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『Jesu , Joy of Man's Desiring…… 』
ケーナズ・ルクセンブルク1481)&ウィン・ルクセンブルク(1588)

 おさえられた暖かい光の下で、ピアノは歌っていた。
 広くもなく、狭くもない。つまり、ちょうど気分が落ち着くほどの特徴のないスペース。
 比較的綺麗に磨かれたリノリウムの床は薄灰色で、天井で回る大きなファンの影を僅かに映しこんでいた。
 これといって珍しくもない酒場の一つ。
 カウンターや丸テーブルにまばらに腰を落ち着けた客の隙間を縫うように、ピアノ弾きが熱を込めて音の羅列をじぐざぐに送る。
 ピアノ弾きの指からあふれ出る音色は、どこかで聞いたような、まったく知らないもののような。
 簡単なアルペジオで指ならしをした後にかなで出した、それはバッハのインベンションと呼ばれる練習曲の一つだったが、すさまじいアレンジがなされている。
 通常ならばニ声であるはずの音階に、幾つも追加されたテンションノート。それだけで、クラシックの練習曲は小粋なジャズに変奏されていた。
 目立たないながらも、こういった趣向を凝らしてくれるこの店を、意外と来店する客は気に入っている。
 この時、奥のボックスを陣取っていた二人連れの客も、その例に漏れなかった。
 好奇の視線を集めることが当然のような外見の二人。男と、女だった。
 男の一見すらり、として見える身体は、しかし華奢ではない。肩下でまとめられた金髪が飾る下には、青い目を覆う銀縁の眼鏡がかけられ、時折照明の光を反射した。
 名を、ケーナズ・ルクセンブルク。彼はどうやら先ほどこの店についたばかりのようで、まだ店の空気にゆったりとしている様子ではなかった。
 対して、そんな男を眺めている女は、ウィン・ルクセンブルクである。
 豪奢な白金(プラチナブロンド)の長い髪を背に垂らし、座っていてもその肢体が素晴らしくしなやかで、豊満であることが見て取れる。少し切れ長な瞳は、兄と同じ青の色。けれども、少しだけ異なる光彩を見せていた。
 ウィンは、すでに一杯グラスをからにしたらしく、艶やかに微笑んで兄に声をかける。
「お兄様とこうして会うのも、なんだか久しぶりね」
 心地よい妹のソプラノ。確かに、久しぶりだ、と思いながら、ケーナズは「そうだな」とだけ答えた。
 プライベートタイムだというのに緩めもしていなかったシルクのタイを少しくつろげ、ウィンの手元にあるグラスを見る。
「何を飲んだ?」
「シュロスアルトですわ。懐かしい味がするの」
 妹の言葉に、ケーナズはほう、と方眉を上げる。
 シュロスアルトとは、ドイツ、デュッセルドルフの地ビールであるアルトビールの一つであった。中でもシュロスアルトはデュッセルドルフでは大手のメーカーの一つで、日本には輸入品として入ってくる。
 「アルト"Alt"」の語源は英語の"Ale"と同じところにあり、古ゲルマン語で「苦い」という意味だが、アルトビールは何も苦いだけではない。
 甘さと、苦さが絡み合った――――そんな独特のコクが、飲むものを存分に楽しませてくれるのだ。
 数年前からこうした地ビールも日本の市場に流通するようになってきており、日本独自のアルトビールも増えてきている。ビールをこよなく愛する双子には喜ばしいことだ。
「では、私もそれを一ついただくとしよう」
「そう? じゃあ、私にはグリューワインを。白がいいわ」
 カウンターに声をかけると、すぐに赤銅色の液体を湛えたグラスが運ばれてきた。グリューワインは、只今お造りいたします、とだけ言葉を沿えて厨房に引っ込んでいく。
 それを見ながら、少し頭をすっきりさせたいの、とウィンは呟いた。
 先に少しアルコールを回していたおかげか、今日は少しだけ滑らかに兄に話しかけることができる。そのことが、少しだけ嬉しかった。ウィンを饒舌にしていた。
 対して、いつも愛想もなく、素っ気ないケーナズもそれなりにゆったりとした表情でそんな妹を眺めている。
 やがて暖かな白グリューが運ばれてくる頃には、アップテンポなインベンションは作曲者を同じくする――Church Cantata BWV147. 「Herz und Mund und Tat und Leben(心と口と行いと生命もて)」を原曲とする――主よ、人の望みの喜びよに変わっていた。
 街中や、テレビなどもでもよく耳にする。ここ日本でも親しまれている曲だ。
 今日の選曲はどうやらJSバッハらしい。
 音楽史でいうところのバロック時代に作られたチェンバロ(初期鍵盤楽器で、鍵盤は黒である)により生み出された二声音楽の次には神と人の喜びを歌う賛歌。なかなかに面白い選曲だ。
「さっきまで演奏されていたのは、インベンションの第一番でしたわね。私、あれのチェンバロの演奏を聞きに行ったことがあるわ」
「……ほう。それは興味深いな」
 アルトビールを傾けながらケーナズはそう呟き、ふと、気づいたように妹に目を向けた。
「ウィン。EOLHはどうだ」
『EOLH』。そう聞きなれないが、滑らかに発音された単語。
 唐突なケーナズの言葉に、ウィンはぱちくり、と目を瞬かせる。
 そうして苦笑して、「そうね、今のところなんともいえないわ。まだ、始まったばかりなのよ――」と答える。
 彼が呟いた、それはウィンが設立した会社の名前だった。
 元々は実家の古城ホテルの東京営業所として運営していたホテルを、新しい志しでもって、彼女は『EOLH』と名づけ、生きがいへの道の一歩を踏み出した。
 『EOLH』の存在目的は、様々な理由で埋もれていってしまう音楽の才能を支援し、伸ばしていく為の援助を与える、というものである。
『EOLH(エオル)』とは、古代ルーン文字で複数の意味を持つ。三叉を模り、表すことは保護、防衛、忍耐力、セッジ、大鹿、庇護、隠れ場所、警告、パトロン……。
 ウィンがその中でも選んだ意味は、保護、防衛、庇護、パトロンと言えた。愛する芸術、音楽の為に、自らができることをしたかった。……名をルーン文字からとったのは、自分の分身のようなものだと、そう思ったから。彼女が持つ名、ウィンも、そして兄のケーナズという名も、ルーン文字と共にある文字である。
「……ここに来るまで、本当に長かった気が、するわ」
 そして、遠い瞳でそう呟く。
 大学教授になることを夢見て、生きていた自分。けれども、金銭的感覚が崩壊している兄では、実家をつぐことはできなかった。そうわかった時点でウィンの夢は潰え、こだわっても仕方がないと思い開いたつもりが、そうもいかなかったらしい。
 人間なんて、とても弱いものね、とウィンは思う。結局、別の理由があったとはいえ兄との仲はこじれたし、自分は万年学生の身に甘んじた――――。
 けれども、今では自分には『EOLH』がある。目標が。生きていく中で輝いていける、生きがいというべきものができたのだ。
 そして、そうなった今――――ウィンにはケーナズが選んだ道が、少しずつだけれどもわかるような気がしていた。
「お兄様こそ、どうなの? 無理は、なさっていらっしゃらない? 研究は、進んでいるかしら……」
 流れるような口調でそう漏らされた妹の言葉に、ケーナズは日頃はけして見せないような顔をしてまじまじとウィンを見つめてしまった。
 けれども、その中に確かにこもった心配の色に、少しばつが悪そうに瞳を揺らがせ、「そうだな」と呟く。
「一朝一夕には、ゆくまい。言うなれば、私もまだまったくもって駆け出し、というわけだ」

『医学部に進学したというのに、何故医者にならなかったの?』

 それは、いつかこの妹によって尋ねられた言葉。
 自分がその時になんと答えたのか、今となってはあまり思い出せもしない。
 けれども、適当な言葉であしらってしまった覚えだけはある。肉親にさえなかなか本心を見せることのないケーナズのことを、日頃から勝気で、素直に感情をだす妹が理解しがたかったのも、無理はあるまい。自分は、自ら歩み寄ろうとはしていなかったのだから。
 だが、ケーナズには彼なりの信念があった。なんとしても、叶えたいことが。
 それが、HIV――(Human Immunodeficiency Virus)――ヒト免疫不全ウィルスを死滅させることを可能にする特効薬の開発だった。
 HIV感染症、俗にいうAIDSはHIVウィルスによって引き起こされる。
 感染したからといって全ての者が発症し、死に至るわけではない。けれども、発症してしまえば今現在の医学でも圧倒的な致死率を誇る病だった。
 臨床医になることを、考えなかった訳ではない。だから医学部に進んだ。けれども、医学部で学ぶことを続けている内に、ケーナズの胸のうちは変化していったのだ。
 生化学の世界に魅せられたということもある。けれども、それ以上に。
 ケーナズは少しでも多くの人々を死の手から救いたかった。薬さえ。ウィルスを死滅させる特効薬さえ作ることができれば。たとえ、自らの命が尽きるまでの間にその目標が達成できずとも、自分が残した研究が気の遠くなるような時の後に数億の命を救うかもしれない。
 臨床医として人々を救う手が軟弱だと考えたのではない。ケーナズが選んだ、生きる道がそれではなかった。ただ、それだけのことだった。
 生きがいとするものが、彼にとっては薬の開発であったということ。
 誰にそれを理解してもらおう、というわけでもなかった。自分で決めたことは自分が知っているし、その信念に曇りはない。それ故、惰性のような立場に甘んじていた妹をひどくしかりつけた事もあった。
 けれども――――。
「おまえも、いい目をするようになったんだな」
 ゆっくりと味わって煽っていたアルトビールが底をついたのを見ながら、ケーナズがぽつり、と呟く。ウィンも、自らの生きがいに生きている。それは、彼女を見ているだけでよくわかった。
 そして、それと共に兄であるケーナズの生き方にも、知らず理解を示し始めている。理解しようと、努力している。
 選んだ道はまったく違った。だが、重ならずとも、自分たちが持つ最高の力でもって社会に貢献していきたい。人生を歩んでいく上で、それが二人の生きがいであり、何にも勝るヨコロビ。
 ゆったりとした様子でウィンを見やるケーナズの目は、確かに兄が妹を見守る目だった。
 そんな視線に戸惑いながらも、ウィンもまたゆるやかに微笑む。
「さぁ、もう少し飲みましょう? お兄様。今日は、ゆっくりと話をしたいわ……」

 ウィンの言葉に「そうだな」と頷き、ケーナズが手をあげて次のオーダーを告げる。
 夜は始まったばかりだった。
 今日は、互いの夢を、生き様を。存分に語ろう。

 主よ。人の望みの喜びよ――。

 随分と似合いの曲が演奏されたものだ。
 ふ、と口元にだけ笑みを浮かべて、ケーナズは心でだけ、そう呟く。

 生憎、天の父には祈りはしないが。生きていく道でふと立ち止まり、歌い上げる歓喜は、この曲と似ているかもしれない。

 そうしてピアノはコラールの最後を歌い上げ。
 次なるバッハが店の中に鳴り響き始めた――――。


END
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
猫亞阿月 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月22日

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