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『優しい暗殺者 』
眞宮・紫苑2661

【地下室にて】

 奇妙な客だった。
 女だった。恐らくは……女だった。顔ではなく、声ではなく、自らの感覚のみで、眞宮紫苑は、判断する。
 せめて鼻につく化粧の臭いの一つでもあれば、たとえ、ここが真の暗闇だったとしても、惑ったりはしないのに……。
 彼は、影の中に潜む気配に、敏感だった。巧妙に押し殺した醜い感情に、冷静だった。
 梟を凌駕するほどに夜目も利く。髪一筋の明かりもあれば、それで全てが識別できたはずなのだ。
 だが、女が……紫苑が女だと見当を付けたその人物が……待ち合わせにと指定してきた場所は、あらゆる光を排除した、深い、暗い、地下室だった。
 何も見えず。何も感じず。
 紫苑とても、漆黒の帳の向こうにいる人物が何者であるか、それを伺い知る手段が無かったのである。
「この女を、殺して欲しい」
 女が、言った。
 口を開けばはっきりすると思ったのに、声は、奇妙な機械音だった。ボイスレコーダーを使っているのだ。
 だろうな、と、紫苑は肩をすくめる。暗殺を頼む人間は、得てして臆病なのだ。自分が可愛くて仕方ないから、まずは、他人を排除する方法を選ぶ。
「ここに、三千万がある」
 どさり、と、重い音がした。
 女が、札束の入った袋を投げたのだ。袋は、佇んでいる紫苑の、ちょうど靴先に落ちてきた。それを拾い上げて、確かめる。間違いなく、三千万円が、あった。
「ターゲットの詳細は、その袋に入っている。引き受けてくれるのだろう?」
 紫苑は何も答えない。
 だが、この場合、沈黙は、肯定だった。
「契約の証だ。お前の持ち物を、何か一つ、私に寄越せ」
 女が、奇妙なことを、言い始める。
 無視しようかとも思ったが、好奇心が、何にも勝る。
 紫苑の仕事は趣味だ。それ以外の何ものでもない。興味があればタダ同然でも引き受けるし、気に入らなければ、五億を目の前に積まれても、無視する。
 金ではないのだ。では、何を求めて殺すのかと聞かれたら……。

「スリル、か」

 謎だらけだ。この世界は。
 大嘘つきと悪党が、そこら中に溢れている。
 だから楽しくて仕方ない。
 金ではないのだ。平凡を求めすぎる人間に、この感覚は、たぶん、一生、わからないだろう。
「受け取れ」
 声には出さず、呟いて、ライターを投げた。
 むろん指紋が残るような渡し方はしない。内ポケットから引き抜く際、上着で素早く表面を拭い取った。
「あの女を、殺して」
 念を押されること自体が、屈辱だった。
 紫苑は、やはり答えない。答える必要がないからだ。
 黒衣の暗殺者に、失敗は、あり得ない。





【標的】

 ターゲットの名を覚えても、紫苑は、それを、口にすることは滅多にない。
 どうせ命を奪う相手だ。言葉にする価値もない。覚えておくこと自体が、あるいは苦痛になる時が来るかも知れない。それは困る。それは、避けたい。
 だから、紫苑は、殺す相手を、標的と呼ぶ。弾丸を埋め込むための、ただの紙の的と見なして、そう呼ぶのだ。
「標的は……」
 若い女。バイオリニストだ。暗殺者に命を狙われるなど、普通に考えればあり得ない、美しいが物静かな娘だった。
 あるいは、才能が殺意を呼んだのか。人が人を恨む理屈など、適当だ。どうでもいいような事に腹を立て、どうでもいいような事に嫉妬する。
 ほとんどは、ただの我が儘なのだ。巻き込まれる方にしてみれば、溜まったものではない。

「可哀相だが、仕方ないな。これも仕事だ」

 バイオリニストには、四六時中、人が張り付いていた。
 毒殺は、手段としては面倒だ。やはり、銃を使って一思いに始末するのが、簡単だろう。
 哀れな標的への、せめてもの手向けに、人で溢れている場所での暗殺は、取り止めにした。あのいかにも大人しそうな女には、雑踏の中でのセンセーショナルな銃殺は、似合わないもののような気がしてならなかった。
 彼女は、ひっそりと生きていたいのだろう。道端の野花のように、目立たずに、静かに時を過ごしていたいのだ。
 バイオリニストという非凡な天職に就く者には、むしろ、その性格は、致命的に思えた。
 彼女は、いつも、何かに怯えているようだった。肩を縮め、背筋を曲げ、まるでそれが生まれながらの癖のように、おどおどと、他人を上目遣いに見上げる。

「何を、恐れているんだ?」

 ここに、暗殺者が潜んでいることを、知っているはずがない。
 眞宮紫苑を恐れているわけではないのだ。
 では、一体、何に?
 だが、それを知る前に、予想外に早く、最期の時は来てしまった。
 女が、夜の演奏会を終えた後、数多いる付き人を全て帰して、一人で帰路についたのだ。
 暗闇の中に、ほっそりとした人影が、足を踏み出す。
 紫苑が、その後に続いた。
 足音もなく、気配もなく、獲物を狙う獣のように、徐々に距離を詰めて行く。女は、まだ、気付かない。
 暗殺者は、殺意を、決して外には漏らさない。常に平静を装って、命を奪う。眉一つ動かさず……引き金を引くのだ。そこに、迷いは、何も無い。

「…………」

 立ち止まり、呼びかける。
 女の名前を。
 女が、振り向いた。
 不安も、危険も、感じることなく。

「……え」

 火を噴いた弾丸は、一発。
 白い上着に、鮮血の華が咲く。胸を撃ち抜かれた女が、ゆっくりと、冷たいコンクリートの上に沈み込んだ。驚いたような表情が、紫苑を見て、その瞬間、確かに微笑んだ。心の底から安堵したように、待っていた、と、呟いたのだ。
 かつん、と、固い音がして、何かが、女の上着から転がり落ちる。それは、紛れもなく、紫苑が依頼主に与えた、あのライターだった。
「まさか」
 紫苑が、倒れた女に歩み寄る。
 ライターの角が、歪み、ひしゃげていた。このライターが、弾丸の軌道を、わずかに逸らせたのだ。確実に即死を狙ったはずなのに、女は、まだ、生きていた。紫苑を見上げて、嬉しそうにその最期の言葉を紡ぐための時間が、まるで、神の奇跡の具現のごとく、与えられていた。

「私の、こと、覚えて、いますか?」

 女が、尋ねる。
 胸の血の染みが、その間にも、広がって行く。
 赤く。紅く……。
「お前など、知らない」
 そう、答えようとした。そう、答えようとして、だが、どうしても、出来なかった。
 紫苑は、仕事で、既に多くの命を奪っている。女も、子供も、それが標的ならば殺した。それが標的ではなくても、標的の周りに、女子供は、数多いた。いちいち覚えてなどいられない。
 彼には、この非現実の全てが、日常だった。感覚が違いすぎるのだ。
 女にとって、きっと、眞宮紫苑は、忘れ得ぬ存在だったのだろう。自らを殺してと、願うほどに。だが、紫苑にとって、女は、例えば車で通り抜けた街角の片隅に生えている草程度と、全く同質のものだった。
 けれど、眞宮紫苑は、嘘を付いた。
 自分でも、なぜそんな気になったのか、わからない。わからぬままに……答えた。恐らくは、女が魂の底から望んでいるであろう、その言葉を。
「ああ……よく、覚えている」
 
「私、病気が……もう……。治ら、ないから……それなら……貴方に」
 殺して下さい。
 女が、言った。
 苦しいの。
 女が、訴える。
「お願……い。痛い……痛くて……」
 血が、喉の奥から溢れ出す。
 致命傷だが、即死はしない。
 放っておけば、いずれ、必ず、死ぬだろう。このまま立ち去っても、仕事は完了なのだ。完了なのだが……紫苑は、銃を、もう一度、今度は女のこめかみにあてた。

「ありがとう……」
「自分を殺す相手に、礼を言うのか」
「殺してくれる人だから……礼を言うのよ」





【優しい暗殺者】

 女の病は、統合失調症だった。精神分裂病、と言えば、もっとわかりやすいだろう。
 二つの人格が、一つの体の中に共存する。共存しているうちは、まだ良かった。だが、後から生まれた危険な人格が、元いた自分を、やがて凌駕し始める。このままでは自分が消えると確信した時、女の意思は、固まった。
 
 そして、自分を殺してくれるなら、彼が良いと……。
 そう、思った。
 
「貴方は、きっと、覚えていないでしょうね。貴方が、かつて見逃してくれた、田舎臭い小娘の標的のことなんて……」

 眞宮紫苑は、標的を、いちいち覚えてなどいない。
 通り過ぎたコンクリートの地面の上に落ちている、塵程度としか、見なしていない。
 けれど、今日、二つの弾丸を埋め込んで彼が殺した女のことは、きっと、一生、忘れないだろうと……思った。
 その名も。
 その顔も。
 その最期の言葉も。



「殺してくれる人だから、礼を言うのよ」



「女を殺るのは、もう、しばらく、懲り懲りだ……」

 煙草を一本取り出して、はっとする。
 壊れてしまったライターの代わりを、まだ、買っていなかった。
 あのライターは、女にやった。
 気まぐれだ。
 そう……ただの、気まぐれなのだ。

「……飲むか」
 
 酒が欲しい。今夜は。
 友が欲しい。今、この時は。
 明日から、また、全てが同じく始まる。
 今日だけだ。
 今日だけは…………だから、喪に服そう。
 
 
 
 記憶の片隅に、永遠にも消えぬ小さな傷を、穿って逝った…………身勝手で寂しい女の、その最後の瞬間に…………。
 




PCシチュエーションノベル(シングル) -
ソラノ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月13日

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