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『興信所貧窮問答歌 』
シュライン・エマ0086)&草間・武彦(0509)

 それはある過去の日の事。全ての始まりたる帰昔線事件の前。

 草間興信所に閑古鳥が鳴いていた。
 もっともそれは、ごくごく日常的な事で取り立てて騒ぐほどの事でもない。
 とは言え、それが何も問題のない状態というわけではないのは、くすんだボロ事務所の中、机に突っ伏す男の様を見れば推して知れようものだった。
「‥‥腹、減ったな」
 草間武彦は、空きっ腹にタバコの煙を流し込み、そして煙と一緒に泣き言を吐き出す。
 ほぼ常食としているカップ麺の在庫は無し。冷蔵庫の中は、半分ほど使った練りワサビのチューブとマヨネーズだけ。米櫃に米はあるが、問題は、もっと違った方面からの危機‥‥
「‥‥参ったよなぁ」
 草間は、いつも通りに名も知らない歌手の歌を垂れ流す鉱石ラジオに目をやる。この部屋の中、まともに動く機械は、この鉱石ラジオと黒電話くらいな物だ。
 それが、如何なる事実を示すかと言うと‥‥
「こんにちは。お久しぶり、武彦さん」
 と、ドアを開け、興信所に入ってきたのは、シュライン・エマだった。
 本業の方の関係‥‥それと、草間興信所には日常的に人を雇う余裕など無いという厳然たる事実から、足が遠のいていたわけで、今日は久しぶりの来訪と言う事になる。
 そんな彼女は、入って来てすぐに応接セットのテーブルの上に荷物を置くや、何やら不思議そうな表情を浮かべ、草間に聞いてきた。
「ねえ、ブザーが鳴らないけど?」
 草間興信所の玄関に設置された呼び鈴‥‥というかブザー。人が殺せるんじゃないかと言うくらいに酷い音で鳴り響くそれが、どうしてか今日は鳴らなかった。
 その件に触れられた途端、草間は非常に気まずそうな表情をその顔に浮かべる。
「いや‥‥まあな。それより、今日はどうしたんだ? 仕事なんて、頼める状況じゃ‥‥」
「今日は仕事じゃなくて、本業が空いたから様子を見に来ただけ‥‥‥‥って、何か隠してない?」
 何もない宙空を眺めながら、草間は煙草をふかした。その、何やら隠し事があるような様子と、ゆっくりと灰になっていくタバコを見‥‥シュラインは、何週間か前の会話を思い出す。
「まさか‥‥退いて!」
 シュラインは駆け寄って、草間を机の上からどけると、ゴミと書類が入り交じって置かれた机の上に目を走らせた。
 そしてシュラインは、この草間興信所で働く内に悲しいながらも身に付いた、ゴミの中から重要な物を発見する卓越した観察力でもって、2通の手紙をすぐに発見する。
「これ‥‥」
 信じられない物を見たとばかりに手紙をつまみ上げるシュライン。一方で、草間はそれが自分の知らぬ物だとでも言うかのように素っ気なく呟いた。
「督促状だな」
 電気とガス料金未納に伴う督促状‥‥しかも、昨日今日に届いた物ではない。いつから放置されていたのか‥‥
 シュラインに心当たりはある。
 それは、最後にこの草間興信所に来た日。つまり、最後に草間興信所に収入のあった日。
 帰り際に、電気とガスの料金を振り込んで置くよう、確かに草間に言った筈‥‥
「何度も言ったわよね? 振り込まないと、止められちゃうわよって‥‥」
「いや‥‥まあ、な」
 シュラインに詰め寄られ、草間は歯切れ悪く答える。
「銀行には行ったんだが‥‥途中で、タバコを切らしてな。タバコ、まとめ買いしたら、手持ちを使いきっちまって‥‥銀行は今度にするかって引き返して‥‥まあ、そう言うことだ」
「そう言うことだじゃないわよ!」
 声を上げ‥‥でも、草間に怒鳴ってもあまり効果はないと思い直し、シュラインは声のトーンを落として言葉を並べた。
「‥‥どうするの? ガスはともかく、電気が止められたんじゃ、昼は良いけど夜になったら真っ暗よ? 唯でさえお客が来ないのに、そんな夜中に真っ暗になるような興信所じゃ‥‥」
「それよりもだ‥‥シュライン」
 言い募るシュラインを片手で制し、草間は酷く切実な表情で言う。
 その表情に思わず口をつぐんだシュラインの前、草間ははっきりと言う。
「腹が減った。何か食う物、持ってないか?」
「は?」
 驚きと呆れに声を漏らすシュラインの前、草間の腹が盛大に鳴り響いた。
「食える物が何一つ無いんだ。仕事の報酬が振り込まれるのは、早くても明日。で、三日前から水以外は何も食ってない」
「‥‥食費まで、タバコに注ぎ込んだの? 飢え死にする気?」
 シュラインは呆れて深々と息をつく。
 草間がタバコを吸っていると言う事は、最後の金の使い道はつまり、タバコに消えたと言う事。これを呆れずしてどうしろと言うのか‥‥
 しかし草間は、それは違うと指摘するかの様にシュラインへ言葉を返す。
「いや、コメがあったから、三日前まではそれに塩をかけて食ってたんだ。でも、電気がないと炊飯器が動かなくてな。ガスはもっと前に止まったし」
「呆れた‥‥ま、そんな事だろうと思っていたわ。本当は、もう少しましだと思ってたけど」
 そう言ってシュラインは、こういった事態を予想した、自分の準備の良さにも少し呆れた。
 この草間という男、放置しておけばろくな生活を送らないのだ。どうせ、バランスの偏った、酷い食事をしていると‥‥だから、来るついでに弁当を用意してきていた。
 考えてみれば、シュラインは雇われの身なのだからして、そんな事をしてやる義理もないのだが‥‥
 自分は酷くお人好しなのかも知れない。そんな想像は、シュラインの心を楽しくさせはすれ、決して不快にはさせなかった。
「お弁当、用意してきたの。食べるでしょう?」
「もちろんだ。今なら弁当箱まで食えそうだよ」
 言って、草間は小さくニヤリと笑う。面白いことを言ったつもりだったのかも知れない。だが、シュラインにはピンとこなかった。
 だから、草間を無視して事をすすめる。
「待ってて、今、用意するから‥‥それと、窓ぐらい開けましょうよ。空気も澱んでいるわよ」
 言いながらシュラインは、窓を開けて興信所の中に新鮮な空気を入れた。
 春とは言え、まだ少し冷たい風に草間は身を震わせる。飯抜きが祟って、体温が上がっていないらしい。
 草間は、冷たい風から逃げるかのように窓から離れ、テーブルの上に置かれたシュラインの荷物を手に取った。
 荷物は二つ。ハンドバッグと、薄紫の風呂敷に包まれた大きめの四角い箱。草間がとったのはもちろん箱の方‥‥
「これか?」
「武彦さん。行儀が悪いわよ?」
 窓の前で振り返り、シュラインが草間を睨む。その前で草間は、何ら動じる事もなく勝手に風呂敷を解いていた。
 風呂敷の中から姿を現した重箱に、草間は思わずにやけた笑みを浮かべる。
「豪勢だな」
「何日か分のつもりだったけど‥‥一日で無くなっちゃいそうね」
 草間のあまりの反応に笑みを浮かべながら、シュラインは皿と箸を出そうと、勝手知ったる台所へと足を向けた‥‥と、その背後を、黒い風の塊とでも言えそうなものが一瞬で通り過ぎる。
「え?」
「な‥‥何だ!?」
 直後、重箱がひっくり返る音と草間の悲鳴。そして、有る意味聞き慣れた動物の声が聞こえてくる。
「え‥‥カラス!?」
 振り返ったシュラインが見たのは、ひっくり返った重箱に首を突っ込んで中身を漁る、数羽の黒い大きな鳥‥‥カラスだった。
 恐らく‥‥いや、確実に、シュラインの開けた窓から飛び込んできたのだろう。
「こいつら‥‥俺の飯を!」
 言いながら草間は辺りを見回し、ソファの上に放置してあった新聞紙を手に取った。
 それを素早く丸めて棒状にするのを見て、シュラインは草間が何をする気なのかを悟る。
「待って! そんなのじゃ、逆に怪我するわ!」
 慌てて駆け寄ったシュラインは、草間の手の中の新聞紙の棒を掴み、今にもカラスに襲いかかりそうな草間を止める。
 カラス‥‥所詮、鳥ではあるのだが、実際にはなかなか強い生き物で、人間に怪我をさせるくらいは出来てしまう。
 そして、何より恐ろしいのは、カラスは非常に執念深く、恨みにおもった人間を追い回すことが‥‥と、
「‥‥ねえ、カラスに恨まれるような事はしてない?」
 ふと、嫌な予感に突き動かされて、シュラインは草間に聞いた。と‥‥草間は、新聞紙を握る手の力を緩め、シュラインとカラスから目をそらす。
「何したの?」
「‥‥腹が減ってな‥‥‥‥‥‥食えないかと思って‥‥石をな」
 シュラインの更なる追求に、重い口を開く草間。シュラインは深く深く溜め息をつく。
「‥‥呆れた。自業自得よ」
「焼き鳥に見えたんだ。悪いのは何もかも貧乏だよ」
 草間は言い返すが、その貧乏の原因はと言うとやはり草間ではないだろうか?
 そう言って草間を追いつめる事は簡単だったが、慈悲深くもシュラインはそうする事はなかった。
 シュラインと草間。無言で見守る二人の前で、カラス達は存分に弁当を食い荒らし、最後にチラとだけ草間に目をやって、開け放たれたままの窓から飛び立っていく。
 後に残ったのは、壊れた重箱と床に散乱した弁当の残骸‥‥
「‥‥‥‥」
「‥‥ダメよ。ちゃんと掃除するの」
 物欲しそうに弁当の残骸を見据える草間に、シュラインは一言いい置いて、掃除用具入れから道具を出すべく歩いていった。
 残された草間は、しばらく弁当の残骸を見ていたが、床に落ちたカラスの残り物を食べるのは流石に人間としてのプライドが許せなかったらしく、あきらめの溜め息をついてその場にへたりこむ。
 戻ってきたシュラインが、箒とチリトリで、手際よくその場を片付けていく。草間はそれを、未練がましく見ているだけだった。
 やがて‥‥残骸は全て片付けられ、応接セットと床もなんとか綺麗になった頃、既に日は落ちかけて興信所の中はだいぶ薄暗くなってきていた。
 窓から、すっかり赤くなった光が射し込み、部屋の中を赤紫に染めている。
「‥‥本当。真っ暗になるわね‥‥って、武彦さん。生きてる?」
 シュラインは、いつの間にか壁に背を預けて床に座り込んでいた草間に、掃除道具を片付けながら声をかけた。
「‥‥まあ、な。もう少し、いっちまってたら、お前を押しのけてゴミ箱の中のものに手を着けるところだけど‥‥幸い、まだ理性が残ってくれてるらしい」
「‥‥追いつめられてるわね。でも、どうしましょう。今日は私も持ち合わせはないし‥‥」
 何か、外で食事をおごってあげられれば良いのかも知れないが、残念なことに今日のシュラインはお金を持ってきていない。
「良いさ‥‥気持ちだけ受け取っておく」
 答えて草間は、幽霊のようにゆらりと立ち上がった。
「しょうがない。最終手段だ」
「最終手段?」
 訝しげに首を傾げるシュラインの前、草間はフラフラと台所に歩み入っていく。
 と、ややあって、茶碗に白い物を山盛りに盛って帰ってきた。そして、倒れ込むようにソファに腰を下ろすと、茶碗の中の物をそれを一摘みつまんで口の中に放り込む。
 ポリポリと音が響いた。
「‥‥固いな」
「当たり前よ。それに、お腹壊すわよ?」
 草間が食べているのは生米‥‥しかしまあ、他に食べる物もないのだから仕方がない。
「このままじゃ、腹壊す前に飢え死ぬ。それに、微かにだが飯の味もするからな‥‥」
 明らかに強がりだろう言葉を言い、草間は自嘲に頬をゆるめた。
 そんな草間の前、テーブルを挟んで向かいのソファにシュラインは座り、草間の前の生米に手を伸ばす。
「‥‥そうね。結構、生米も美味しいかも」
 生米を噛み砕き、草間に微笑を向けるシュライン‥‥草間は、肩をすくめて自嘲の表情を消し去ると、シュラインにニヤリと笑いかけて言った。
「だろう? けど俺は、お前のくれた弁当の方が確実に美味かったろうと思うがな」
「‥‥そう? じゃあ、明日こそはちゃんと御賞味いただかないとね」
 笑みをかわしあう草間とシュライン。
 日が落ちるに任せて暗くなっていく興信所の中、米を噛むポリポリという音が二人分、しばらくの間、鳴り続けていた。
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東京怪談
2004年04月21日

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