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『朱い入口 』
向坂・嵐2380


 とんだ休日だった。


 愛車の汚れを落としているうちに、ワックスをかけたくなった。ぴかぴかに磨き上げられた愛車を見ていると、ちょっとそこまで乗りたくなった。今日は何の予定も入れていない、気楽な休日だ。何をするも何処へ行くも、彼の自由だった。めずらしく朝早くに目が覚めたので、バイクの手入れを終わらせたところでも、まだ時間は午前のうちだった。
 向坂嵐の愛車のエンジンに、火が点る。
 適当にバッグの中にものを詰め込んで、嵐は愛車にまたがると、特にあてもないツーリングに出掛けたのだった。
 しかし、さて、何処へ行こうか?
 ――そう言えば、奥多摩の手前に美味い蕎麦屋があるって――
 職場の先輩が言っていた。
 ――奥多摩なんて、なんもねぇじゃん。センパイ、何しに行ったんだ? ……ま、いいか。
 ぶらぶらと走らせても、結局は知っている道を選んでしまうもの。出発してから30分後、ようやくぼんやりとしたあてを定めた嵐は、郊外へ伸びる道に入った。

 奥多摩なんて、年寄りになったら行けばいい――
 常々そう思っていたので、道はよく知らなかったが、案内標示を信じて嵐は進んだ。美味い蕎麦屋は表通りに看板を出していたので見つけるのに苦労はなかった。先輩が言っていた通り、手打ちざるそばは格別だった。
 ――くそぅ、金ねぇのに。……いや、後悔しちゃダメだ、後悔しちゃ。
 お持ち帰り用の手打ちそばを思わず2パック買ってしまった嵐は、我ながら爺臭いとは思いつつも、愛車に乗って帰路についた。次の休みには予定が入っているし、奥多摩にぶらりと行ってみようと思うことはこれからもめずらしいままだろう。ここのそばともしばしの別れ。或いは、二度と食べに来ないかもしれない。
 けれども、いい日帰りの旅になりそうだった。
 少なくともこの時点では、嵐はそう思っていたし、満足だったし、幸福だった。


 日が傾いていたようだ。
 この日は生憎と午後からの空模様は悪く、雨こそ降ってはいなかったが、空は今にも降りだしそうなほどの重い雲に覆われていた。関東一帯がその分厚い雲に包まれていたらしいのだ。奥多摩の天気も、嵐が慣れ親しんだ道のうえの天気も、まったく変わらなかった。
 日が傾いていることもはっきりとはわからなかった。
 空は藍色になることもなく、白から灰へ、そして漆黒へと変貌を遂げるつもりのようだ。
 そろそろ見慣れた道がみえてくる、と嵐は肩の力を抜いた。いつも目印にしているビールの看板が見える。そこを、左折したら――。

 確かに、左折をしたはずだった。

「……あん?」
 思わず嵐は、メットの中で声を上げた。
 いつもの通りを左折したはずが、右折でもしたのだろうか? それとも、1本先に行ってしまったのか、手前だったのか?
 嵐は、見知らぬ道を走っていた。
「……っかしぃな」
 ビールの看板を見たはずだ。それから自分は、何をした? 左折したのだ。……そのはずだ。
 ちいっ、と嵐は小さく舌打ちした。思い立ったが吉日とばかりに出かけてきてしまったために、マップを持ってきていない。そもそも奥多摩までの道のりも、案内標示板を頼りに走っていたのだ。
 こういったときに闇雲に走るのは素人だと、嵐は知っている。だが、闇雲に走っていたらいつもの道に戻れたという話も腐るほどある。
 時計を見やれば、思っていたバラエティの特番が始まる時間が刻々と迫ってきていた。
 嵐は、闇雲に走ることにした。
 ヘルメットのバイザーを上げたときに見たものは、いやに赤味がかった不吉な空だった。

 街灯がついているのが普通である時間だというのに、嵐が行く先を照らすのは、嵐の愛車のヘッドライトだけだ。街灯どころか、建ち並ぶ民家の窓にすら、明かりはなかったのである。そして行けども行けども、犬の散歩をしている人間を見かけるようなこともなく、対向車も現れなかった。どんよりと赤味がかった雲が、肩に圧し掛かってくるようだった。
 ――おかしい、ぜってぇおかしい。音だって……聞こえやしねぇ。
 そのとき、すぱぁっと脳裏に蘇った、職場の先輩の話があった。そう言えば、彼は美味い蕎麦屋の話もしてくれたのだ――。

『狐に化かされたっつーかな、そんなことがあった。行っても行っても、道が終わらないんだ。やっと抜けたと思ったら、また道の始まりでさ。焦ったよ。そんときは酒呑んでて、酔っ払ってるのかと思った。でも、酔いなんかさめちまったよ、
 アレ見たときに……
         一気に』

 バイクすらも悲鳴を上げそうなほどに、空と風は重い。
 人間には、きっと重すぎるのだ。
 嵐はバイクを止め、振り返った。
 好きな酒も、さすがに運転中に呑む気にはならない。未成年ながら呑んだことがあって、しかも彼はかなり強かった。だが、真っ昼間の公道を飲酒運転するほど嵐は馬鹿ではない。
 しかし、いまもし、呑んでいたら?
 きっと、振り返った瞬間に酔いはさめていた。
「間違えたんだよ。道を……俺は、ただ、間違えただけだ。だから、そんな……そんな目で、見るな」
 うしろにいたものが、ぐあッとあぎとを広げた。
 嵐はそのとき、叫んだかもしれない。スロットルを全開、嵐はバイクを走らせた。
 ぱぱぱぱぱっ、とたちまち周囲の民家に火がともる。裏返った月と星すらも、目を覚ましたかのように光りだした。空が、真紅に染まった。
 ――ヤバい! マズい! こっから出ろ!
 気づけば、嵐の黒いジャケットまでもが、じわりじわりと赤くなっていくのだ。
 ――ちくしょう! 何で、後ろ見たんだ!
 馬車が追いかけてくるのだ。たぶん。
 今や聞こえてくるのは、焔を吐く黒い馬の蹄がアスファルトを削る音、馬が引くチャリオットに乗っていたものの息吹、笑い声、罵倒、嵐の罪状を読み上げる声。民家から上がる雄叫びと嘆き。
「ああ、ああ、死にたくない! まだ死にたくない!」
「ああ、ああ、待って、もう少し待って、お願い!」
「黙れ、貴様らの命はここで潰えた! 神の慈悲は、尽きている!」
「向坂嵐! 貴様の罪は、重いのだぞ!」
「今すぐ、送ってやっても構わぬのだぞ!」

「ふざけんな! 俺にゃ、明日の予定があるんだ!」

 そこで、嵐は、左折した。
 速度も落とさぬまま、ウインカーも出さずに、左折した。


 凄まじい轟音が、嵐の背後をかすめた。
 嵐はバランスを崩して、路肩に倒れた。金属の塊が潰れる音がした。
 身体を起こした嵐が見たのは、砂利を積んだトラックが赤いスポーツカーに追突しているところだった。弾き飛ばされたスポーツカーはばらばらと色々なものを撒き散らしながら吹き飛び、周囲の乗用車や二輪車を蹴散らした。砂利を積んだトラックもまた、対向車線にはみ出した。対向車線を走っていたトレーラーが、避けきれずにトラックに激突した。
 嵐は、ここで無理に左折していなければ、おそらく赤いスポーツカーよりも先に吹き飛んでいただろう。彼は呆然と、黒煙が上がる車道を見つめていた。
 彼が倒れているのは、彼がいつも目印にしているビールの看板の真下だった。
 空は――どんよりと漆黒に曇り、月も星も見えない有り様だった。
 嵐は、砂利を積んでいたトラックの運転手が居眠りをしていたことは、後で知る。
 ビールの看板の近くで起きた大事故で、5人の命が潰えたことも、後で知る。
 自分がいつ死ぬのかということも――ずっと、後になってから知るだろう。
「……くそっ」
 見て聞いてしまったものごとに、嵐は短く毒づき、愛車を起こした。
 傷が、ついてしまっていた。


 ああ、とんだ休日だった。




<了>

PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月26日

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