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『陸陸談話 』
ぺんぎん・文太2769


 日がな一日うつらうつらとしていたお蔭で、如何にも夢現の感覚が抜けぬ。霞んで見えた天井板の、木目の、いやその隅に、かさこそと揺れているあれは大きな蜘蛛の一匹あるか、これから巣を張るところであろう、ならば邪魔はすまいぞ心置きなく糸を吐けと、やはりぼんやり思っては、緩く持ち上げた腕を額の辺りへ遣った。
 ああ、蒲団も敷かずに寝入ったのがいけない。手の甲にくっきりと畳の痕を見る。すると此方もかと、下になった左頬に触れ同じ感触を確かめた。
 揺らめくような温い風に誘われて、酷く億劫そうに上体を起こす。
 頸を幾度か左右に傾ぎ、凝った背をトントンと叩いた。そうして一度大きく伸びをして、もう陽が高いか、飯は如何しよう、と縁側を、その向こうに広がる竹林を、意識せず視界の端に捉えた。

 転けた。

 丸いな、と先ず思った。
 続いて、あれは何だ、と考えた。
 庵を囲む竹林の群れより不意に出でし丸みを帯びた動物――動いているのだから生きているのだろう、すると動物でしか有り得んな――を見付け、うむと意味もなくひとつ唸り、先程恐らく躓いて転がった丸く黒い動物の動向を窺う。
 それは庵の縁側近く、前のめりに転倒したらしく、両手で頻りに地を叩きて起き上がろうとしている様子。その余りに必死な動きが何処か愛くるしくもあって、口許がふと緩んだ。
(駄目だな。あんな手じゃあ、体も支えられねぇだろう)
 そうだ、もっと地をしっかと掴んでみせろ、その手でよ。
(……『手』?)
 大きく、頸を傾げた。
 眼の前で蠢くこの動物らしきもの、手が無いのである。
 体の側面から伸びる対の腕と思しき先は、唯弧を描くのみで、五本どころか一本の指も見当たらぬ。再びこれは何と云う動物だろうかと考え巡らし、それを云うなら足の方もおかしいなと気付いて其方も見る。黄色の足は鳥のような骨形をして、併し間に水掻きあり、泳げるのか飛べるのか、それすら分からぬ有様である。
 第一、此処に住んで暫く経つが、こんな奇怪な生き物は見たことがない。
 当の動物はと云えば、漸く頭を地から離して嘴に付いた泥を落とし――嘴があるなら鳥なのか――、一通りそれが済むと今度は腹の辺りの土も拭う。一段落つき、きょろきょろと周り見遣って、必然、はたと此方と眼が合った。
 暫し。
 双方見合ったまま、身動ぎすらせず。
 やがて何やら気まずささえ感じられてきて、ふと体ごと視線を逸らしてみた。
 背後で遠ざかってゆく気配あって、再び振り向きてみれば、果たして動物はひょこひょこと奇妙な足取りで以て別の方角を目指し進みゆくところ。
「おい」
 声を掛ければ逃げ出すかもしれぬと思いつつ、そう呼び止めると、
「……なんだ」
 声と共にそれは振り返った。
 日がな一日うつらうつらとしていたお蔭で、如何にも夢現の感覚が――抜けていないことを祈った。

 彼方から参った、と、其奴は竹林を示した。
 俺は「はあ、」と生返事するだけに止めて、煙管を銜える。火の熱さも、幾度も繰り返し頬やら足やら抓ってみたが確かに痛みも感じられて、向こう脛など蚊に食われたように赤くなった。
 詰まりは夢ではないと云うこと。
 現実に眼の前のこの動物、喋りやがるのである。
「北から海沿いにな、ふらりふらりと辿ってきたのよ」
 しかも妙に慣れた口振り、声音と口調で判断すれば雄か。歳の方は俺と変わらぬか或いは上かもしれぬ。
「海を辿ってきたってなァ。ここは山間の、それも竹藪の中、人間様さえ滅多に通らねぇところだぞ。なんだってこんなとこに来たんだ、その……」
 呼び掛けようとして、ふと名を尋ねていなかったと思い立ち、「お前さん、名はなんて?」と問えば、
「もののけだ」
 と来た。
「……物の怪」
「そうだ」
「まあ、確かに喋る動物は化け物には違いねぇが、そうじゃない。名前を訊いてるンだ、俺は」
 自ら物の怪と名告った動物は、じっとしているばかり。
「……昔はあったかもしれん」
「なんだよ、訳有りか?」
「どうやら我輩は忘れやすい性質らしくてな」
「手前の名ぐらい憶えておけよ。名無しじゃなにかと面倒だ。とりあえず……文太でいい。文太とでも名告っておけ」
「その名は?」
「俺の親父の名前だ。安心しろ、俺とは似ても似つかねぇ確りした男だよ」
「ではお前の名は、」
 答えて名を告げると、案の定暫くあって「しみ?」と問い返された。否定してもう一度ゆっくり発音し、更に由来まで教えたところで漸く得心、土地の訛りも手伝って呼び難い名であるとは常日頃思うていたが、物の怪にとってもそれは同じであったらしい。そもそもこの嘴で人間と同様の喋りが出来るだけでも驚きか。
「話が逸れたな。文太、お前なんでここに来た?」
 文太、と呼ばれたのが気恥ずかしいのか、物の怪は手――だと思うもの――で顔を掻き、遠くを眺め遣りながら徐に答えた。
「……歩いていたら、いつの間にやら、竹林で蹴躓いていて、な」
「つまり、憶えてねぇと、」
「そういうことだ」
「海沿いにってこたァ、大分長い旅路かい、」
「そうだな、長いといえば長かったかもしれん」
「へえ。旅の目的は?」
 ふと文太は嘴を僅かに開いて何事か言い掛けて、再び閉じてと動かしてから、何の意味があるかは知らぬが体を右に左にとゆらゆら揺らす。不思議な動きだと相手には悪いが観察して、含んだ煙を時間を掛けて吐き出していると、不意に文太は思い出したとばかりに俺を真直ぐに見上げ、
「忘れた」
 とはっきりと己の物忘れの酷さを主張した。
「まるで鳥頭だァな。……あ、するとやはり鳥なのか、」
「我輩か?」
「おう。鳥みてぇだと思っていたンでな」
「もののけだぞ」
 鳥の化け物と云うことだろうか。
「それより我輩のことばかり。お前の話はないのか」
「俺? 聞かせて楽しい話はねぇぞ。何せ何年もこの庵だからな。誰かと話すのもしばらく振りよ」
「なぜここにいる、」
「さてなァ……」
 煙管を口から離して宙を見詰め、視線だけ文太に戻す。
 そうして、
「忘れた」
 先の真似してみせて、意味ありげにニッと口の端を上げた。
 文太は些か気に食わぬような素振り。それにはひらひらと手を振って、「まあ、そのうち、」と言ってやった。
「どうせしばらくは、ここらにいるンだろ?」
「すぐに流れるつもりであったが、」
「やめとけ。もうじき夏も終わる。この土地の夏は短いが、秋も短い。秋が過ぎれば、あっという間に長ァい冬だ。どこもかしこも雪景色。その上この辺りは山に谷にと旅人には難儀な場所ときてる」
 お前さんには尚更な、と付け加え、煙管の先で鳥のような足を指し示した。
「さすがに季節をまたいでまでこの土地に留まるつもりはない」
「どうだかな。まず海から大分離れてるぞ、ここは。その間の記憶がさっぱりなンだろ、お前はよ」
 む、と言い淀む文太を見て、俺はひとつ息を吐くと、灰吹きにタンと煙管を打った。細めた目を表の竹林へ遣り、復た溜息。
(さァて、どうしたモンかね)
 海への道を知らぬ訳ではない。
 道案内を務めても構わぬし、この通り凡そ俗世から離れて長い身の上にて、暫く留守にしたって、困ることは何もない。
 ちらと文太を窺えば、天井の隅を眺めている。
(問題は、コイツなんだよな)
 鳥に近い物の怪。
 俺が呼び止めたのに、極々自然に返事までして振り返りやがった。
 恐らく今までに人と会ったことが少ないのだろう。
(物の怪とはいうが、特に悪そうな奴にも見えねぇし)
 暫くこの庵に置いて、世過ぎを教えてやった方が良いかもしれぬ。思い至り、そうと決まればと、日常に紛れ込んだ非日常の生き物に声を掛けた。
「腹、空かねぇか? 文太」
「そうだな。我輩はその前にこの泥を落としたい」
 と、腹の毛並みを撫でて、僅かに茶色く染まった毛を摘んでみせた。
「すると風呂か。湯を沸かしてもいいが、温泉にでも行ってみるか?」
「なに、近くにあるのか」
「庵の裏から山を下りていくと集落がある。そこにな。……なんだお前、温泉好きか」
「湯はいいぞ、湯は」
「まあ、精々見付からねぇようにするンだな。じゃ、ちょっくら準備してくらァ」
 早くしろ、と急かす文太を背に、風呂場へ向かう。湯桶と干してあった手拭いを手に取って縁側へ戻り掛けて、そういえばと土間を覘き、掛かっていた新しめの布の一枚を桶に抛り込んだ。
 これから同居人となる、文太用の手拭いであった。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月21日

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