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『甘い攻防 』
真名神・慶悟0389)&冴木・紫(1021)

 冷たかった外気は徐々に温かみを増してくる。冬のコートはそろそろ重いが脱ぐにはまだ肌寒い。調度そんな季節である。
 クリアな冬の空気と眠ったような春の空気の入り混じる中、その男女は向き合っていた。
 背の高い女と、それよりもやはり背の高い男である。女は細い肢体に濃い色合いのハーフコートを羽織っている。その下から覗く足は細く、足先は華奢なヒールに包まれていた。それを見下ろす男は派手なスーツ姿だった。一見して上品な女とは対象的に、何処となく退廃と無頼の香りを漂わせている。指先に挟まれた火の点いた煙草がその印象を色濃いものにしていた。
「……どうして?」
 消え入りそうな声で女は問い掛ける。俯き、目を伏せると、結い上げた髪の下の白いうなじが男の視界に晒される。その白さと、そして見下ろす肩の細さは、何かを錯覚させるほどの憂いと誘いに満ちていた。
「理由が要るのか?」
 しかし男が返した返答はそっけなかった。かすかな動揺を上擦った声が伝えてはいても、選ぶ言葉までは幻惑されない。魔力に抗う、確固とした意志が男にはあった。
「少なくとも聞かなきゃ納得はできないわね」
 すっと顔を上げ、女は濡れたような瞳で男の双眸を見つめる。その瞳に男の視線は知らず吸い寄せられた。
 目を逸らした方が負けなのは何も野生動物に限った話ではない。
「説明する必要があるのか?」
「聞く権利が、私にはある筈でしょ?」
「ないな。もう終わった話だろう」
 女から目を反らさず、男は冷たく言い捨てる。女は思わず伸ばしかけた手を空で握り締めた。
「……だったらなんであの時!」
「お前が望んだんだろう?」
「こんな結果なら望んだりなんかしなかったわよ!」
「女の幻想だな。男がそれに付き合う道理が何処にある?」
 ざわっと、周囲の喧騒が膨れ上がった。酷薄な男の言い様に、そして必死の女の様子に。
 男も、女も、思わず耳を欹てる。言い争う男女は、双方ともに水準を越えた容姿をしている事も、衆目を集めた要因の一つだっただろう。
 これだけの女が自ら誘いをかけたのか。そしてそれをこの男は退けるのか。
 そして拒まれて尚まだ取り縋るのかこの女は。そして男はどこか後ろ髪を引かれつつも拒みつづける。
 男と女。そのドラマ。
 好奇心と同情、非難が入り混じった視線が二人を包む。その視線に気付いていないことはないのだろう。だが、二人は互い以上に気にするものなど今はないようだった。
 女が下唇を噛んだ。男は逸れた視線に一息吐き、手にしていた煙草を一口吸い込む。
「謝って」
「何をだ?」
「私によ。謝って」
「すまない。これで十分か?」
「今の私にじゃないわ。あの時の私によ」
「俺は時間をまき戻す力など持たないが?」
 女は再び顔を上げ男を睨み据えた。



「謝れっつーのよだから! そして返せあの時の私に! あのチョコ二粒あれば一日は何とか生き延びられたわよ!」
「だからそんな赤貧なら大人しく兄貴に飼われてろ! それ以前にアーモンドチョコ二粒程度をティッシュに包んでリボンかけただけのもので一体何を要求する気だお前は!」





 耳を欹てていた周囲の人々から、酷く冷たい空気が流れてきたのは言うまでもない。
 往来で激しくも情けない喧嘩を繰り広げていた男と女の名を、真名神・慶悟(まながみ・けいご)と冴木・紫(さえき・ゆかり)といった。





 さて、事の起こりは一月前に遡る。
 街中がピンク色に浮かれ出す2月初旬。慶悟の最初の試練はそのときに訪れた。
 因みに最初とは今回の事件の最初であって、それが一番最初にあった酷い目というわけではない。
「冴木が?」
 ああと頷いたのは馴染みの興信所の探偵。仕事を探して事務所に立ち寄った慶悟はその探偵の雑然としたデスクの上にその珍妙な物体を見た。丸められたティッシュに何故だかリボンが飾られている。これはなんだと質問した所、世にも恐ろしい答えが返ってきたのである。
 探偵曰く、
『冴木の置いていったバレンタインチョコだ』
 耳が拒否する内容に、慶悟が思わず問い返したのは言うまでもない。そしてその返答はああという頷きという、最悪のものだった。
 駅前で貰ったポケットティッシュに、無印良品辺りの安価で数量のあるチョコを小分けに詰め込んで、何かのラッピングにでも付いていたのだろうリボンで止めてあるシロモノだ。単価一つ辺り50円以下。赤貧ライターらしいバレンタインチョコである。
 とりあえずは探偵宛てというところで胸を撫で下ろした慶悟だったが、それはとりあえずでしかない。何しろこの手のチョコレートは粒でばら売りしている訳ではない。一袋購入したからには、一袋分、紫がばら撒くつもりなのは明白。そしてばら撒かれるリストの一番上に名前があるのは、この探偵でもなく、某編集部の丁稚でもなく、慶悟その人であることはもっと明白だった。
「……絶対に会うまい」
 慶悟が硬く心に誓ったのは言うまでもないが、残念ながら世の中はそううまくはできていなかった。
 会うのであるこれが。生きる為に出入りしている場所が似通っているのだそもそもが。避けるためにはその場所を避けるしか無いが、避けていたのでは干上がってしまう。
 今干上がるか後から吸い上げられるかの違いでしか無いが、目先の金がないなら後からの選択肢そのものがない。
 にっこりと笑って紫がその明らかに本気ではないチョコレートを慶悟に差し出したのはそれから二日後、恐ろしい事にバレンタインデー当日の事だった。
「ま、な、が、みっ♪」
「帰れすぐ帰れ即刻帰れ兎に角帰れいらん」
 取り付く島もない慶悟の対応に怯んでくれる相手ならそもそも問題など起きなかっただろう。
「いやまーいらないならいらないでもいいのよ私は」
「……案外と素直だな?」
 にっこりと微笑んだその顔は中身が紫でなければ謝ってチョコレートを受け取ってもいい程には魅惑的だった。
 だが中身は紫である。
「うんまあいいのよそれはそれで。まあ今書いてる途中の原稿に男色陰陽師として紹介してあげるだけだから」
「……待て」
「いやまあこういうネタって受けいいのよね基本的に。うんまあそうして欲しいんだったらさっさと帰って原稿書くし」
「だから待て! 俺がいつ!?」
「ついこの間ライブでキスシーンとか目撃させてもらったしねー」
 びし。
 と、音まで立てて慶悟が凍りつく。忘れたくても忘れられない出来事に、そしてそれを公表されるかもしれないという可能性に、一瞬魂までが凍りついた。
「じゃ、アデュー!」
 正気に返ったその瞬間、慶悟が見たものは手を振りながら去って行く紫と、そして何時の間にやら押し付けられていたちり紙包みのチョコレートであったという。





 そして本日三月十四日。
「とりあえず家賃と光熱費と当面の食費で勘弁してあげようって言うんだから安いもんでしょ?」
「お前はいっぺん日本語を根本から勉強しなおせ。何処が安いんだそれの!」
「なによ、夜遊びとかの最中にそれっポイ相手に誘いとかかけられたいわけ?」
「そこから離れろ!」
「まあネガはもうないけど、ネタとしてはまだ生きてるしあなたの褌姿も」
「人の話を聞け!」
 といって紫が慶悟の話を、正確には抵抗を聞いた試しなどないのだがそれでも言わずにはいられない。
 バレンタインの教訓を活かし、今日ばかりはと興信所にも編集部にも近寄らなかった。近寄らなかったがしかし往来でばったり出会ってしまっている。
「……予定では三日後くらいに『偶然全く会わなかったからな!』と、パチンコ屋の除霊の礼のチョコでも渡して済ませる筈だったんだが……」
「何か言った?」
「世の不条理を呪っていたところだ」
「あーそうよねー世のなかって不条理よねー。私も常々そう思ってるわ」
「皮肉でいったんだ俺は!」
 大体! と、慶悟は声を荒げて墓穴を掘る。
「お前の場合は好きで貧乏なんだろう。貧乏が嫌ならさっさと兄貴の元へ帰ればいいだけの話だろうが!」
 紫の貧乏は溺愛してくる兄から逃げて引越しを繰り返している所に起因する。慶悟の言い分は尤もだったが、しかしそれは紫の逆鱗に触れるには十分すぎた。
 不気味に沈黙した紫は次の瞬間真っ白な顔で慶悟を見返した。本当に何の表情も浮かんでいない、真っ白な顔だった。
「……さっきは聞き流してやったけど二度もいいやがったわね?」
「…………紫?」
「ふっふっふっふっふっふっふ」
 すうっと息を吸い込んだ紫は次の瞬間迷う事無く声を張り上げた。
「皆さーん! この男はねー! 女の純情踏み躙った挙句可愛い恋人のいる少年に色目使って無理矢理唇奪い倒す最低男でーす!」
「わかった、わかったからやーめーろー!!!!!!」
「更に下着の趣味はー!!!!」
 やめない紫を小脇に抱えて、慶悟は往来から逃げ去った。



 逃げた先でも紫は黙らず、結局慶悟が『飯でいいんだなっ!?』と言わさせられるまでにさして時間はかからなかった。



「はーおなか一杯。ごちそうさま」
「……そりゃ良かったな」
 抵抗空しくおごらさせられたのは高級フレンチでもイタリアンでもなく焼肉だった。手っ取り早くカロリーになるものを選択している辺りが紫らしい。
「なによご機嫌斜めじゃない?」
 きょとんと紫が見上げてくる。
「……何で俺の機嫌がいいと思えるんだあんたは」
 溜息をついても紫には通用しない。紫は笑ってぽんぽんと慶悟の肩を叩いた。
「ま、ほんとごちそうさま。これでとりあえず飢え死にはしないで済むわ暫く」
「……本当にどう言う生活してるんだあんた」
 飢え死にの一言に流石に慶悟も冷や汗を流す。さあねと軽く笑った紫はもう一度ありがとうと言った。
 ふっと慶悟は肩の力を抜いた。
 厄介な相手だが、妙に憎めないのはこういうところだ。血も涙も基本的にはないくせに、時折無防備になると言うか優しくなると言うか。掠めるように『可愛らしさ』を見せるのだから性質が悪い。
 ――だから。
 そこまで考えて、慶悟は忘れていた一つをふと思い出す。
「ああ、そうだ紫?」
「うん?」
 ほらと慶悟はずっと手にしたままだった包みを紫に放り投げる。受け取った紫はその包みと慶悟を見比べて小首を傾げた。
「食費の支援だ。太るなよ?」
「は?」
 きょとんとする紫に背を向けて、慶悟は夜の雑踏へと踏み出した。



 包みの中身はパチンコ屋の除霊の礼の板チョコ十枚。
 そして本日の食事代は、それでも前から一応は用意していたものだった。
 覚悟は完了していた。そして礼になるものも用意はしていた。
 なんだかんだと言いつつも、
「飢え死にされるのは嫌らしい」
 そう呟いて、慶悟は苦笑した。
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東京怪談
2004年03月25日

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