きたい気分だったから。通話終了のボタンを押し、携帯電話をポケットの奥に押し込みながら、ようは公園の入り口のフェンスに緩く背を預けた。
 辺りに人影は皆無。
 時折遠くに聞こえる犬の声は、人の目には見えない何かを察してのことかもしれない。
 長い睫毛に縁取られた瞼を落とし、脳裏に描く。今ここに向ってきている艶のある黒髪が美しい少女の姿を。
 自分とは似ても似つかない双子の妹、つき。
 ようのクラスメートの中でも美少女と誉れ高い彼女は、自慢であると同時に何よりも大切で心配の種にもなりえる存在だった。
 人見知りが激しくて、いつもはようの後ろに隠れるように寄り添い歩く妹。しかし一度戦闘ともなれば、彼らの仕える主家の家宝でもある槍を振るい、麗凛とした女神の片鱗を覗かせる。
 彼女に負担を負わせたくなくて、自分から望んで苦難の道を歩くことをようは選んだ。そしてその苦しみを半身に悟られることがないよう、細心の注意を払っている――時に残酷なほどに。
 つきの痛みはようの痛み。
 ようの苦しみはつきの苦しみ。
 と、誰かの弾む鼓動を感じ、ようは耽っていた想いをそっと心の隅に押しやった。
 誰の、などと考える必要はない。
 近付いてくるそれ。疑うべくもない片割れの気配。
 彼女の到着を迎えるために、もたれかかっていた無機質の冷たさから身体をついっと起こす。
「……兄さま?」
「おいで、つき」
 兄の姿を見つけ、小走りに駆けて来る妹を満面の笑みで迎える。
 薄手のワンピースの上に白いショールを羽織った姿で現れた妹の細い手首を、ゆるく掴んでようはその身を引き寄せた。
 微かに上がった息と上気した頬。それはゆらゆらと風に揺れる桜の花弁と同じ色。
「目、瞑っていてごらん」
「?」
 突然の呼び出しに続く唐突な兄の言葉に、小首を傾げながらもつきは言われたままに、黒曜の輝きを宿した瞳を閉ざした。
 2人、手を繋いで歩き出す。
 わずかに冷えた指先を経由して伝わってくるのは、確かな温もり。だからつきには不安は微塵もありはしない。あるのは兄の纏う穏やかで優しい気配と、その中にこっそりと忍ばされた心躍らせる期待感。
 つきの足元を気遣い、静かに足を運ぶ。踏み出される足先に、呼び起こされた大気のさざめきが、地に散った薄紅色の破片たちを再び宙へと踊らせた。
 さくり、さくり。
 足音と2人の呼吸音だけが、ひっそりと浸透していく。
「そのまま、手を出してごらん」
 不意に手を解かれ、次の行動を促された。
 頬を撫でて行くのはどこまでも静謐な空気。一片の凝りも滲ませない澄み渡った湖水とよく似たそれは、ようの力の余韻を幽かに残している。
 何、かしら。
 一度は落ち着いたはずのつき鼓動が、静かに高まり始める。
 祈るように胸の前で両手を重ね、そのままそっと折っていた肘を伸ばす。そして固かった蕾が綻び花を咲かせるように、ゆるやかに指を広げる。
 その時、一陣の風が吹いた。
 それはつきの肩からショールを攫い去ってしまう。
 急に心もとなくなってしまった華奢な肩。
 けれどそれは間をおかず、芽吹いたばかりの新芽のような柔らかい温もりに護られた。
 拾い上げられたショールと共に、ようの手がつきの背中に触れる。
「もう、目を開いていいよ」
「………」
 促され、ゆるゆると瞼を押し上げた。
 遠くにある街灯と、遥か高みにある月から投げかけられる皓い光だけに照らし出された薄暗い視界。そこへ新たに滑り込んだのは―――
「桜……」
 呟きながら、つきは手の平に咲いた一枚の花弁を見つけ、そうして目の前の巨木を振り仰ぐ。
「―――」
「綺麗、だろう?」
 言葉を失ったつきを、背後から覗き込むようにようが身を乗り出す。その顔に浮かんでいるのは、妹の驚きの表情に少しだけ満足そうな悪戯めいた年相応の笑み。
 そんな兄の笑顔に、つきは無言でこくりと首を縦に振る。
 長い年月を生きて、存在を周囲の木々から一段高い処へ昇らせた名を持つその桜は、今にも零れ落ちんばかりの花を一斉に開かせていた。
 擽るような密やかな風に、花々が鈴を転がしたように楽しげに歌い笑う。
「この花弁……少し、白い」
 圧倒的な美しさに息を詰めていたつきが、ようやくそれだけをぽつりと言葉にする。
 確かにその花は他の木々の花よりも白かった。しかしそれは冷たい白さではなく、何もかもを包み込んでしまいそうな大きな優しさに満ちた色。
 現世に繋ぎとめられ、歪んでしまった死者の魂を浄化する精錬の光。
 ここで起こった何かを理解したつきが、背後に立つ兄を振り返る。その様をようは目を細めて眺め、優雅な仕草で『皓祈』を見上げた。
「つきに、これを見せたかったんだ……やっぱり花見は春の月の下の夜桜が最高だね」
 兄の視線を追いかけて、妹は再び白い桜を見上げる。そうしてその先にある、皓い月を見つけ、手の平に宿ったままの花弁を壊さぬように握り込んだ。
「つきは……」
 薄い皮膚の向こうから伝わってくるのは、誰よりも優しい力。
 言いかけた言葉を戸惑うように飲み込んだ妹を、兄は横に並んで不思議そうに見つめる。他に何の干渉も許さない二人だけの空間で、薄茶と漆黒の髪が羽のように軽やかに舞いながら絡む。
「つき?」
「つきは、春の陽光の中に見る櫻も好き」
 今、眼前にある桜の姿を瞼の裏にしっかりと焼き付けてから、つきは息を吐き出しながら瞳を閉じて、晴れ渡る空の下でのこの桜の状態を思い浮かべる。
 何処までも広がる果てのない青い空。薄くなびく雲はどこまでも白く。
 永遠を予感させるその風景に、この清浄な光を纏わせた桜を。全てを白日の下に晒す強さと、全ての生命の源となる慈しみの輝きをもたらす太陽と共に。
 月の下とは趣を異にする、力強さを感じさせるその姿を想像し、つきは目を開け今が盛りの桜さえ見劣りしてしまいそうな笑顔を兄へと向ける。
「つきは、陽の光の下の花も好き」
 繰り返されたつきの言葉に、驚きと言い知れぬ喜びで翠の瞳を見開き、その後ようは破顔した。
「うん、そうだね」
 どちらともなく手を差し出し、指を絡める。
 今度は明るいときに見に来ようと約束をして。


 言葉は力を持ち、時に世界の全てを支配する。
 何かを伝え、何かを繋ぐには必要不可欠なもの。
 けれど、魂を分けた2人の間にはそれは必ずしもなくてはならないものではない。
 陽と月が天地の理の下、互いに語らず永い盟約と共に寄り添い、全ての生命を育んできたように。
 降り注ぐのは皓い祈り。
 今、この瞬間をずっとずっと紡ぎ続けていけるように、と。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
観空ハツキ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月26日

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