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『夢想残影 』
1720

「はぁはぁ……はぁはぁ……」
 薄暗く汚れた路地裏の道を、影がひたすら疾駆する。その姿は何かに追われる事に怯え恐怖して居る様子をありありとかもし出していた。時折後ろを振り返っては、その恐怖が来て居ないかを確認し、最早出鱈目に右へ左へ道を折れ進んで行く。足がもつれ、転びそうになっても必死に体勢を立て直し、ゴミを蹴散らし駆け抜ける。
 だが、目前の角を左に折れた瞬間、影は唐突にその動きを止める。息荒く上下する目の前には建物の壁があり、そこから先への道を失くしていた。
「っ!?クソ!!何処かねぇのかよ!」
 焦り苛立つ影は、駆け様に壁を調べ始めるが、そんな余裕の無い事を思い出す。
 ザッ……ザッ……
 妙に乾いた足音が近付いて来ているのだ。確実に、自分の方へと……影は恐怖に顔を強張らせ、その場から離れ様と、一気に駆け出した。
「!?ガッ!?」
 飛び出し様に、何かの衝撃が影を再び行き止まりの壁へと打ち付ける。衝撃の痛みに堪えながら、開いた目線の先に、影は男を見付けた。
 黒のジャケットに黒のスラックスパンツ、薄暗い路地の色の中でも分る緑色の髪の隙間からは、冷徹な一対の瞳が影を見据えていた。
 恐怖に、影の体がガクガクと震え、今まで駆けて来た疲労とは違う荒い呼吸が自然と洩れ始める。
「御苦労様……もう良いか?」
 低く囁く様に発せられたテノールの声が、はっきりと影に届く。影は震えるその身を壁の角へとずらして行く。その瞳は恐怖に彩られ歯の音がカチカチと小刻みに音を立てていた。
 男は黙したままの影に再び聞いた。
「覚悟は良いか?死ぬ覚悟は……」
 鋭く射抜く様な視線を浴びせながら、男はゆっくりと影へと向かう。
「来るな!来ないでくれ!頼むから見逃してくれ!もうし無いと誓うから、許してくれ!」
 その叫びにも似た言葉に男の片眉がピクリと跳ねる。
「許す?」
 同時、男が一気に間合いを詰め右手を影の頭部へ打ち付けたと思うと、そのまま背後の壁に押し付けた。
「ガッ!?アァァァァ!!」
 凄まじいまでの力で押し付ける男の手を振り払おうと、影は両手で男の手を握るがまるで動かない。その手の隙間から見える眼に、影は言葉を失う。
「許すだと?僕がお前を許すと思うのか?罪の無い人々を、ただ快楽と愉悦の為に殺し喰らったお前を!?お前は、許しを請う人を助けたのか?食ったんだろ?なら、これはお前の末路に相応しい」
 剣呑な光を放つ男の目が一瞬スゥッと細くなったと思ったと同時、影の体がビクリ!と大きく痙攣を始めた。
「あっ!?アアアアアアアアアアァァァッァァアァッァァ……!!!」
 叫び、もがき苦しむ、影の体から幾重物白い気体が立ち上り始める。握り締めた男の手には、爪が深々と突き刺さっていたが、男は意に介した風も無く静かにその光景を見詰めていた。
「やっ止めてくれぇぇ!!死にたくないぃぃ!嫌だぁ!死にたくない!!」
 徐々に立ち上る気体が増えて行くに連れ、影の体から力が抜けて居る様だ。膝が折れ、その場に座り込もうとして居るようだが、男の手がそれを許さない。
「この痛みも苦しみも、お前が食った人々の悲しみだ。それを十二分に味わいながら逝け!」
 男が言うと同時、それまで以上の白い気体が影の体から一気に放出される。影は声にならない叫びを上げ抵抗しようとするが、最早その四肢に力は無かった。
「嫌だぁ……いやだ……いや……い…………」
 掠れる様な声が聞こえなくなった時、影の体から気体は出なくなっていた。そして、男の手を握り締めて居た両手は、力無くだらりと下がる。
 男は、押え付けていた右手をようやく離した。解放された影の体は、ドサリと地面に倒れ伏したが、その姿に元の面影は既に無い。そこに有るのは、一体の渇き切ったミイラが有るだけだ。
 冷ややかな視線でその姿を確認すると、男は踵を返す。
「後は任せた……」
「はい、葵様」
 男――葵の言葉に、数人の男達が影に殺到し、その処理を行っている。だが、葵は振り返る事無くその場を後にした……

 カラン……
 葵の手に持つロックグラスの中で、程好く溶けた氷が小さく乾いた音を立てた。
 古びたバーのカウンター、その片隅に何時もの様に葵の姿がある。何時もの様に暗く沈んだ面持ちで、何時もの様にグラスを見詰めている。
「また……殺してしまった……」
 誰とも無く、ポツリと葵は呟いた。そっとグラスから離した右手をじっと見詰める。普通の人間の手に、誰が見ても見えるだろう。だが、葵には血で赤く塗れて見えていた。
「何故……僕は……」
 ギュッと右手を握り締め、目を閉じる。先程殺めた者の姿が浮かぶ。もがき苦しむ姿、涙を浮かべる姿、抵抗しようとする姿、そして……倒れた時の姿……
『嫌だぁ!死にたくない!!』
 その声と言葉が、ずっと葵の耳にリフレインして居る。
 正しい事をした、理なのだ……頭で分かっても心がそれを肯定はしない。一つ命を殺める度に、重くなって行く右手と命の価値……圧し掛かる罪悪感に、葵は更に拳を強く握った。
「僕は……」
 握り締められた拳から、一滴……赤い滴りが零れ落ちた。
 カラン……
 握り締められたグラスの中、氷が小さな音を立てていた……


「っ!?」
 不意に、寝ていた布団から葵は跳ね起きた。額にも体にも、びっしりと脂汗を掻き、その呼吸は荒い。時刻はまだ夜半だろう、凛々と輝く月の明りが、襖を通して寝所に射し込んでいた。
 荒い息の下、呼吸を落ち着かせる様に、右手で浴衣の前を握り締めるその表情には、言い様の無い不安と息苦しさが在った。
「はぁ……はぁ……っ……ふぅぅぅ……」
 大きく息を吐き出し、何とか呼吸を落ち着ける。先程よりか幾分ましになったのか、その表情は少しだけ柔らかくなっていた。
「何だろう一体……」
 額の汗を袖で拭い、葵は呟く。何か夢を見ていた様だが、どんな夢か分らない。ただ在るのは、不安と苦しさそして……罪悪感……
 困惑した表情を浮かべ、葵は立ち上がると襖へと近付きそっと開く。静寂に染まる夜気の中に、その身を晒しふと右手を見詰めれば、何時もと変わらぬその右手……だが、今日はその右手に奇妙な不安を駆り立てられ視線を外した。
「僕は……一体何をして来たんだろう……?」
 そっと月を見上げながら、ポツリと呟く。
 返って来る答えは無く、静寂の中立ち尽くす葵に、月明かりは凛々と降り注ぎ、その身を染めていた……
 その不安を顕す様に……淡く……儚く……影を残しながらも……





 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
凪蒼真 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2004年03月30日

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