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『トライバル・ソウル 』
橋掛・惇1503)&城田・京一(2585)



 今より、ほんの少し以前の話になる。
 ほんの少し。
 それは、えてして同じだけの年月の量を、誰しもが同じ速度で体感するわけではないということを意味している。
 嬰児が乳児と呼ばれるだけに必要な時間だったかもしれないが、中年は中年。
 そして壮年はやはり、壮年のままである。
 生きるとはそういうことだ。

 その界隈は本来、真夜中になると人の姿はなくなる。
 以前は雑居ビルと呼ばれたものたちが隙間を縫うように細く高く軒を連ねているが、その殆どは打ちっぱなしのコンクリートがこそげおちてしまっているような状態のものばかりである。
 既に、骨組みの鉄棒を向きだしにしているようなものまであった。
 そんな荒んだビルの一室に、誰が自分の事務所や店舗を構えたいと云う者が在ろうか。
 昼には、やんちゃな小学生たちのジャングルジムになる。
 夕方から夜にかけては、やんちゃな中高生のたまり場となる。
 もう少し遅い時間になると、大人のお友達が『いけないもの』を売買するダークマーケットとなり――
 さらに遅く、明け方近い真夜中になると誰もいなくなる。
 丁度そんな時間、昼から夜中までの人の気配が風に流され風化した頃を見計らって、橋掛惇はこの界隈へ夜の散歩に出掛けるのだ。
 橋掛惇。
 この近くにアトリエを構える、ベテランの彫師である。
 が、本人は己のことをベテランなどと云った称号で呼ばれるに値するとは露ほどにも思っていない。
 彫師とは、人の身体に故意の傷を刻み、その対価を得ることによって生活を営む。傷を刻むには針を用い、傷の証には墨を挿す。
 そこでは、彫る側、彫られる側にどんな妥協も許されない。
 互いが互いに自分の中の何かを預け、交歓しあいながらただ一つの芸術を完成させていく。その為に橋掛は持ちうる感性の全てを一針一針に注ぎ込んで行くし、彫られる側もまたその痛みに耐える。
 常に、真剣である。
 常に、魂を揺さぶられ続ける。
 そんな仕事しか出来ぬ己にとって、何をどう施術すれば『ベテラン』なのか、橋掛にはとんと見当もつかぬ。
 武士道。
 橋掛の墨に対する考え方を、海の向こうの同胞たちはそんな言葉で呼んだ。
 まったく同じ形態の墨を、身体のまったく同じ場所に刻んでくれと云われても、それは彫師にとって『二回目』にはなりえないのだ。
 だから、――と云う訳でも、彼にとってはないのだろうが――毎日の終りと始まりが交差するこの時間、歩き煙草で橋掛は外の空気を吸いに出掛ける。
 終りと始まりの境目で肺一杯に空気を吸い込み、自分の中の細胞を一つ一つ生まれ変わらせる。
 そうすればまた新たな気持ちで、自分の針を待つ清冽な素肌と向きあうことも叶おう。
 橋掛が彼と、奇妙な逢瀬を果たしたのは、そんな折りのことであった。



 彼とは、今まさにこの瞬間が初めての逢瀬、と云うわけではなかった。
 無論、街灯もない暗闇の中である。
 すぐには男の素性を知ることはできなかったが。
 男は、何か考え込む様子を見せるとき、ため息交じりの声音で相手に何かを問いかけながら――非道く特徴的な角度で、首を竦めるのだ。
 だから橋掛は、うっすらと影だけでなされたその奇癖に、男が医師であることを容易に見てとった。
 城田京一。
 橋掛が通う総合病院の、医師だった。
「――やあ、『刺青くん』」
 城田は、摩耗しはじめたアスファルトの上に膝を突いていた。
 闇の中でよくよく目を凝らすと、男が持つ碧眼の感じだけは掴めるようになる。
 紛れもなく、自分が通っている病院の『あの医師』であることに代わりはないが。
『じゃあ、そこの診察台に横になって――まずはその血を、止めないとね』
 そんなふうに、つんつんと小さな応急ベッドを指し示すいつもの医師の横顔とは、どこかしら違って見えた。
 病院とは、何かしらの疾患を持つ者が、その疾患を治癒させるために足を向けるところである。
 橋掛の疾患とは、能力を開放したときに出血してしまう逞しい腕であった。
「厭だなあ…僕は正真正銘、『普通の医者』だからね?」
「そんな言い訳じみた物言い、やめてくれ。……ああ、言い訳なのか」
 普通の医者が、どうしてこんな荒れ果てた廃虚で手負いの狼みたいな目をしやがる。
 橋掛は心の内で毒突きながら、それでも何かおかしくて苦笑した。
 自分が彼に抱いていた気掛かりのような感情が、ここに至り確信となったからでもあった。

 城田からしてもまた、『刺青くん』――橋掛惇のことは、気にかかる存在であった。
 毎度毎度、ほぼ相違なく腕の刺青から出血して病院にやってくる。
 他の看護士や医師たちが彼の墨や風貌を恐れるあまり、いつも急患あつかいで城田の許に運んでくるのだ。
 確かに、橋掛の容姿は、ぱっと見ただけでは異様である。
 身体中に彫り込まれた奇妙な刺青や、きちんとそり込んであるスキンヘッド。
 日本人にしては妙に陰影の濃い顔立ちも相まって、さながらどこかの部族の戦士のようである。
 実際、城田はそう云った戦士たちとまみえたことがある。
 自分の身体に態と傷を刻み、その傷の証として墨を挿して勇気を示す。
 勇気を示した者は、どんなに屈強で逞しい他部族の戦士を前にしても、決して逃げ出してはいけない。
 彼らにとって刺青とは、自分の存在理由を賭けた誇り高き勲章であるのだ。
 だから、そんな彼らの勲章を思わせる文様で腕を覆う橋掛に対し、他の医療関係者たちのように「おそろしい客」という印象を持ちあわせることはなかった。
 彼の敵は、おそらく彼自身なのだ。
 彼は自分から逃げない証として、四肢に至るまでの身体の表面すべてに墨を挿す。
 橋掛の風貌をそんなふうに解釈していた城田は、むしろ。
 この銀眼の彫師を、こんな場所に居合わさせてしまったことにかすかな自己嫌悪を感じていた。
「――よせよ、『センセー』。あんたが死ぬことに」
 そんな橋掛の言葉を、城田は聞かなかったことにする。
 仰々しく大きなため息を吐きだす橋掛の、脇腹あたりを凝視した。
 そしてゆっくりと、右手に持ったH&KUSPカスタムの銃口をあげ――

 虚空が、乾いた弾丸を吐きだす。



 自分の背後と、そして眼前で、どさりどさりと重たい音がした。
 銃のトリガーを引いたあとで、力尽きた城田が崩れ落ちる音。
 そして背後の柱際で、いつからかそこに佇んでいた黒服の男がどうと倒れ込んだ音。
 城田は、橋掛の背後に忍び寄った黒服に銃口を向け、トリガーを引いたのだった。
「……おいおい…」
 己の眼前と、そして背後。
 両方を交互に眺めやりながら、橋掛は指に捉えていた煙草を放る。
 橋掛の口端から漏らされたそれは、狼狽の声音ではない。
 ちらと横目に気配を探り、薄い舌で口唇を舐める。
 いかに、この状況を突破するか。
 そしていかに、仁義を守るか。
 それを画策するが故の、探るような――笑むような、声音であった。
 もしも城田が自分に対して殺意を抱いていたのならば、銃口をこちらに向けた時点で彼の命はなかったはずだ。
 己に向けての殺意にのみ、開く力。
 橋掛の持つ能力とは、そう云ったものであるからだ。
 だがしかし、結果的に城田の首は未だ繋がっている。城田が、橋掛への殺意を持っていないことなど数刻まえから彼は気付いていたのだ。
「<ラボ・コート>を渡せ」
 骨組みの見え隠れするビルの柱から声がする。
 視線をやれば、ぱらぱらと柱の影やビルの入り口から数人の黒服が姿を現した。
「多勢に無勢か。やるな、あんた達」
 黒服たちは既にこときれた仲間には見向きもせずに、横柄に橋掛へそう告げる。
 そのとき、橋掛の心は決まった。
「それを我々に渡せ」
「どうして初対面のあんた達に、命令されなきゃなんねぇ」
「そうした方が君の身の為だからだ」
 ――ほう。
 橋掛の穏やかな眼差しに、剣呑な光が宿る。
「俺の身の為たぁ、随分と有難い。――厭だって云ったら?」
「―――」
 黒服を纏う男たちの間に、鋭い緊張が走る。
 予期せぬ介入者の存在に、進退を見極められずにいるようだった。
 そうだ。
 それでいい。
 だが、――もっとだ。
「そいつは死神だ。庇って、お前に何の得がある」
「この人には、何度も危ない所を助けられてるんでね。一度くらい庇ってやっても、それこそ罰は当たらないだろう?」
 カチリ。
 鋭く耳に届いたのは、黒服の男たちが銃の安全装置を外す音だ。
 そして。
 橋掛の肌の上を、何がしかの感情が蠢いた。
 人は、それを
「――アディオス」
 殺意と、呼ぶ。

 それから、何度かの季節が過ぎ去り、現在に至る。
 嬰児が乳児と呼ばれるだけに必要な時間だったかもしれないが、中年は中年。
 そして壮年はやはり、今も壮年のままである。
 が。
 生きるとは、えてしてそういうことなのだ。

(了)
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月29日

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