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『竹に想ひて 』
ぺんぎん・文太2769


 不意に枯草に躓いて、危うく前のめりに転倒するところであった。
 均衡を崩した際、小脇に抱えた檜の湯桶の中身が大きく揺れて、拍子、内のひとつが草叢に音も無く落下する。ああ、と思うより先、見失う前にと、屈んでそれを拾い上げた。

 煙管、である。

 雁首と吸口の金色に、細かく無数に刻まれた疵も、羅宇の深い茜の色合いも、長き月日に培われたもの。何とも言えぬ趣のある。
 ふと、それに僅かに土が付着したのを見て取って、傍らの竹に、タンと打ち付けた。柔らかな土は容易に落ちる。
 ――竹か。
 己が今煙管で打ったのが竹であると認識して、ゆるりと辺りを見渡した。
 そして漸く、其処が竹林であると知るに至る。
 しかし何故自分の足では歩き辛い林の中を進むことになったのか、その経緯はとんと分からぬ。否、憶えておらぬだけなのだが、特に困ることでもなし、常のことよと、再び足を前に運んだ。
 ざわり、ざわり、高みの風は荒れている。
 ぱらぱらと葉は舞い落ちて。しかし風音は遠く、地に近い此方は気の流れも緩やかで静かなものである。
 求める湯の気配は全く無いが、人にも動物にも会いそうにない。
 すると不思議なもので、頭をちらつくのは数少なき――記憶、であった。

 時は、と、忘れ易き性質にて明らかにこれとは示せぬ。されど生を受けて――果たしてこの表現が我輩に適するのかは甚だ疑問であるが――それほど間を置かぬ時であったように思う。
 記憶にある其処はやはり、

 一面の竹。


 ***


 カン、カンと。
 何処か間の抜けた音が林に響いた。
 それを聞き、縁側だな、縁側に居るなと思いつつ、文太はのんびりとした足取りで前方に見えてきた庵を目指す。
 着いてみれば予想の通り、庵の縁側にだらしなく寝転ぶ男が一人。
 その両目は閉じられているが、銜えた煙管の先、すうと煙が細く昇る。先程の音は灰吹きを打った時のものであろうし、ならば男は起きているのだろう。
「……よう」
 ちらり、片目だけを開け、男は一言。
 文太も「おう」と返し、抱えていた湯桶を男の傍らに置くと、自身もひょいと飛び上がって見事に縁側に着地してみせた。そうして手拭いで汚れた足を清めていると、
 ぺしり。
 突然頭を叩かれた。
「……なんだ」
 男は何やら唸りながら、横になったままで文太の頭をわしゃわしゃと撫ぜる。
「うーん、長谷さんとこか?」
 ああ。
「よく分かったな」
「毛が濡れてるし、まだあったけぇしな」
 湯だ。
 庵に風呂は一応設えられてはいるが、火が入れられるのは陽が落ちてからで、何より温泉好きと云う文太は時折周辺の宿へ風呂を借りに行くのである。因みに長谷とは此処から一番近き湯治場で、目の弱い老夫婦が切り盛りしていると聞く。
「その様子じゃ、見付からなかったみてぇだな?」
「ちょうど客が入ってきたところで上がった。後姿を見られたやもしれんが、そこは露天よ、湯煙よ。黒い物が山に戻るのを見たって、動物だとしか思うまい」
 もう止せと文太が男の腕を払うと、男は徐ら起き上がった。
 そして煙管の灰をトンと落としてから、じいっと文太の頭から足の先までを見て、言った。
「動物……やっぱり鳥か? 鳥にしちゃあ、ちょいとふくよか過ぎねぇか。飛べそうにもねぇな、おい」
「失敬な。飛べそうにないのではない。元々飛べないのだ。飛べるようには出来とらん」
「しかも喋るしよ」
「それもやはり、元から喋るように出来ているのだ」
「変わった奴だよな」
「お前に言われたくない」
「ハ、違いねぇや」
 ニィ、と口端を上げ、男は笑った。
 男との出逢いは庵の庭先――さて、庭があったかは定かではないが、兎に角庵の前を或る日通り掛かった折、やはりその日も縁側で寝ていた男に「おい」と声を掛けられた次第。竹林に庵を結ぶこの男、世捨人と云ったところか、周辺の地理にも人にも明るい癖に交流は持っておらぬようである。
「なあ、文太よ」
 呼び掛けに、視線を遣るだけで応える。
「お前って何モンなんだろうな」
 それが問いの言葉であるのか判じかねて、文太は僅かな間の後、
「……もののけだ」
 小さく、答えた。
 先程変わり者と称したが、男以上に文太は特異な存在には違いない筈である。手拭いを掛けているのは腕ではない翼であるし、背丈は男の膝の辺り程にしか達せぬ。全身を覆う体毛も白か黒――これは触り心地が良いと言われたが、先ず以て人間には見えず、何方かと云えば動物の類であった。男に言わせれば先の通り「喋りやがる飛べそうにもない鳥」らしい。
「物の怪って奴ァ、あれはヒトに悪さするもんだろ」
「何度も言うが我輩は湯煙を求めてだな、」
「分かってらぁ。何かされるンならとっくにしてるだろうしな」
 トン。
 復た一打ち。
「……でもよ、これからもお前は流れてくンだろ?」
「湯煙求めて、」
「莫迦の一つ覚えかよ。まあ、そういった心持ちなのはよく分かった。だから、」
 不意に言葉が切れる。
 真に信じているか否かは別として、文太がもののけであることを承知の上で、男は庵に置いてくれた。
 ――これ以上に、何を求めろと云うのか。
「潮時か?」
「いや、そうじゃねぇ」
「どうせ流れてきた身よ。また流れるだけだ」
 言葉を選ぶ様子の男にそう切り返し、
「我輩もな、そろそろかと思っていたのだ。ここらじゃ、たまに黒い、いや白い、ぷっくと太った動物が。これが鳥だとか、猿だとか、まあ色々だが、それがよ。湯に浸かってるって噂が立ってる。するとこれが面倒だ。見張りでも置かれちゃ、ゆっくり入れんだろう」
 縁側に共に腰掛ける。
 しっとりとした毛並みとこの体型では些か座るのには難儀する。幾度か腰――何処が腰なのか分かり辛いがまあその辺りだ――を浮かせて安定の良い角度を見付け、ようやっと落ち着いた。
 ふうと息を吐いたところで、
 ぺしり。
 頭を叩かれた。二度目だ。
 しかも今度は煙管でと来た。力も先程より強いように感じる。
「……なんだ」
 この問いも二度目だ。
 併し男は答えない。
 視線すらも文太を捉えてはおらず、竹林の方、それも見詰めているようにも見えぬ。何処を見ているのか。否、何処も見てはいないのだろう。文太もそれ以上に訊くのは何やら躊躇われて、手持ち無沙汰、肩に掛けた手拭いを湯桶へ抛った。水を含んだ布はびたりと見事桶の中。端が少しばかり桶の縁を食み出して、風にぱたぱたと頼りなく靡いている。
「……やるよ」
 ふと落とされた呟きの意味は。
 文太は質そうと男を見上げて、
 べし。
 何かが顔面に命中した。
 痛い。
 両翼で顔を覆うも、丁度ど真ん中に中った模様、打った処に如何にも届かぬ。
 やがてゴトと何かが床に落ちた音。
 見れば男の愛用の茜色が。

 煙管、である。

「どうした、これは。餞別か」
「まあ、そんなもんだ」
「お前のは」
 見上げ、男の手許には別の、新しい一品が在るのに気付く。
「それはコイツより短い。お前さんにゃ、それでも長ぇかもしれねぇが、」
 落ちたままの煙管を取り、器用に文太に持たせた。
「なかなか似合うじゃねぇか」
「そうか?」
「おう」
「痛かったぞ」
「力の加減を誤ったな。物の怪なら避けてみせろよ」
「無茶を言うな」
「あとはそれだな」
「なにがだ」
 男は文太の嘴を爪弾く。
 文太は弾みで他方へ倒れ掛けたが、ぱたぱたと翼を使い何とか持ち直した。
 男は、笑っている。
 ――成程。
「それは心配しているのか」
「そのつもりだが?」
「やはりもののけであること、覚られるとまずいか」
「まずいということじゃねぇがな。ただ、面倒なことになるだろうとは、思う」
 ふむ、と文太は手許――翼であるが――の煙管に視線を落とす。
 男が使用していた物だが、まだまだ充分使えそうだ。この先、一体如何程の時を共にするのかは分からぬが、どうせ行く末定まらぬ一人旅である。供には嵩張ることなき良い品だ。
「変わった動物だな、で済まされることもあるだろうが……そうだなァ、いっそ喋らねぇってのはどうだ。それなら動物で通じるかもしれねぇな」
「喋らない、か」
「ま、あまり煩ぇことは言わねぇよ。お前さんの好きにしたらいい」
 男はそう言ったきり、旨そうに煙を呑んだ。
 傍らで文太が煙管を弄るのを見ると、盆を引き寄せ刻みの煙草を火皿に詰めて、火を入れてやる。炎は小さく赤く点り、ゆらりと燻りて棚引いた。
 煙の流れを何気なく追う。
 じわりと宙に馴染む消え様。
 そして。


 ***


 滲む。

 頭に乗った葉を払い落とし、遠く山の端に沈み掛ける夕陽の眩しさに、挙げた翼をそのまま翳した。
 ――あの後は、どうしたのだったか。
 記憶を凝らすが庵の柱や、此処と変わらぬ竹林の風景がぼんやりと。それでもこれだけ憶えていたのかと、我ながら驚いた。
 この先も忘れずにいられるとは限らぬが。
 或いは、湯桶に容れられた煙管を見る度に、吸う度に、思い出すものなのかもしれぬ。
 射す朱色が玄に呑まれゆく気配の近さに、歩を速める。
 やがて竹林を抜けた先に幾つかの灯り。
 湯は在るか。湯は在るか。
 そればかり。
 ざあと竹林から吹いた風に、背を強く押され。
 ぺんぎん文太は湯煙求めて今日も、往く。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年04月02日

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