『名残り雪 』

守崎・啓斗（0554）

【出会い】

　雪が降る。
　ちらちらと、ひらひらと、まるで、過ぎる春に従い散り行く、桜の花びらのように。
　今は、三月。卒業の季節。間もなく出会いの四月を迎えようという今この時期、東京に、あり得ない雪が降る。
　名残雪かな。啓斗は、空を見上げて、考える。
　冬物の衣類なんて、もう、とっくの昔に仕舞ってしまったのに。また引っ張り出すのは、面倒だ。
　いや、今日だけか。心配する必要もない。名残雪は、すぐに消える。忘れ雪だ。明日には、きっと、晴れ間が覗いているのだろう……。
　外套の前を掻き合わせ、啓斗は、急いで、寒い雑踏を駆け抜ける。
　周りの人間たちも、啓斗と同じく忙しなかった。
　寒さに押されて、歩く。走る。
　その中で、啓斗だけが、立ち止まった。
　何なんだ、あいつは。
　訝しげに、目の前にあるものを、見つめた。

「おい……」

　深夜を迎え、店終いして閉じたシャッターの傍らに、子供が、膝を抱えて座っている。冷たいコンクリートの上に、パジャマの薄い布地に包まれた尻を乗せ、赤くなった素足をぺたりと付けて、じっと、小さく、蹲っていた。
「何やってんだ？」
　放っておけばいいのに、啓斗は、つい、声を掛ける。
　子供が、のろのろと顔を上げた。
　白い頬には、跳ねた血の痕が付いていた。普通の人間なら、それを見ただけでも、息が止まるほどの衝撃を受けるだろう。だが、啓斗は、顔色一つ変えずに、また、冷静に呼びかけるだけだった。
「何やってんだ？　お前」
　子供が、答えた。
「人を、探しているんだ」
「人？」
「もう、ずっと、探しているんだよ」
　でも、見つからないんだ。
　子供が、すっと立ち上がる。
　その途端、細い体が傾いた。受け止めた啓斗の腕が、熱を感じる。啓斗は、驚いて、子供の額に手を当てた。熱くて……すぐに離した。
「馬鹿……」
　こんなに冷え切って。
　一体、誰を、探しているのか？
　とりあえず、目が覚めるまで、質問は保留にしてやろう。罵るのも、もう少し、我慢してやろう。
　啓斗は、子供を抱え、歩き始めた。馬鹿と心で呟きつつも、自分の外套を惜しげもなく脱いで、子供を、しっかりと、くるんでやるのを忘れずに……。





【銀木犀の降る夜に】

　家に帰ると、誰もいなかった。
　弟は、また深夜に何処かをほっつき歩いているのだろう。毎度のことだが、こうも頻繁だと腹も立つ。熱で弱り切った子供を、看ていてもらおうと思っていたのに……。
　もちろん啓斗も出来る限りのことはするが、一人より、二人の方が、何かと便利に決まっている。戻ったら、きつく言い聞かせてやらなければ……。決意を新たにしつつも、あまり、効果があった試しはない。
　おかゆでも作ろうかと、啓斗は、立ち上がる。部屋を離れていたのは、ほんの数分の事だった。
　手際よく台所で必要なものを揃えると、鍋に火をかけ、客人の様子を見るべく、また踵を返す。客室の襖を開け、呆然とした。布団の中に、子供はいなくなっていた。
　つい先程まで確かに寝ていたはずなのに、敷布は、まるで氷を敷き詰めたように、冷え切っていた。誰かが休んでいた痕跡など、微塵もない。
「どこへ……」
　振り返った廊下の向こうに佇む、人影。
　啓斗が追いかけようとすると、子供は身を翻す。
　足音がなかった。気配すらなかった。啓斗でなければ追えないほどに、速かった。
　瞬きをするのも惜しんで、啓斗は走る。誘導されている、と、やがて、啓斗は、気づき始めた。気付き始めたが、込み上げる不安感を、あえて無視した。意思の力で凌駕した、と言っても良い。
　
　罠ならば、上等。ぶち壊すまで。
　本当に、何かが、求められているのなら……この目で、確かめてみるだけだ。
　
　どれくらい駆けただろう？
　啓斗をしても息が完全に上がってしまうほど、長い長い距離を、ひた走った。
　恐らく、隣の町に入ってしまっただろう。美しく整えられた、新興高級住宅街だ。街路の木の一本に至るまで、景観を崩すまいと、必死に身構えているような……気詰まりのする街並みだった。
　ここは好きじゃない。
　啓斗は、そう思った。
　何かが変だ。そう、感じた。
　本能だっただろう。
　隠された何かを、危険に対する天性の勘が、鋭く捉えずにはいられなかったのだ。
「助けて」
　子供が、囁く。
「見つけて」
　語りかけてくる。
　子供は、やがて、ある家の前で立ち止まった。
　この全てが真新しい景色の中に置いても、さらに堂々と存在を主張する、大きな家の前だった。子供はひょいと塀を乗り越え、向こう側に消えてしまう。啓斗も、迷わず、それに倣った。住居侵入、という、極めて現実的な犯罪が頭に浮かんだが、構うものかと、自分自身を納得させる。
「あ……」
　子供が、いた。
　銀木犀の、木の下に。
　秋を彩るはずの花が、不吉なほどに美しく、時季外れの今この時、艶やかに咲き誇る。香しく漂ってくる、銀の芳香は、紛れもない本物だった。
　月明かりもない闇の中で、風に舞うのは……雪か。花か。
「何……やっているんだ？」
　啓斗が、子供の頭を、くしゃりと撫でる。まだ年若いにもかかわらず、あまりにも多くの醜いものを見過ぎてしまった少年は、今、何が起こりつつあるのかを……既に、十分に、承知しているようだった。
　子供が、心底ほっとしたように、微笑む。

「長かった……長かったよ。お兄ちゃん。ずっと、待っていたんだ」
「ああ……そうだな。長かった。それに……苦しかっただろう」
「わかるの？」
「わかるさ」
「出してくれる？」
「そのために、探していたのだろう？　気付いて、そして、助けてくれる力を持つ人間を。あの、他人には冷たい雑踏の中で……」

　銀の花が舞い落ちる地面の上に、啓斗が、そっと、手をあてる。
　彼が無数に習得している様々な術の中で、使えそうなものを、選び抜く。
　ただ一言、啓斗が何事か呟くと、地面が、まるで、生き物のように波打った。
　破土の術だ。大地を衝撃で吹き飛ばす忍の技の一つである。本来は、敵の足場を崩すためのものだが、他の使い道もある。
　例えば……そう……地中深くに隠されている物を、一気に地上に巻き上げるような……。
　
「やっと、出てこられたな」

　闇空に、銀の花とともに散ったのは、まだ幼い子供の白骨死体。
　銀木犀の根が絡みつき、気の遠くなるような年月を経てもなお、藻掻くような姿勢を取り続けている、哀れな亡骸。

「外の空気は、どうだ？」

　軽いよ。とても。
　子供が、微笑む。
　泣き笑いのような顔になっていた。
　よかったな、と、啓斗が呟く。
　もう一度、頭を撫でてやろうか、そう思った時、子供の方から、啓斗の腰に抱きついてきた。体温のない体から、何故か、ぬくもりを感じたような気がした。
　
「ありがとう……やっと、僕……これで……」

　銀の雫が、ひらひらと、ひらひらと、舞い落ちる。
　名残雪だったのか。
　狂い咲きの花だったのか。
　どちらでもいいか、と、啓斗は思う。どちらであっても、もう、子供が、助けてくれと、冷たい街の片隅で、人を待ち続けることは無いのだから……。



　後日、啓斗は、あの家の主が、十四年と七ヶ月前、後妻の連れ子を虐待で殺したという事実を、知った。
　世間には、精神錯乱の気があるとして、子供がふらりと家出をしてしまったと、言いふらしていたらしい。殺した子供を、当時はただ広いだけだった空き地の、銀木犀の根本に、埋めた。花の傍らに埋葬したのは、弔いでも何でもなく、いつでも掘り返せるようにとの目印だったに過ぎないという。
　やがて、その土地が新興住宅地として売りに出されると、迷わず、買った。
　永遠に……いや時効が過ぎるまで……ひたすらに、隠し通しておくために。

「悪いことは、出来ないよな」

　クリーンなイメージで売っていたある議員が、時効間際の殺人で逮捕されたと、しばらくの間、新聞の一面を賑わしていた。


　
　

【名残雪】

　名残雪を見ると、啓斗は、時々、あの子供のことを思い出す。
　忙しない街の片隅に、無意識に、蹲っている子供がいやしないかと、目を向ける。

「何やってんだ？　お前」

　返事がないことを承知の上で、聞いてみる。

「人を、探しているんだ」

　そして、答える声がないことに、ほっとする。



「人を、見つけたんだ。助けてくれる、人を……だから、もう……」

PCシチュエーションノベル（シングル）

ソラノ

東京怪談

2004年04月09日