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『はなれるな 』
倉梯・葵1882)&リラ・サファト(1879)

 一度指先にかすめてしまった探しものには、ちょっとやそっとじゃ巡り合えない。
 そんな星の下に生まれついてしまったのではないかと、彼は自分の不運を本気で疑うことになる。
「確かそんな子があそこ……に……――ああ、」
 雑談所の、出入り口近く。
 声を掛けた男が顎で指し示した辺りには、すでに薄紫色の頭は無かった。

 この街で、彼女――リラ・サファトとはぐれてしまったのは、もう何日前のことになるだろうか。
 立ち寄った孤児院で偶然にも彼女の噂を聞きつけた葵――倉梯葵は、その足で『雑談所』へと向った。
 もともと長身である葵の歩幅は広い。
 軍属だった頃から愛用しているがっちりとした安全靴の踵が、石畳を叩いて鈍く鳴り響く。
 擦れ違う人々が、驚いたふうな表情で葵を振り返った。皆一様に、擦れ違う葵の長身にちらと視線を投げ、、そして風のように去っていく後ろ姿をまじまじと見つめるのだった。
 形振り構っていられるか。
 葵は心中、毒突く。
 たとえひとときでも、リラから目を離すべきではなかった。
 少しでも目を離そうものならば彼女は、道端の小さな花に目を奪われてしゃがみこむ。
 路地裏に座り込んで顔をなめる猫を見つけてははたはたと駆けだす。
 まるで初めて見るもののように、毎度それらに目や心を奪われては、ただでさえ進まぬ足取りを殊更に重くさせてしまうのだ。
「――ったく……油断も隙もない」
 葵が苛立たしげに、くしゃりと己の前髪を掻く。
 が、リラとこうしてはなればなれになってしまったのは、例え僅かな間でも彼女から目を離した自分の咎なのだ。
 そう思い至ると、彼は深いため息が零れてしまうのを止められなくなる。
 上がった呼気を収めることもしないままで室内を見回す葵に、男は同情の眼差しを向けている。
「……ありがとう。もしも彼女がまたここに現れたら、――動くな、と伝えて貰えるか」
 落胆の面持ちには、幾許かの憤りすら滲んでいただろうか。
 どうして、ひとところに留まっていられないのだろう。
 どうして、迷子の鉄則を打ち破ろうとするのだろう。
 偶然ではあれ、せっかく耳にしたリラの足取りはここでとぎれた。
 大きく頷いた男の表情に頷きを返し、葵は雑談所を後にするのだった。

 再び石畳の上に歩を止めて、葵は大きなため息を吐いた。
 なまじ、この場所でリラと落ち合えると信じきってしまっていたから現実が痛い。
「あいつ……」
 独白の間も、視線は人込みの中を逡巡する。
 どこぞの道端で、しゃがみこんでアリの行列でも眺めていないだろうか。そんな希望を捨てきることができない。
 ――最も、この人波では……たとえ数メートル先の路端にリラがうずくまっていたとしても、目視は叶わなかっただろうが。
「……」
 やれやれ、と言った工合に首を振った葵の肩をかすめ、人々は歩を進めていく。
 路の最中で立ち止る彼を迷惑そうに見上げて通り過ぎていく人もあれば、見向きもせずにただ歩き去っていく人もある。
 こんな一人一人すべてに、大切なもの、かけがえのないものがあるのだ。
 葵は陰鬱に伏せた眼差しをふとあげて、改めてと言ったふうに人いきれを眺めてみた。
 守るべき家族。
 愛すべき恋人。
 心血を注ぐ仕事。
 至福のひととき。
 それらを内包しながら、今この瞬間彼らは歩を進め、街の中心にある大通りを往く。
 彼らは今、葵と肩を触れ合ったことすら、数刻後には綺麗さっぱり忘れ去ってしまうだろう。
 意識の表層に刻まれなければ、それは彼らにとって『無かったこと』も同然である。
 彼らの多くが、葵との擦れ違いを『無かったこと』にしていくのと同じように、また葵も『無かったこと』にしてきた擦れ違いがある。
 それは、何とさみしいことだろう。
 じっと目的もなく雑踏を眺めていると、葵はそんなことを考え、いてもたってもいられないような気持ちになった。
 無、が恐ろしかった。
 今この瞬間、共に存在しないことで、リラと自分を繋ぐ何かが途切れてしまうことを、怖いと思った。
 目を、凝らした。
 この雑踏の中、失いかけた彼女との繋がりを、ただ一筋でも見いださなくてはいけない。
「……リラ…」
 呼吸を調えるために吐きだした吐息が、小さくその名を紡ぐ。

 そして、薄紫の長い髪を、視界の端に捉える。

「・‥…ッ、リラ……!」
 叫んだ。
 隣を通りすぎた女性がびっくりしたように葵を見上げる。
「――失礼」
 踏みだした歩が、葵とは反対に進もうとする青年の爪先を踏んだ。
 擦れ違いざま小さく詫びの言葉を投げ、葵は人の流れに逆らいながら歩き出す。

「―――?」
 ふ、と。
 不意な空気の震えに、目を瞬かせた。
 きょろきょろと辺りを見回しながら、リラ・サファトはんん、と小さく唸りをあげる。
 どうしたのかと傍らが問いかけるが。
「ぁ……なんでも、ないんです。ちょっと誰かに、呼ばれたような気がして」
 少し照れたふうな面持ちになり、リラは緩く首を振る。

 振り返った一瞬に、自分と目が合わなかっただろうか。
 葵は食い入るように、遠くリラの横顔を見つめていた。
 この人だかりでは、自分に気がつかなかったかもしれない。
 焦る爪先が人の足を踏む。
 時折、背中越しに後ろを振り返り「失礼」「申し訳ない」などと言葉を落としていきながら、少しずつ彼女に向けて歩を進めていくが。
「リラ!」
 見失う最後の瞬間に、葵は彼女の小さな背中に向けて今一度と叫んだ。
 人の肩にその姿が覆われたあとで、葵はリラの姿を完全に見失う。
「――……」
 葵の鈍い靴音が止まる。
 その場に立ち尽くす葵の肩を、幾人もの肩が押しては、僅かに彼をよろめかせる。
 何度目かのため息が葵のくちびるから零れたとき、彼は路の端へ向け緩慢な歩を進めていく。
「……動くな、じゃ…足りないか」
 自嘲気味の声音を、雑踏が掻き消す。

 ――はなれるな。

 どうしてその一言を、与えることができなかったのだろうと。
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聖獣界ソーン
2004年03月31日

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