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『薄紅 』
矢塚・朱羽2058

 四季折々、世界に花は溢れている。それなのに何故、この春の桜だけがこんなにも胸に響くのか。薄紅の小さな花の集まりが、どうしてこれほどまでに人の心を浮き立たせ、逆に沈ませるのか。
 晴れ渡った空。満開の桜並木の下を、朱羽は1人で歩きながら舞い落ちる花びらを軽く手で払った。
 春は、別れの季節。
 そんな言葉がふと、脳裏に浮かぶ。
 咲き誇った後に、はらはらと音もなく散っていく儚い存在に、人との縁を重ねたのだろうか。言われてみれば、花びらは短い生に別れを告げ手を振っているかのように見える。
「……こんな風に……」
 不意に立ち止まり、手を翳して朱羽は桜を見上げる。
 こんな風に、別れを告げた人がいた。
 別れなければならない事情があり、別れなければならない理由があり、別れた人。
 それは、朱羽が朱羽ではなかった頃の、遙か遠い遠い記憶。
 他人が聞けば笑うかも知れないが、それは朱羽の前世であり、間違いなく、朱羽の魂に刻まれた記憶。
「………………」
 朱羽は目元まで垂れ下がった枝の花に触れて、その自分の手に笑った。
 決してごつくはないが、女性とは全く違う手。これは、前世では白い小さな手だった。柔らかさとふくよかさを兼ね備えた、女性の手。
 そして、その手に触れて誓ったのは男。
「逆ってのは、なかなか微妙だよな……」
 呟いて、朱羽は再び笑う。
 女性だった自分が今生では男性に。女性らしさの欠片もない存在になってしまった。
「でも、」
 姿形が変わっても、変わらないものは確かにあった。
 
 何時か、あなたの故郷の桜を見せてください。
 そう言った自分に、彼は笑って言った。
 一緒に見よう、と。
 素晴らしく美しい桜があるのだと言った。それを、2人で見ようと、彼は言った。満開の桜の木の下で、2人が歩んできた道程を笑い話にでもしよう。そう約束した。
 しかし約束は、花のようにあっさりと散ってしまった。
 叶えられなかった約束を胸にこの世に生まれた自分。
「こんな姿だし、一緒に生きた頃とは全然時代も違うし、」
 色んなものが変わってしまった。
「でも、」
 変わらないものは確かにある。
 人を愛したこと。人を大切に思ったこと。
 移ろい変わり行くものの中で、『想い』だけは確かに姿を変えず、心にある。
 ふわりと風に舞った花びらが、朱羽の頬に落ちた。
「………………」
 涙に似た花びらを指先で払って、朱羽は薄紅に染まった空を見上げる。
 空の蒼と、桜の紅。
 春は心を映す色。
 爽やかで華やかで、どこか物寂しい花曇り。
「泣いているようにも見えるんだな……」
 散る花びらは、別れを惜しんで流す涙にも似ていると、朱羽は気付いた。
 人を想い、流す涙に似ているから美しいのだと。

 立ち止まった朱羽の横を、小さな少女が駆けて行った。
 両手を広げ、花びらを捕らえようとしては歓声をあげる。
 あの少女の目には、桜は綺麗なものとしてしか映っていないのだろう。だからこそあんなにも無邪気になれるのだ。
 自分はもう、あんな無邪気さは失ってしまった。
 人を愛する切なさを知った日から、桜は美しいだけのものではないと知ってしまった。
 春は別れの季節。
 そのことを、いつかあの少女も知るだろうか。そして、幼い日の無邪気さを懐かしく思い出す日が来るのだろうか。長い時の中で誰かを愛し、季節が巡っても時代が変わっても、誰かを想う事だけは変わらないと知る日が来るのだろうか。
「惜別の時、か」
 最近よく耳にする流行歌を思い出して、朱羽はその歌の意味が今は誰よりも理解出来ると思った。
 人にはきっと、別れを告げなければならない時があり、別れを告げなければならないものがある。
 例えばそれは、『想い』。
 変わらないものだからこそ、どうしても固執してしまう。変わらないものだからこそ、忘れられない。
 けれど、決してそれに捕らわれていてはいけないのだ。
「あんたに教えてやれたら良いんだけど、」
 言って、朱羽は遙か遠い記憶の中の恋人を脳裏に思い描く。
「俺、今幸せなんだ」
 今生で、想い人との縁は叶わなかった。それはそれで酷く辛いことだった。けれど、今の自分には、共に歩いて行ける女性がいる。
 誰かの背を追い掛けたり、ただひたすら恋しく願うだけの存在ではなく、一緒に、同じペースで同じ時間を共有して歩いて行ける人がいる。
「幸せなんだ。だから、そろそろ卒業しても良いんじゃないか」
 
 さよなら。
「あんたが幸せなら嬉しい」
 さよなら。
「あんたにも、一緒に歩ける相手が居れば良いと思う」
 切なさを知った日から、愛しさを知った日から、随分と長い時が流れてしまった。
 一度知ったこの想いを、断ち切る事は出来ない。
 きっと、四季のように巡り、命のように巡り、何時か別の生を受けた場所で、再び出逢う事があるだろう。
 その日まで、この想いと暫し別れよう。
「さよなら」
 手を振って、歩き出す。
 澄んだ空に似た朱羽の心。
 それを映すかのように、舞降る花びらがピタリとやんだ。
 細い道に降り積もった薄紅の花びらは、何時か土となり再び美しく花を咲かせるだろう。
 今、別れを告げた想いも、何時か再び何処かで目覚めるだろう。
 その日まで、
「さよなら」



end
PCシチュエーションノベル(シングル) -
佳楽季生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月19日

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