▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『遠く重なる幼子の声 』
雨草・露子1709)&蓮巳・零樹(2577)


 たすけてイタイたすけてたすけてタスケテいたいイタイイタイ―――――



 例年よりも早く咲いてしまった桜が、風に攫われ花びらを散らす。
 雨草露子は学生服に学生カバンといういで立ちで、薄紅色の景色の下をほんの少し怯えの混じる不安定な眼差しでひとり歩いていた。
 向かっているその場所で自分を待っているのは、けして嫌いではないけれど、どちらかといえば多分好きなのかもしれないけれど、でも時々ふと怖くなる存在だった。
 日本人形専門店『蓮夢』―――蓮巳零樹が営み、数多の人形たちが息衝く薄闇の空間。
 店主である零樹が良いと言うまでそこでバイトを続けること。
 それが、あらゆる人形師が匙を投げた母の形見を修理してもらった露子に対して、彼が代金のかわりに提示した唯一の条件だった。
 毎日じゃなくてもいい。でも顔を出さないとどうなると思う?
 そんなふうに、掴み所のない笑みを浮かべて発するあの人の言葉は、どこまで本気なのか今でも分からない。
 だが、どうしても逆らうことが出来なくて、結局露子は今日もこうして店に赴く。
 ずっと地面に落としていた視線を上げると、町並みを赤く染める夕焼けの中にしっとりと日本家屋が佇んでいる。
 からからと遠慮がちに厚い硝子の嵌る戸を引いて、その僅かな隙間から露子は中を窺う。
「失礼、します……あ、の……零樹…さん……?」
 だが、返事が返ってこない。
「………零樹…さん……?あの…?」
 足を踏み入れ見回しても、いつもそこで人形の髪を梳いている青年の姿はどこにもない。
 赤い光が窓ガラスを通して斜めに差し込む薄暗い店内からは絶対の静寂だけが返ってくる。
 艶やかな黒髪に縁取られた白い肌に着物を纏い、物言いたげにこちらを見つめる人形達の瞳に晒されながら、おそるおそる更に奥へと進んでいった。
「え、と……いない、ですか……?」
 ぎしぎしと床を軋ませる自分の足音だけが耳に響く。
「…どう、しよう……かな………」
 カバンを抱きしめてもう一度店内を見回し、それから露子は店の隅に置かれた小さなアンティークの椅子に腰掛ける。
 冷えた空気が足元から上がってくるような気がして、熱を逃がさないように身体を折って小さく蹲ってみた。
 いつ店主は帰ってくるのだろう。
 どれくらいここで待てばいいのだろう。
 何かしているべきなんだろうか。
 静寂に身を置く中で、何をするでもなく座っている不安といたたまれなさで、露子は少しずつ落ち着きをなくしていく。
 ことり。
「!?」
 突然の物音が、露子の心臓を跳ね上げた。
 反射的に身が竦む。
 続いて耳に届くのは、おそらく赤ん坊の泣き声だった。
 重く苦しく哀しく切なく、それは這いずるような音と共に向こう側から聞こえてくる。
「……だ、誰?……な、に……?」
 半ば濡れた瞳を彷徨わせながら、それでも露子は椅子に座ったままゆっくりと後ろを振り返った。
 確かめなければ、怖すぎる。
 だが、そんな自分の行為を後悔するのにそう時間は掛からなかった。
「―――――ッ」
 逃げようしてバランスを崩し、音を立てて椅子から転げ落ちた。
 悲鳴が喉に貼りついて声にならない。
 ずりずりと床を這いずりながら、ソレはゆっくりと自分の方へ迫ってくる。
 泣きながら、喚きながら、言葉にならない言葉を全身から発して露子に迫る這い子人形の顔は、あどけない微笑を浮かべながらどこまでも雄弁に憎悪を纏う。
 自分に向けて差し伸べられるどす黒く汚れた幼い手。
「……あ、あぁ……」
 床に崩れたまま、震える体はそこから逃げることが出来ない。
 死臭を纏う闇が濃度を増す。
 虚ろな視線。
 仄暗く浮かび上がる白い肌。
 ぬらぬらとした光を帯びて着物から滲み出、床に軌跡を描く赤黒い液体。
 濡れた絹の黒髪を幾筋も頬に纏わりつかせたおぞましい塊が一歩また一歩と距離を縮める。
 タスケテたすけてイタイイタイたすけていたいたすけてコワイコワイこわいたすけてイタイ
 明確な言葉としてソレを捉えることは出来ない。
 だが、人形の発する圧倒的な悲鳴は露子の精神を押し潰しにかかる。
 イタイイタイいたいイタイタスケテたすけてコワイいたいイタイいたいいたいイタイイタイイタイ――――
「た、たすけ……」
「あれ?なんだか取り込んでるみたいだねー」
「!!」
 目をそむけることも出来ず凍り付いていた露子の耳に、待ち望んでいた声が割り込んできた。
「……れ、零樹、さん……」
 何とか視線を人形から引き剥がし、戸口からのんびりとこちらへやってくる足音の方へ目を向ける。
 縋りつきたい衝動は確かにあるはずなのに、身体はやはり自由にならない。
 ただひたすらに、僅かに光の射すこの場所へようやく現れた青年を見上げることしか出来なかった。
「……あ、あの………ご、ごめん、なさいっ……」
 そして、反射的に口をついて出たのは救済を求める言葉ではなく謝罪だった。
 そんな自分を見下ろして、零樹はくすりと嗤って見せた。
「どーして謝るかな?キミ、僕に悪いことした?」
 赤黒い塊はまだ床を這いずっている。
 確実にこちらとの距離を縮めている。
 ソレが見えていないはずはないのに、焼け爛れた顔の日本人形を抱いた彼の表情はいつもと変わらず愉しげだった。
「あーなんだかすごいね。うん、すごいすごい。これはちょっとビックリしたかも」
 イタイイタイいたいいたいイタイいたいいたいイタイイタイイタイ――――
「……零…樹……さ―――っ」
 喚き続ける這い子人形が、突如自身を以って露子の頭を殴りつけた。
 不意打ちの攻撃に、身構える余裕などあるはずもなく身体はあっけなく床に沈んだ。
 床に額を打ち付けた拍子に、一瞬視界が暗転する。
 だが、十数年に渡って虐待を受け続けてきた露子にとって、それはたんなる衝撃に過ぎない。
 痛みなどなかった。
 本当ならすぐにでもソレを払い除けられるはずだった。
 にもかかわらず、依然自分の身体は這い子人形によって床に貼り付けられている。
 ぐっしょりと濡れて重みの増した物体とぶつけられる思いに圧し掛かられて、次第に露子は呼吸困難に陥っていく。
 どうしようもなく怖かった。
 錆付いた腐臭を放つぬるりとした液体が、人形から首筋を伝って頬まで流れてくるのが分かった。
 不快感で吐き気が込み上げる。
「そういえば、さ?どうして彼女が預けに来たか聞いてなかったっけ?……あ、そっか。あれきりしまい込んでたもんねー?」
 自分でない誰かと言葉を交わす零樹の声が、露子の耳に微かに届く。
「うん?うん…大丈夫。やってみるよー。仕方ないよねぇ、一応大事なバイトくんだし?」
 まるで感情のこもらない軽い口調で話し終え、彼が自分の前にしゃがみ込むのを、露子は狭い視界でかろうじて捕らえた。
「―――というわけで、ね?キミ、助けて欲しい?」
 張り詰めた緊張を逸らすような声を、露子へ向けて頭上から落とす。
 こんな状況にありながら、それでも平然と彼は問いかけてくる。
「………ご、ごめ…ん……な………」
「ごめんなさい、じゃなくてね?僕はキミに助けて欲しいかいって聞いてるんだけどー……ま、いっか」
 これから何が為されるのかまるで分からないまま、じっとうつ伏す露子に額を冷たい手のひらがすぅっと撫でて、そのまま人形に添えられた。
「…ちょっとの間、キミ、静かにしててよね?」
 耳元に寄せられた唇から、細く低く緩やかに囁きが紡がれる。
 上手く聞き取れないその言葉たちが、ゆるゆると自分の中にも浸透していく。
 聞こえなかった声が聞こえる。
 ―――――イタイイタイイタイイタイ………パパ………
 どくんと、露子の心臓が不自然にリズムを崩した。
 ―――――ヤメテヤメテやめてイタイたすけてイタイイタイこわいコワイ………
 自分の内側から同調し重なる声。
 ―――――………どう…して…………お…父…さん……
 意識が赤褐色の濁った世界に呑まれる。

 振り上げられる腕。大きな影。悲鳴――やめて――重なり、揺れる声と衝撃。
 煩い!だまらせろ!!やめて!ウルサイと言ってるんだ!あなた!!黙れって言ってるんだ!!あなた――――!!
 殴りつけ、叩きつけ、蹴りつけて、更に殴る。
 全身が痛みに支配される。
 ママヲイジメルナ イタイ ヤメテ ヤメロヤメロヤメロヤメロ――――!!
 ぐしゃりと潰れて視界を染めながら飛び散る赤い液体。
 悲鳴は断末魔に掻き消された。
 ぐしゃぐしゃぐしゃぐしゃ―――不吉な破裂音は更に続く。
 そして最後に、どこまでも深く重い沈黙が暗い部屋を満たしていった。
 あ、ああ……あぁ………
 虚ろな眼差しで母親が自分を抱く。
 時折倒れそうになりながら、赤い傘を指し、自分を抱いてふらふらと頼りなげに歩き始めた。
 どうしよう…どうしよう…どうしよう…どうしよう……ドウ…シ…ヨウ………
 繰り返し呟く母の声。
 どうして?
 どうして。
 そして―――踏切の狭間で母はその足を止めた。

「―――――っ」
 赤子の悲鳴に露子の悲鳴が重なった。
 空気を引き裂いて迸る声にならない声は、凶器となる前に冷たい手のひらで塞がれ、喉の奥に抑え込まれた。
「キミまでこの子に同調しなくていいんだよー」
 露子を覗き込んで、口を塞いだままにっこりと零樹が笑う。
「さてと、どうしようかな?預かってほしいって彼女に言われたけど、やっぱり取りに来ないしさ」
 イタイイタイやめてイタイこわいイタイどうしてどうしてどうして―――――
 人形の声はまだ露子の中でグルグルと渦巻いて、鋭敏な神経に爪を立てるように苛んでいる。
「うんうん、痛いよね。キミは守ってあげたかっただけなのにねー?ヒドイと思うよ、うん」
 なのに彼女は、我が子を道連れに死ぬことしか選択できなかった。
 愛してるのに、愛されていると思ったのに、裏切られてしまった。
 行き場のない哀しみと憎悪と愛情が、滴る血液と共に露子の中に流れ込む。
 早く終わらせてほしい。
 早くこの哭き声を止めてあげてほしい。
「でね、どうする?……え?ああ、うん……だよねー?ドウジョウは出来るけど、あんまりおイタをされるのも困りものだよね」
 露子の願いなどまるで聞こえないかのように、零樹は畸形の日本人形に語りかけ、頷きを返す。
「というわけで、ね?キミ、この子に食べられてくれないかな?」
 口を塞いでいた彼の手が、いまだ自分にしがみ付いたままの這い子人形へ伸ばされる。
 ずるり。
「あ、ああ……」
 力任せに引き剥がされて、人形の悲鳴はいっそう呪詛を込めて脳を貫く。
 重圧に軋む身体をゆっくりと持ち上げて、露子はこれから何が起ころうとしているのかを見る。
 人形店の店主が一体何をするのか、何が出来るのか、そして先程まで見ていたものは一体なんだったのか、混乱した頭では明確な答えなど出るはずがない。
 ただひとつ分かるのは、泣き叫び愛を求めるこの人形が零樹によって消されてしまうという事実だけだ。
「……れ、零樹…さん……あの、あの…ごめん、なさい……あの……」
「んー?なにかなぁ、バイト君?」
 口元に笑みを湛えたまますぅっと目を細め、零樹は膝をついたままの自分を見下ろしている。
 試すような嘲るような愉しむような不可思議な微笑に晒されて、露子は一瞬言葉を飲み込んだ。
 だが、耐えられずに床に落としてしまった視線をもう一度彼に向けて、そして精一杯の願いを言葉に代えた。
「……あの、この子……け、消さないで、下さい………」
 露子はべっとりと腐臭を放つ血にまみれながらも、零樹に掴まれている這い子人形へと華奢な手を伸ばす。
「…こ、この子を……お願い、します……」
 イタイイタイたすけてイタイコワイドウシテドウシテドウシテドウシテ―――そう叫ぶ声は自分の中で鳴り響く音にとてもよく似ている。
「……ぼ、僕…何でも、します…から……だ、だから、あの」
「ふうん?何でも?」
 始末してしまうよりもずっと好奇心を満たしてくれそうだとほくそえむ零樹の意図を汲み取れないまま、露子は静かにコクリと頷いた。
「……………はい……」
「ふうん……ふうん?じゃあ、ソレはバイトくん預かりにしようかな?……ねえ、いい案だと思うんだけど、どう?………そうだよねー。いつでも出来ることは今しなくてもいいよね?……ん、じゃあ決定」
 露子には聞き取ることの出来ない日本人形の声に言葉を返して、そして零樹は掴んでいた這い子人形をすとんと露子の腕の中に落とした。
「というわけで、キミ、面倒見てよね?」
 そしてどんなふうになるのか、僕に見せて、愉しませてね。
 そう言外に告げる零樹の言葉は、露子には届かない。
 まるで糸が切れたように動かなくなった人形をじっとみつめ、そして、強くそれを抱きしめた。
 こうしなければ壊れてしまう。
 こうして守らなければ砕け散ってしまう。自分も。この子も。
「…………僕が……」
 母の形見と一緒に、いつまでもずっとこの腕の中に抱いてあげる。
 赤い光の中で蠢き、襲い掛かられ、押し潰されそうな重圧と恐怖に捕らわれていたにもかかわらず、露子の心を占めるのはただその想いだけだった。


 過去から上がる悲痛な声は、今もずっと耳の奥で鳴っている―――――




END
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
高槻ひかる クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月05日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.