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『雨、のち―― 』
香坂・蓮1532

 白い頬を、大粒の雨が打つ。
 一歩踏み出すごとに、重く濡れた靴が耳障りな音を立てる。
 昼過ぎから降り出した雨は一向に止む気配を見せず、天は鉛色の曇に覆い尽くされてしまっていた。
 それはまるで、閉ざされてしまった頑なな心にも似ていて。
「あ……れ……?」
 まだ体に不釣合いの大きなランドセルを背負った子供が、激しさを増してきた雨音の中、小さな物音を聞きつけ首を周囲に廻らせる。
 普段であれば、決して気付かなかっただろう程度の微かなそれ。しかし偶然にも子供が傘を手にしていなかったことが幸いしたのか。
「……どこ?」
 同年代の子供達よりも少しだけ遅い学校からの帰宅路。降り頻る雨ゆえに、人通りはほとんどない。辺りの様子を窺うその子供に時折すれ違う車が泥水を跳ね上げた。
 声の主を探して裏道に入る。歩く度に煩く鳴る靴音が邪魔と判断すると、子供は迷わずそれを脱いで片手にまとめ持つ。
「にゃー、にゃー?」
 か細い声。時々途切れがちになるのが不安で、真似て呼びかける。
 濡れてべったりと額に張り付いた前髪がわずらわしくて仕方ない。けれど癖のない柔らかな黒髪は、かじかむ手で何度かきあげても元に戻ってしまう。
「どこにいるの? ねぇ……どこ?」
 いつもはさくら色のぷっくりとした小さな唇が蒼紫に染まりつつも、声の主を探して呼びかけ続ける。
「にゃー……にゃー?」
 最初に聞き取った音を僅かに変化させ真似鳴く。その微妙な音程の変化は、子供が探している主の声を恐ろしいほど正確に写し取っていた。それはこの子供の音感が非常に繊細で、そして完璧なものである事を物語っていたのだが、この場にそれに気付く者はいない。
 ランドセルが雨水をじっとりと含み、子供の動きを妨げる。
 これといって自分にとって価値のある物が入っているわけではない。それならいっそ放り出してしまおうか、と思い付きその場にしゃがみ込む。
 と、視線の高さが変化して気付いた。
 民家と民家の間に出来てしまった偶然の隙間。大人一人がやっと通れるくらいの細道に、行き場所なく捨てられたゴミを掻き分け、つい最近人が入ったような跡。
 入り込むためにはやっぱり邪魔にしかならないランドセルと、手を塞ぐ靴を置き去りにして、子供は足元に構わず駆ける。途中、何か固いものを踏んだような気がしたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
 すっかり冷え切っていた子供の頬に、淡い紅が差す。
「――見つけた」
 路地の行き止まり、絵に描いたようにダンボールの中で。
 にぃにぃ、と鳴き震える一匹の薄汚れた灰色の仔猫。
 ぐっしょりと濡れた体は、もともと小さい体をいっそ哀れなほど小さく見せていた。
 しかし、そんな体の全身で。未来へ続く扉の全てを閉ざしてしまわんばかりの雨の中、仔猫は鳴いていた。

 捨てないで。見つけて、僕を。僕はここにいるから。

「だいじょうぶ……もうだいじょうぶ、だよ。僕が見付けたから」
 柔らかな曲線を描く腕を精一杯差し伸ばし、子供の姿を見ても鳴き止まない仔猫を抱上げる。
「もうひとりじゃないよ」
 上着を捲り上げ、その中に仔猫をそっと仕舞い込む。これ以上雨に当たらなくて済むように。体温を奪われてしまわないように、と。
「帰ったら神父様にミルクお願いしないと……」
 見上げた狭い空は変わらず重く暗い鈍色。まっすぐに落ちてくる水滴は、子供の小さな体を容赦なく叩く。
 この雨は何時まで続くんだろう? 不意にそう考えたが、それよりお腹の中でもぞもぞと動く仔猫の方が気になって、くるりと動いた子供の青い瞳はそんな疑問をするりと思考の外へと追い出した。


「ねこー! ただいまっ!!」
 自室の扉を、まさに壊さんばかりの勢いで開け放った蓮は、買って貰ってから一年少ししか経っていない割には汚れてしまっているランドセルをベッドの上に放り投げる。
 それと同時に、ベッドの下から飛び出して来たのは一匹の仔猫。
 先日蓮が帰宅途中に拾ってきたその猫は、蓮が預けられている養護施設の神父の粋な計らいで、拾い主と寝食を共にすることを許されていた。
 ともすれば他の子供たちにも波紋を起こしかねない処置の裏側に、大人のどんな思惑があるかは蓮には関係なく。ただ毎日、仔猫と一緒に過ごす時間が楽しみで仕方ない様子だった。
「ねこ、今日は何してた?」
 ひょいっと抱き上げたその体に、無数の綿毛を見つけ、蓮はふわりと微笑む。仔猫の毛からはほのかに土と太陽の匂い。
 そういえば養護施設に隣接している教会の裏庭にたんぽぽが生えていたっけ。
 鼻腔を擽る優しい匂いに、蓮は目を細めながら仔猫の毛に絡む綿毛を漉き取って行く。
 仔猫の方もそれが気持ちがいいのか、されるがまま蓮の膝の上でくるりと丸くなっている――かと思ったら、急に蓮の背中に登ろうとガジガジと爪を立てた。
「こらっ、ダメだって。高いとこがいいならこっち」
 まだまだ軽い仔猫をぽんっと頭の上に乗せる。一瞬、落ちると思ったらしく、慌てて蓮の頭にしがみついた仔猫だったが、暫くすると不安定なその場所でむくりと起き上がった。
「うわっ、くすぐったい」
 猫特有の器用さでしっかりバランスを取り、蓮の頭の上でペタペタと前足だけを動かす。触れるふにふにとした肉球の感触が、なんとも言えず蓮は破顔した。
 時間を忘れてじゃれあうこと暫し。突然、蓮が慌てた様子で立ち上がる。日差しはすっかり西に傾き、真横から子供らしい明るい色に彩られた蓮の顔を照らし出す。
「こんな時間! ねこ、おいで」
 机の上に、大事そうに置かれたケースを抱き上げ走り出しながらそう告げた連に、仔猫は「言われなくても」とばかりにその後ろを追いかける。
 一人と一匹が向ったのは施設内にある音楽室。
 置かれたグランドピアノの上に、部屋から持ってきたケースを置き、ポケットの中から取り出した複雑に曲ったワイヤーで鍵を開けた。それはまさに一瞬の出来事で、誰にでも出来そうに見えたが、勿論そんな筈はない。
 蓮だからこそ出来ること。
 そして、だからこそそれは今蓮の手の中にあるのだ――グァルネリ・デル・ジェスのコピー。子供向けの分数サイズとは様々な意味で異なるヴァイオリン。
「催促してるの?」
 弓に松脂をつけ終わり、蓮が姿勢を正したのを待ち構えていたかのように、グランドピアノの上の特等席に陣取った仔猫がにゃぁ、と鳴く。
 オレンジ色の光に照らし出された、仔猫の毛並みは薄い灰色。反射の角度では銀の輝きを帯びるその色に、蓮の心をかつて今自分が手にしているヴァイオリンの所有者だった人の姿が過ぎる。
「うわっ――危ないじゃないかっ」
 不意に仔猫が飛んだ。
 着地地点は蓮の頭の上。
 予想していなかった衝撃に、取り落としそうになったヴァイオリンをしっかと握り締める。何があっても楽器を落としてはいけない、そう蓮に文字通り叩き込んだのも――
「ひょっとして、心配してくれてるの?」
 蓮の頭上で仔猫がにぃにぃと鳴きながら、しきりに頬を摺り寄せていた。それはまるで陰鬱な世界に沈みそうになる幼い心を、自分の所まで引き上げようとする仕草にも見える。
「大丈夫だよ。ねこもいるしね」
 染み入ってくる触れた心の温かさ。
 例えそれが蓮にしか分からないものであったとしても。
「ほらほら、そこにいたら弾けないだろ」
 一度、ヴァイオリンをケースに戻して仔猫を元の特等席に戻してやる。そして一度深呼吸をしてからそっと手を伸ばした。
 足を肩幅に開き、背筋を伸ばし顔はまっすぐ正面を向ける。
 その青い瞳が何を思っているのか――それを窺い知ることは誰にも出来なかった。


「香坂って人形みたいで気持ち悪いんだもん」
 子供というのは自分と異質なものには顕著に反応する。しかもそれが集団になると非常に性質が悪い。
 遠慮なく指差しながら、担任に連れられイタズラの謝罪に来たはずのクラスメートに、そう面と向って言われたのは小学校に上がって間もない頃だったか。
 最初は他の子供たちとは一線を隔した整った容貌と青い瞳を理由に、もてはやされた。しかし周囲の騒ぎは何処を吹く風、とばかりに常に表情を変えない蓮の態度は、子供社会に急激に修復不可能な深い溝を作り上げる結果となる。
 それに蓮の生い立ちが拍車をかけたのは言うまでもなかった。
「お前、捨て子なんだろ。そんな顔してるから捨てられたんだ」
 心無い言葉にも、蓮は微塵の感情の揺らぎさえ見せない。やがて謗りの言葉さえかからなくなり、出来上がったのは与えられる餌は毒ばかりの、冷たい刃で出来た見世物小屋だった。
 その朝、登校した蓮を待っていたのは泥水で汚れきった傘。
 滴る水滴はそのままに、教室の端にある蓮の机の上に投げ捨てるように置かれていた。
 それが仔猫を拾った日、確かに朝は持って出たのに、学校から帰ろうとしたときには失くなっていた自分のものであることを認めた蓮は、何も言わずにそれを傘置き場まで運ぶ。そして何事もなかったように、雑巾を持ち席へと戻る。
 まだ担任教師の現れない教室の教壇付近で、くすくすと明らかな嘲りを含んだ笑い声が聞こえたが、それが蓮の心まで届くことはない。
 何もかもが上滑り。白く、そしてとても小学校低学年の子供が作り上げたとは思えない無表情という仮面の表面を、軽く凪いで行くだけ。
 しかし、それゆえに子供の残虐さは度を増して行く。
「あれ? いたんだ。ごめんな〜」
 言葉とは裏腹に、謝罪の響きを全く纏っていない声と共に、蓮の体が誰かに押され雑巾を手にしたまま、机に強く打ち付けられる。
 ぐらり、と揺れる視界と急激なバランスの喪失感。支えるものは何もない。
 軽い子供の体とはいえ、突然の反動は大きい。ぐらりと傾いだ机は、そのまま蓮を道連れに大きな音をたて床へと倒れた。
 撒き散らされるノートや文房具。倒れる時に無意識に手を庇ったのだろう、強かに打ちつけられた膝頭が、じんわりと血を滲ませていたが、それでも蓮は一人黙々と散乱したそれらを集め、机を元に戻す。
 誰も助けの手を差し伸べる者はいない。
 あるのは、冷笑と――何があっても表情を変えない蓮への落胆だけ。
 配布物のプリントや、持ち物がなくなるのは日常茶飯事。こんな風に物理的な損傷を被る事も決して少なくはなかった。
 けれど、どんな時も蓮は動じない。何が自分の身に降りかかろうと、感情をほんの一欠けらも外に表すことはなかった。
 笑わない。
 泣かない。
 怒らない。
 拗ねることさえ、ない。
 それはこの年頃の子供からすれば、決して『普通』と言えることではなく。最初は気にかけていた教職員でさえ、彼自身に問題があるのだ、と取り合わなくなってしまっていた。
 そこにいて、そこにいない。
 蓮はいつだって一人。
 そしてそれが当然で、そんなことで心を痛めることなどありはしないのだ、と微動だにしない蓮。
 青い瞳はどこまでも冷たく、淡々と自分の回りを映すだけの鏡でしかなかった。


「ねこ、ただいま」
 明るくそう呼びかけ、扉を開く。
 細い雨が降り出していた。
 午後三時を少しばかり回ったはずの空は、もう日暮れ間近のような昏い色。帰宅途中に天から落ち始めた雨粒は、養護施設の庭を彩る新緑の上でパタパタと軽い音を弾けさせている。
「ねこ?」
 いつものようにランドセルをベッドの上に放り投げる。
 しかし、仔猫は蓮の元へ駆けてこない。
「ねこ? どうかしたの?」
 不意に蓮の心に重い暗雲が立ち込める。呼応するように外界の雨も激しさを増す。風も出てきたのか、窓に叩きつけられる大きな水滴が、室内にまで大きな音を響かせ始めた。
 小さな体を折り曲げて、ベッドの下を覗き込む。
 なぜだか指先が酷く冷たくなっていた。それはまるで、あの仔猫を拾った日のように。
「……ねこ?」
 仔猫はいた、いつも通りベッドの下に。
 しかしぐったりと項垂れ、動かない。
「ねこ!」
 震える手を精一杯伸ばして、仔猫を抱き寄せる――あの日と同じに。
 けれど、仔猫は鳴かない。
 蓮の腕の中、浅い呼吸を繰り返す。
 伝わってくる鼓動は弱々しく。今にも掻き消えてしまいそうなその音が、何を意味しているのか悟り、蓮は色を失くした。
 小さな動物の体調は急変しやすい。
 そして一度弱ってしまった体に、完全な健康を取り戻すのは非常に難しい。
「ねこ……ねこ? ねこ?」
 そういえば、ここ数日で飲むミルクの量が少しづつ減っていたような気もする。
 誰か、助けて!
 僅かな望みをかけて神父の元へ走った。
 強い雨が世界の音を埋め尽くす。一呼吸の休符もなくかき鳴らされ続けるその音に、仔猫の心音が消されていく。

「みんな、僕を置いていく!」
 いつ夜になったのか、明確な日暮れが分からなかったその日。仔猫は蓮の腕に抱かれたまま静かに息を引き取った。
 低い空には星さえなく、導く光は何処にもない。
 最後に小さく「にゃぁ」と鳴いた気がしたが、五月蝿い雨音が仔猫の最期の言葉を奪い去ってしまった。
「ねこ、ねこ! ねこまで僕を捨てるの!?」
 最期まで名前らしい名前は付けず、「ねこ」と呼び続けていた蓮。それはひょっとすると、彼の感性が何かを捉えていたのかもしれない。
 置いていかれる、という未来を。
「どうして? どうしていつも僕ばっかり!!」
 小さな両手で隠しても、覆い切れない悲しみが次から次へと溢れ出して止まらない。指の隙間から零れ落ちる透明な雫は、ぽたぽたと冷たい床に命を宿さない花を咲かせた。
「……みんな……みんな、僕だけを置いていく」
 止まない雨も、心に深く根付いた凝りを洗い流すことは出来ない。逆に何も感じないようにと世界から遮断している心に、隙間を縫うように忍び込み孤独を蓄積させて行く。
 ほんの少し、心を許すたびに裏切られる。
 誰も彼もが自分を捨て去り、どこかへ消えてしまう。
 泣きじゃくるその下で、青い瞳は硬く凍て付いた。


「………、蓮……?」
 間近で誰かに自分の名前を呼ばれ、蓮は酷く重い瞼をゆっくりと押し上げた。
 最初に視界に飛び込んできたのは鳶色の眸。
 不安げな面持ちで、蓮の顔を覗き込んでいる。
「え……あ――」
 なんでもない、そう言って身を起こそうとした刹那、人の温もりを宿した布で頬を拭われた。それが自分の目の前の青年の寝間着の袖口であると認識する前に、自分が泣いていたことを知った。
 夢を見た。確かあれは8歳くらいの自分。
「大丈夫? 恐い夢でも見た?」
 蓮の眠っていたベッドに腰をかけ、青年が心地よい音程を紡ぐ。
 染み入る優しい声。
 何もかもを溶かしていく。
 その時になって、蓮は自分の手がふんわりと握り込まれている事に気付く。気恥ずかしさよりも、胸に到来するのは充足感。
 一人ではない、と教えてくれる今。
「あめが……」
 外はまだ暗い。
 夜明け前なのだろう、静かに馳せた視線の先でデジタル時計の表示が、いつも起床する時間よりまだ早い時間であることを訴えている。
「雨? あぁ、昨日遅くに降り出したみたいだけど。大丈夫、午前中には上がるよ」
 カーテンの向こう、静かに響く雨音が心をざわめかせたのか。ほんの一時、過去の夢の世界へ引き込まれかけた蓮の心――
「大丈夫」
 しかし、それは達せられる前に『ここ』に引き上げられた。
 一人ではない、そう蓮に教えてくれる人がいるこの場所へ。
 青と鳶色が絡み、ふわりと和む。

 見つけた。もう一人じゃない。

 雨の上がった空の下、青い瞳が何を見るのか――それを知るのは、もう一人ではないから。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
観空ハツキ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月12日

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