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『ゆくへもしらぬ 』
東雲・飛鳥2736)&丘星・斗子(2726)

 しののめ書店。
 その静かな店内には、東雲飛鳥が頁をめくる音だけが響いていた。
 十二畳ほどの狭い店内は、背の高い本棚で埋め尽くされ、また書籍の劣化を防ぐ目的で照明が抑えられているため、昼間とは思えぬほど薄暗かった。
 飛鳥はその店奥のカウンターに腰掛け、難しげな面持ちで手にしている本の頁をめくっている。
 暗い室内の中で、飛鳥の座すその場所だけがほの明るく見えるのは、彼の容姿のせいかもしれない。腰近くまで伸ばされた金色の髪がやんわりと闇を弾き、店主の姿を浮かび上がらせている。
 飛鳥の傍ら、カウンター台の上には、先日行われた古書展で仕入れた百冊近い古書や、その帰りに立ち寄った書店で購入した新刊書籍が所狭しと積み上げられ、主人に分類されるのを待っている。


(犯人はあの人だろう……。けれどどんなトリックを?)
 整った口元に手をやりながら、飛鳥は犯行の状況、容疑者たちの行動を思い浮かべるが、上手く全てを関連付けることが出来ない。──そう、飛鳥の手にあるのは今注目のミステリ作家の最新作だった。
 午前中は中世・近世文学に関する研究論文や資料に目を通していたのだが、いかんせん硬い文章ばかりでは肩が凝る。気分転換にとその本を手に取ったのだが、これはこれで飛鳥の頭を悩ませた。
「うーん」
 小さな唸り声とともに大きな伸びをすると、飛鳥は本を閉じる。
(ちょっと頭を冷やしましょうか。その方が解決の糸口を見つけられるかもしないし)
とりあえず掃除でもと思い、飛鳥はレジ横に立てかけてあった愛用のハタキを手に取り、立ち上がった──その瞬間。
「あ」
 身体をカウンター台にぶつけた衝撃で、もともと危ういバランスで積みあがっていた本たちが、バサバサと低く乾いた悲鳴をあげて床へと雪崩落ちていく。
「うわー、ちょっと待って」
 慌ててカウンターから出て状況を確認するも、予想以上の惨状に飛鳥は思わず額に手をやった。カウンター近くにおいてある希少本や豪華本の平台までも巻き込んで、本が床に散らばっている。
 早く拾い上げて片付けた方がいいとは知りつつ、飛鳥は自分の失態に呆然と立ち尽くしてしまった。
 その時、店のドアが客の来店をチリリと鳴いて告げた。


「東雲さん、とても悲愴な顔をなさっているから何事かと思いました」
 丘星斗子は、一冊一冊丁寧に埃を叩き落しながら本を拾い上げると、小さく笑った。
 斗子はもともと顔の造作の美しい女性だが、笑顔を浮かべるとその美しさに輝きが増すように飛鳥は思う。普段無表情であるためかもしれないし、飛鳥の欲目かもしれない。
 けれど普段凛として隙の見えない斗子が笑顔を浮かべると、それだけで彼女を包む空気が柔らかくなるのは確かだった。
「しののめ書店」の多いとは言いがたい常連客の一人である彼女は、今日も棚を覘きに来た所、惨状の目撃者となってしまったらしい。
「手を煩わせてしまってごめんね、斗子さん」
「いいえ。一人で片付けるよりも二人の方が早いですし。それにこのままだと本が可哀想ですもの」
 飛鳥の謝罪に静かに首を横に振り、黙々と本を集める斗子。同じように本を集めながら、飛鳥は視界の隅で、そんな彼女の後姿を追う。
 作業の間は邪魔になるからと簡単に結い上げられた艶やかな黒髪。覗く項は、髪や服装とのコントラストで一層白く見え、首周りを飾るプラチナのネックレスが時折煌いては人の目をひきつける。
 美しい、と思う。飛鳥でなくとも、十人いれば十人、皆が斗子を美しいというだろう。けれど飛鳥の目を、心を惹きつけて離さないのはその高潔な魂だった。彼女の魂から立ち上る香気が何よりも飛鳥の気持ちをそぞろにさせる。
 今の彼女は非常に無防備だった。手を伸ばせば届くかもしれない。手を伸ばしたら手に入るかもしれない。そんな考えが飛鳥の心の中に生まれる。
 飛鳥は斗子に惹かれている。前向きな彼女の生き方を好ましいと思う。けれどそれと同じくらいの強さで、飛鳥は斗子の魂そのものにも惹かれていた。
 どちらが先だったのかは飛鳥自身にも分からない。極上と呼べる魂を持つ彼女だから惹かれたのか、それとも彼女自身に惹かれたのか──。
 ただどちらにせよ、彼女を愛しいと思う。共に在りたいと思う。そしてそれと同じくらいの強さで彼女の魂を喰らってしまいたいとも思うのだ。
 ヒトである限り、必ず飛鳥よりも先に斗子は逝くだろう。だが、柔らかく温かな肌に手を伸ばしその魂を喰らえば、少なくとも彼女は飛鳥の血肉となり永い時を共にあることができる。彼女の魂はどんなにか甘美な味がするだろう。
 けれど同時に思うのだ。もっと彼女の笑顔を見ていたいと、これから彼女がどんなふうに未来を歩いていくのか、傍で見守りたいと。
 いつもその二つの感情たちの狭間で飛鳥は揺れている。
 どうする? 自分はどうしたいのだろう? 自問は常に胸のうちにある。


「……東雲さん?」
 不意に斗子が振り返り、心ここにあらずといった風情の飛鳥を困惑した表情で見上げてくる。首元のダイヤがまるで飛鳥の理性を呼び戻すように小さく煌いた。
「あ、ああ、済みません。どうかしましたか?」
「あの、こちらの本なんですけれど」
 彼女が手にしているのは、数年前に出版された、中世近世文学を専攻する若手研究者たちの論文集だった。斬新な切り口で既存の解釈を突き崩しているものもあって、なかなか面白かった覚えがある。
 刷り部数が少なかったのか既に絶版で、古書展で見かけた折に、斗子の興味をひきそうな本だと思って手に取ったものだった。
「斗子さんにどうかな、と思って仕入れてみたんですけれど、お勧めする前に見つけられてしまいましたね」
「読んでみたいと思っていたんです。あの……あとで拝見しても宜しいですか?」
嬉しそうに目を細め笑顔を浮かべる斗子に、飛鳥も微笑を浮かべて応える。
「他にも何冊か斗子さんのお役に立てそうな専門書を入れてみたんです。そちらと一緒にご覧になっていただいて……。そうだ、気に入ったものがあれば、片付けのお礼に何冊か差し上げますよ」
 床を見やれば散乱していた書籍はほぼ全て拾い上げられ、カウンター台の上にジャンルごとに細かく積み上げられていた。崩す前より整頓されている。
「いえ、頂けません。そんなつもりでお手伝いしたわけではありませんから」
「そうおっしゃると思いました。そうですね……、斗子さんのお時間が宜しければ、このあと棚の方に本を挿す手伝いもしていただけないでしょうか。いや、無理なら結構ですけれども。ちょっとしたアルバイトということで如何でしょう。報酬は本ということで。労働の対価としてなら……受け取っていただけますよね?」
 滔々とした口調で言葉を紡ぐ飛鳥に、斗子は小さく吹き出す。
「……分かりました。是非お手伝いさせてください」
 彼女の年相応な笑顔を見詰めながら、飛鳥はまだこのままで、と思う。
 自分の気持ちに答えを出すのに急ぐことはない。飛鳥には急ぐ必要などないほどの時間が許されているし、この力を持ってすれば彼女を手に入れることなどたやすいことなのだから。まだ、このままでいい。
「有難うございます、嬉しいな」
飛鳥は、斗子ににっこりと微笑んでみせた。




PCシチュエーションノベル(ツイン) -
津島ちひろ クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月05日

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