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『緋色の片翼 』
影山・軍司郎1996



「なあおまえも今日、家に帰ったら俺んとこ来い。戦争ごっこ、仲間に入れてやっからよ」
 米屋の息子は幼馴染みで、少年とは対称的に父親譲りの大きな身体つきをしている。懐が深いのかただ単に大雑把なだけなのか少年には判断がつかなかったが、小学校の高学年になると彼はこの界隈の餓鬼大将となって子供たちを束ねる役目になっていた。
 放課後の教室はざわついており、後ろの方からはけたたましい笑い声が爆ぜる。その中で米屋はにかりと歯を剥いて笑いながら、待ってるからなと言い残して走り去っていった。
 残された少年は陰鬱な気持ちになりながら、風呂敷に教科書と帳面を包み込んでいく。学級の中で新品の教科書を与えられる子供は稀である。皆、兄や姉の下がりを使用するので所々に書き込みのある古びたものを使っているからだ。少年は長男であった。弟妹はない。
 陰鬱である。
 米屋が自分を、放課後の戦争ごっこに誘うのは何も今日が初めてではなかった。確かに、去年や一昨年は一緒になって遊んでもいたし(いつも少年は敵の兵隊役で、日本兵役の米屋や他の級友たちにやっつけられる役目だったが)、それができる環境でもあったのだ。
 だが、今年に入ってからはそうもいかなくなった。
 隣町で噂になっていた『赤マント』が、この町でも目撃されたからである。
 曰く、熊のように大きな身体をした軍服の男。
 曰く、帰還した日本軍になりすました大陸の男。
 ――曰く、日本語でも大陸語でもない珍妙な言葉を話す、緋色の大きな羽根の生えた男。
 決して少なくはない目撃証言は男のさまざまな様相を現してはいたが、おおまかに分別するとその三つに絞られるようであった。
「駄目よ、子供だけで危ないところに行くと、『赤マント』に攫われちゃうんだから」
「女子は黙ってろよ。俺たちはお国のために働くんだからな」
 そんなやりとりに、少年は背中で聞き耳をたてる。米屋の戦争ごっこに参加するらしい級友の男子たちと、女子の言い争いであった。既に都市伝説と化した『赤マント』の存在であったが、幾人もの目撃者が現れ、実際に神隠しにあった子供がいるとなれば学校も手を打たざるをえない。春ごろから、夕暮れ以降の子供のみの外出は禁止されている。
「私たち先生に言い付けるわ、行こう」
 鞄を抱えた女子たちが慌ただしく教室を後にしていく。
 その背中に隠れるようにして、少年も教室を後にしていった。



 少年の通う尋常小学校から、家へは歩いて二十分ほどである。
 夏が近づき、少しずつ日差しに力強さが滲み始めている。鮮やかな新緑が白い日差しに透かされる中を、少年は日陰を辿るように足早に家へと急いだ。古い寺のわき道を通り抜け、巨木の裏の割れた塀の下をくぐると小さな平屋の裏手に出る。家への近道だった。
「ただいま」
 開け放たれたままの勝手口で靴を脱ぎながら家の中に声を投げる。返事はない。
 勝手口に鍵が掛けられていないのは、母親が家にいないときの合図である。慣れた様子で少年は勝手口の鍵を下ろし、台所のシンクの上に置いてある芋の小皿を一瞥した。
『へやのあかりはつけないこと かぎはしめてください』
 平仮名ばかりで綴られた母の筆跡。もう母親の知る漢字の数を自分は追い越しただろうか、そんなことをぼんやりと考えながら少年は芋をかじる。
 ここ数週間、いつもそんな調子だった。
 ――『赤マント』は、次ぎはどこに現れるのだろうか。
 学校では、無秩序で危険な誘拐犯であるからと終礼のときに先生が級友の前で説明した。誰彼構わず連れ攫われてしまうのだから、夕暮れ以降は外出してはならぬ。マント姿の怪人が現れるのは夕暮れ時ばかりで、日本軍に配給される大きな外套を纏っている。ばさりと片手をあげて子供を外套の内にすっぽりと包んだかと思うと、既に包まれた子供の姿はないのだ。誘拐というよりはやはり神隠しに近い。
 今の少年は、教師や級友にくらべてさらにたくさんの、『赤マント』に関する情報を持っている。
 そして、この町で次ぎに『赤マント』が狙う可能性がある子供が、自分であると言うことも――少年は、知っている。
「……りゃ、やっぱり居らんのう。どこに行ったんだろか」
 瑣末な玄関の方で、数人の子供の声がした。芋の咀嚼をやめ、少年は息を殺して戸口を見つめる。
「もう向ったのかもしれんよ、俺らも早く行かなきゃ日本軍になれない」
 芋を握り締めて目を見開いたまま少年はじっと、遠くなる靴音を聞いていた。様子からすれば、三人ほどだったろうか。少年たちの権力構造の中では、おそらく少年よりも彼らのほうが幾分か立場は上である。今の米屋からすれば、彼らも少年もたいした差はなかっただろうが。
 畳の上を膝を擦り、そっと外の気配を伺う。彼らは既に遠く、今ごろは寺の向こうを小走りに駆けて『戦地』へと急いでいることだろう。
 モグリ。
 少年は再度、芋の咀嚼を始めながら鼻で大きく安堵の息を吐いた。母親が『教会』から戻るには、まだ時間がかかることだろう。いくら噛みしめても甘味のない芋を皿の上に放り、少年は風呂敷を掴んで奥の間へと潜り込んでいった。



 少年の中に、父親との思い出はない。
 物心ついたころから少年の家庭に父親の姿はなく、母の夜の稼ぎで母子二人はひっそりと生活していた。
「あなたのお父さんは、とっても立派なひと」
 母親の口振りからすれば、父親はどこかでどうやら生きているようである。だが少年がその先を問い訊ねると母親は決まって「ふふん」とか「さあねえ」などと言って、楽しげに茶を濁すのだった。
 大陸で殉死でもしたのなら、誇りにも思おう。
 遠いどこかの地で母子のために糧を得るために汗水流していると聞いたなら、納得もしよう。
 だが少年の中で、面影すら残らない父親の存在はひどく虚ろで、おぼろげすぎた。
 同じ年ほどの級友たちの母親と比べて、少年の母親はひどくうつくしく、なまめかしい。何かの拍子に、にこり――微笑むときには、息子である少年ですらぼうっとしてしまうような淫靡さである。
 そんなふうに笑んで少年を困らせるとき彼女は決まって、しなやかな弓のように下弦を描く薄いくちびるに紅を引いている。
 その艶やかさが、男としての少年の中にある何か深いものをぐっと掴む。
 母のうつくしさを、他の子供たちに羨ましがられることもあった。が、少年からすれば父親と母親が家に揃い、笑顔と威厳のある日本家庭に育つことのほうがずっと羨ましいと思う。まだ幼い少年にとって、たった二間しかない古びた平屋でさえ、一人で過ごすにはいささか広すぎるのだ。普通の家庭には、母がいる。父がいる。決して一人で薄暗い部屋に閉じこもらなくてはいけない道理はない。
 また少年の母親は、何か少年にも理解の届かぬ不思議な宗教を信仰していた。
 町の公民館を『教会』と呼び、仕事を休んで時折そこに行く。そして得体のしれない儀式や会合を行っては、その日の母親はいつにも増してつやめかしい光彩を放って帰宅するのだった。
 いつか「自分もその集まりに連れていってほしい」と母親にせがんだら、「あなたにはまだ早い」と言って笑われた。
 儀式や会合の中身などはどうでも良いのだ。
 ただ、一人で暗い部屋にいることが厭だった。
「これからはもう、学校から戻ったら家にいなさい。外に出てはいけません」
 いつもの会合で『教会』から戻ってきた母親が少年に笑いかけなかったのは、その日が最初だった。
「私たちの大切な儀式を阻む者がいます。あなたが人攫いに攫われては困る」
 アルコールとおしろいの香りをさせながら、少年をじっと見つめて母親はその日そう言った。頬がうっすらと紅潮している理由を少年は知らない。ただ、「ああもう自分は、兵隊ごっこに混じらせてもらうことができないのだな」と思った。
 今までよりもさらに家を空けがちになった母親を待って、少年は薄暗がりの中じっと丸くなっている。
 食べかけの芋にぶうんぶうんと唸りをあげながら蝿がたかっていた。
 それを払いのけに台所へ行くことすらが億劫で、少年は窓辺に微睡んでいる。



 夢をみている。
 母親が少年に背中を向け、台所で食事の仕度をしているようだった。
 朝陽の逆光が眩しくて、細めた眼差しでは何もかもがおぼろげである。甘く舌足らずな鼻歌は、おそらく母親が漏らしているものだろう。食事をするための膳の上には、小振りな握り飯がずらりと並べられていた。
「母さん、どこかいくの」
 夢の中で少年が、母親の背中に目を擦りながら問う。
「何をのんびりしたことを言っているの。今日は遠足に連れていって下さるって言ってたでしょう」
「誰が?」
「お父さんが」
 見ると、膳の前には先ほどまで見当たらなかった大きな姿があった。そして、やはりこちらに背を向けて新聞を広げている。「ついにやったか、ついにクーデターだ」彼は独り言にしては大きく興奮しきった声でそう叫び、あぐらをかきなおす。
 ――そうだった、今日は父さんが遠出をしようと言ったのだ。
 もそもそと少年は壁から背中を放して起ち上がり、奥の寝室から台所へ向けて歩いていく。
「なあ、このクーデターはな。父さんがやらせたんだぞ、すごいだろう」
 少年には、クーデターという言葉の意味が判らない。が、そう言う父親の声がとても歓喜に満ちて子供のようであったので、訊ねることが躊躇われてしまった。
 そう、父さんはすごいひとなのだ。
 父さんのすごさに比べたら、クーデターなんて言葉の意味なんてどうでもよくなってしまうくらいに。
「つまみぐいは駄目よ」母親の声がした。「向こうで食べるものがなかったら悲しいでしょう」
 そんな母親の言葉を尻目に、父親がひょいと卓上の握り飯をつまんで口に放り込んだ。それは咀嚼のいとまに生々しい血の香りをさせ始める。プッ、と部屋の隅に父親が吐き出したのは、ネズミの尾。
「これでこの国はひっくり返るぞ。みんなが慌てて、みんながみんなを信じられなくなる。すごいだろう、父さんはこんなに大きなクーデターを起させた」
 あまりに弾んだ父親の声に、少年もつられて嬉しくなった。父親の隣に腰を下ろし、一緒になって新聞を覗き込む。そこには、少年が尋常学校では習ったこともないような珍妙な文字が並んでいた。
「お前にもいつか、こんなすごいことができるようになるんだぞ」
 新聞の表面をぎっしりと埋め尽くしている細かな文字に――それは文字とすら呼ばないのかもしれなかったが――必死になって視線を走らせるが、やはり少年には何ごとが記されているのかなど見当もつかぬ。
 今まで一度も会ったことがなかったが父さんは、やはりすごいひとなのだ。
「あら、何を言っているの。お父さんはいつもここにいるでしょう」
 盆に載せた卵焼きを両手に、母親がにこにこと穏やかな笑みを浮かべながら膳に付く。「つまみぐいはいけないけれど、これは朝ご飯よ。お父さんもほら、食事の間は新聞を退いてくださいな」
 カンバセーション・ピース。
 そうささやかな、ごくささやかな家族の風景。
 ああそうだ、と少年は思う。父親の傍らで摂る食事にはしゃいだ少年は、握り飯に手を伸ばす。一口でパクリと呑み込んだ握り飯は口腔で生臭い血肉の芳香を放ち、嚥下するころにはごりごりとした軟骨の触感が口蓋の裏に残ってツバを呑み込んだ。
 父親は、そう。
 常に彼の、少年の許にあり、何も知らずに陰鬱な日々を過ごす少年の心の内すら楽しんで舌舐りをしていたのだった。
 二つめの握り飯に手を伸ばしたとき、

 目が醒めた。



「………」
 少年は壁にもたれてうたた寝をした体勢のまま、真っすぐに自分の目の前に右手を延ばしていた。
 もう少しで指を掠めそうだった白米の握り飯だったが、それを最後に口にしたのはいつのことだったか思い出せない。指先の向こうには、母親が大切にしている白い神棚のようなものがある。仏壇よりも少し小さくて、もっと軽そうな材質でできたものだ。夢の中の新聞で見たものと似た文字が、縁にびっしりと刻み込まれているのだった。
 今は、西日に照らされて神々しくも真っ赤に染まり上がっている。
 そこに、父親がいる。
 少年は漸く、そう確信した。
「――父さん」
 彼はよろりと起ち上がる。寝起きの蒼白であるはずのかんばせが夕日に染まり、冷たくこわばった指先までもが赤く染まる。
 母親が祀るこの異教の神棚の、その内部に秘められた己の父親を彼は思う。
 彼女は異界の何かと――それはおそらく、日本軍が辛勝した大陸の兵隊とも、海の向こうの違う人種の兵隊や人々とも違う、そう『何か』――交わり、自分という子を成した。
 自分の父親は、どこにも行きはしなかった。
 そう、常にそこに――自分とともに在り、母と共に在ったのだ。
「父さん」
 少年は今一度、そう口にした。
 そしてそれが、少年の最後の言葉となった。



 寂、と風が鳴る。
 夏が近いとは言え、日が傾けば空気は冷たく透き通る。耳を澄ませば、土中の蝉の身悶えすらが聞こえてくるような、初夏の夕暮れは秘められた生命力に満ちている。
 どこか遠くの民家の窓から、夕餉のみそ汁が匂う。影山軍司郎は彫りの深い陰鬱な横顔に影を落としながら、色あせた畳の上でくたりと折れ曲がった少年の姿を見下している。
 禁忌を犯す者は脆弱である。
 禁忌の果てに息吹いた新緑もまた、脆弱である。
 脆弱ゆえに禁忌の向こうへ足を踏み込むのか、禁忌に足を踏み込んだからこそ脆弱たりうるのか。
 影山にはとんと、想像がつかぬ。
『禁忌の番人』として、彼は異形とヒトとの間に交された契約の証――その子供を処分する。
 何度となく繰り返した同じ彼の行為の後で、そこには充足も余裕もない。
 ただ押し寄せるのは寂寥のみであった。
「………ただ、眠れ」
 虚ろに開かれた少年の眼差しは、静かに部屋の隅を見つめている。異界の住人を崇める信教の、信徒の証である祭壇をじっと見つめ、もの言いたげに首を傾いでいる。その首の脇はいびつな喉骨が突起を作っていた。影山が縊ったとき、クッと小さく乾いた音を立てて砕けた骨の欠片であろう。
 ――彼は、眠ることができるのだろうか。影山は内に思う。
 禁忌を破ったのは、今こうして自分の前で紅を吐く少年そのものではない。ともすれば、自分が禁忌の果てに在る存在であることすら知らずに生きていたやもしれぬ――この少年に限らず、今まで影山がその手で殺めてきた子供たちのどれかですらも。
 だが、そんな感傷や後悔が、己を何処にも運ばぬことを、既に影山は知ってしまっていた。
 影山は踵を返し、外套を翻す。ばあさと風を膨らます音とともに刹那、少年の身体を覆ったのは――夕日を受け、緋色に染まり上がった外套の裾。
 そして忽然と姿を消した影山と少年は、クーデターの後で勃発した大戦の後にも先にも、二度と人々の前に姿を現すことはなかったという。

『赤マント』の都市伝説は少しずつ成りをひそめ、今では耳にしたことがある者ですらごく僅かであると言う。

(了)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月14日

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