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『さくら邂逅前線 』
海原・みなも1252)&ラクス・コスミオン(1963)

 春眠暁を覚えず。
 そんなことを、昔の酔いどれは口にしたのだと言う。
 確かにその通りである。
 庭はぽかぽか、心はうきうきである。
 お酒の一口でもすすって、桜を見ながら陽気に惑うのも悪くない――
「なんて、考えている人もいるのですね……」
 呼んでいた漢書から目を放したラクス・コスミオンは、窓から指す陽日に眉を伏せた。
 どんな世界でも、ことの始まりは春である。
 自らがかつて暮らしていた場所でも、春は他の四季に比べて、それなりに特別な意味を以って迎えられる季節であった。
 だが、そんなことは、ラクスにとっては、あまり関係が無かった。
 彼女にとっては、春は戦々恐々の季節である。
 呼吸をするように書を解く者にとって、蔵書に大きな動きが起こるというのは、やぶさかでは無い。
 古く朽ちた本が消えて行き、新たに見出された本が顔を出してくる。
 町の図書館からインターネット上のアーカイブに至るまで、どこでも行われる儀式――棚卸し。
 ……消えそうな本に、目星をつけておかねばならない。
 そう、ラクスは考えている。
 それは緊張を強いる作業である。
 それなりに使いこなせるようになって来た、パソコンに寄る探索は、あまり人前――特に男性の前に出ることを好まないラクスにとって、鬼子のごとき手段だった。
 手軽な反面、足で稼いで初めて分かる要素は、そこからは排除されてしまう。
 それでも、電脳上からその本の確保が出来るのであれば、それに越したことは無いのだった。幸い、資金にはこと欠かない。
 負うリスクよりも、得るメリットの方が大きい。それをラクスは分かっていた。
 しかし、いつまでも、PCの自動検索に頼っているわけにも行かない。
 彼女の求める書は、書店の本棚にも、電子の海にも浮かんでいる。
 つまり、どこにでも有りえるということ――
 ラクスはため息をついた。
「……?」
 まさにつき終えたその時に、それは差し出された。
「いかがですか?」
 カップから漂う湯気の向こう――万蕾(ばんらい)のごとき微笑みに、ラクスは思わず頬を染めていた。
 恥ずかしかったわけではない。それは、愛らしいものを目にした時に、それを解するものならば必ず浮かべる、そんな"照れ"であった。
 季節は春を迎えていた。
 
  ◆ ◆ ◆
 
 海原みなもはご機嫌であった。
 家事と家計にてんてこ舞いなバイト少女にとって、その仕事はまさに僥倖であった。
『春休みの間、住み込みで洋館の家事、及び管理』
 登録していた使用人派遣会社から通知を受け取った時に、あまりの嬉しさに、コミックのように素で飛び上がってしまったほどだ。
「やった! やった! やったぁ……ッ!」
 洋館の主が、旅行のために家を空ける。
 その間、同居人が不慣れなので、住み込みでお世話をして欲しい、とのことであった。
 住み込みということは、相手方の家にいなければならない、ということである。
 相手方の家にいなければならないということは、自分の家にいなくてよいということである。
 自分の家にいなくてもよいということは――楽が出来るということである。
 ……いけない、いけない。
 少女はもちろん自戒したものである。
 しかし、喜ぶのも無理は無い。
 この仕事を持ってきた使用人派遣会社は、古来より行われてきた『メイドを斡旋する』ということを現代に継承して来た、紛うこと無き本物の"メイド"を扱う会社であり――
「住み込みでメイドさんやれる……ッ!」
 少女は無意識コスプレバイト少女であったからだ。
 母(はは)さまに、事情を話さなくちゃ――そう思うみなもの心は、晴れやかだ。
 どんな風にごまかそうか、なんてことは考えない。彼女は真面目な娘である。
 だから、結果的にそういうことをしなければならない、と言うことに気づいていない。
 が、ともあれ。
 お屋敷メイドの大義名分は成った。
 チェストの奥に眠るメイド服を取り出し。ぎゅうと抱きしめて一回転半。
 海原みなもの楽しい春休みは、この瞬間に約束された。

  ◆ ◆ ◆
 
 その湯呑みからは、春の匂いがしていた。
 ……ストローが差さっている。
 ラクスは、使用人の表情を、それとは気づかれないように、そっと見やった。
 にこにこと微笑んでいる。
 ……何が楽しいのだろう?
 ラクスはちょっぴり考えてみた――よく、わからなかった。
 まさか、メイドをやれているから楽しい顔をしている、なんて解答に、その線ではちと薄識なラクスが辿り着くはずも無い。
 それでも、微笑んでいるのは、彼女にとっては好ましいことだった。

  ◆ ◆ ◆

 ラクスは、みなもを知っていた。
 禁忌を秘めた書を捜す過程で、今まさに目の前でメイドをしている蒼い髪の少女は、幾度と無くその身を書に取り込まれかけていたのである。
 少女の危機をその度に見据え、その度に心を砕いていたラクス。
 屋敷の主が不在である故にやって来た使用人が、その少女であったものだから、その時は素で驚いてしまった。
 己の気高き姿――彼女の知るところのバステト女神ほどでは無いが――美しき四肢と翼を対象にとって『当たり前のモノ』と認識させる魔術を、思わず施せなかった程だ。
 しまった……ラクスはそう思った。だが、客人はにこ、と笑みを一つ、言ってのけた。
『海原みなもです。お世話させて頂きます☆』
 ……ラクスは彼女の声色に、星を見たような気すらした。
 興味本位で最近読んだ、コミックの最終巻に、

 『出会いは引力であり、それがすなわち運命である』

 と書いてあったのを、ラクスはトンデモの類――もちろん、彼女としての単語はもっと重く、そして正確である――と受け取っていたのだが。
(これはなんとも)
 しかも、向こうは自分のことを知らないようだ……
 
 ◆ ◆ ◆
 
 不慣れな同居人、そう事前に聞かされていたみなもであったが、事は思いの他、スムーズなものだった。
 確かに同居人は不慣れだった。
 人間の姿をしていない者が、人間の住む場所で暮らすのは、中々難しい。
 犬や猫ではないが、同じ四つ足であるラクスを見て、みなもが感じた問題の種はそこだった。
 だが、実際にラクスの立ち回りを見て、その考えは早々に改められることになった。
 人間とさして変わるところは殆ど無い。
 しかも、その振る舞いは理知的で、高貴なものすら感じさせた――ラクスの毎日の過ごし方には無駄が無く、家事をする側として、こんなに助かることはなかった。
 しかし、みなもにとって、ラクスの常軌を逸した読書量は、一種異様に思えた。
 だから、時々こうして、お茶を持っていく。色々と趣向を変えつつ。
 些細な心配から生まれた行動だったが、何故かみなもは、それが楽しかった。
 自然と笑みがこぼれるのを、自分から抑えられない程に。

 ◆ ◆ ◆

 桜茶というものを、ラクスは知らなかった。
 だから、その香ばしさが口に広がっていくのを、とても新鮮な感覚として解ることが出来た。
「ラクスは、少し頭が固いのかもしれませんね――」
「え、え?」
 使用人は、うまく聞き取れなかったようだ。
 こほん、と一呼吸置き、ラクスは続けた。
「このお茶からは、桜の匂いがしますよね」
「は、はいっ。桜茶です」
 妙に背筋を伸ばすメイド姿に、ラクスは目を伏せながらも微笑と共に言葉を次いでいく。
「このお茶の味は、本では解らないことです」
「……味、ですか?」
「こういう味だ、と本に書いていても、書いてあることを理解するのと、舌でそれを解るのとでは、天地の差があるのだと、思ったのです」
「??????」
 いよいよメイドの少女はは混乱してきたらしい。
 自分にしか分かりようの無い言葉で、ものを言っているのだから、仕方が無い。
 けれど、ラクスにはそれでよかった。
 蒼い髪の少女がここに来たことを、ラクスは自然のことと考えている。
 この、なんだかゆるやかな状況に余計な要素を加えるのは、無粋なことだと考えている。
 自分と縁のある目の前のメイド姿に、その繋がりの是非を問うよりも、
「つまり、美味しいお茶だということです」
 こうしているということを、素直に受け取れば良い……そう思って、ラクスは言葉をしめた。
 みなもの表情が明るくなる。
「やったぁ!」
 ぐっ、っとガッツポーズする、蒼い髪のメイド。



 なんてことのない春の午後は。
 なんてことのなくない二人を、なんてこともないように包んでいた。



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2004年04月02日

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