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『砕けた心 』
楷・巽2793

 ――夢を見ていた。
 遠い記憶の、決して拭えない忌まわしい過去。傷つけられ、虐げられた絶望の日々。
 今でもほら、こんなに鮮明に……。



 ハッと気がついて、楷・巽(かい・たつみ)は勢いよく身体を起こす。
 見慣れた自室。いつものベッドの上。
 現実をようやく確認して、巽は大きく息を吐いた。額に滲む汗を微かに震える指でそっと拭う。
「夢、か……」
 ポツリ、呟く。
 強張る頬を何度か撫で、ようやく気持ちを落ち着かせる。残滓のように心にこびりついた恐怖は、未だ忘れることは出来ないのだろうか。
 先程まで見ていた夢――悪夢と呼ぶには、あまりにも鮮明で。
 生々しいリアルな感触が、まだ皮膚の上に残っているぐらいだ。
「まだ……」
 目の上を掌で覆い、暗闇に回想する。
 あれから二十年。いったいどれだけ経てば、この傷は癒えるのか。自分自身、その不甲斐なさが腹立たしい。
 この苦しみが何時まで続くのだろう。
 ベッドの上で顔を伏せ、巽は小さく言葉を零した。
「……母さん……」
 と。



 うつら、うつら……。
 未だ幼い自分がいる。身体に幾つもの傷痕をこさえた少年。
 これは夢だと自覚するも、巽はただ流れるままに意識を任せた。

 ビクリ。
 身に付いた傷を庇うように、夏だというのに巽は長袖を着ていた。母親が着せてくれたのだが、今の彼にはちょうどよかった。気温は暑いのに、何故か寒けを覚えていたから。
 隣を歩く母もまた、長袖を着ている。
 時折、繋いだ手がギュッと強く巽を握る。その度に、視界に映るのは袖から見える傷痕。
「お母さん…」
「……ん? どうしたの?」
 心配そうな声を出した巽に、目線を合わせる為にしゃがみ込む母親。元気付けるように浮かべた笑みは、どこか痛々しい印象を受ける。
 子供心にも、母親の無理が読み取れた。
 だからこそ巽もギュッと手を握り、思い切って聞いてみた。
「お母さんは……大丈夫…?」
「え?」
「……だって…腕……」
 子供の指摘に気付いたのか、母親はハッと腕を胸元に引き寄せた。
 が、すぐに気を取り直し、安心させるように巽の頬を撫でる。
「大丈夫よ。お母さん、これくらいなんでもないんだから。お父さんもね、きっとそのうち立ち直ると信じてるんだから」
 巽自身に言い聞かせながら、まるで自分に言い聞かせるように。
 母親の掌が微かに震えていた事を、子供は気付かない振りをする。



 ――虐待。

 職を失った父親が、自暴自棄になって酒に溺れた結果だった。
 常に家に閉じこもるようになり、気に入らないことがあればすぐに暴力を振るう。子供である巽や、妻に対してだけでなく、巽の祖母にまで酷い暴行を与えるようになっていった。
 特に巽への虐待は酷く、毎日傷だらけなる毎日だった。辛うじて母親が庇ってくれるおかげで、なんとかなっているという辛い生活を、彼は涙を堪えて耐えなければならなかった。
 優しかった父の記憶があるだけに

 ……お父さん……どうして……。

 そうして過ごしてきた生活は、突如ピリオドが打たれた。



 アパートのドアを巽が開ける。母親は自転車を置く為に駐輪場の方へ行ったので、先に巽だけ戻って来たのだ。
 そして。
「ただいま…」
 しんと静まり返った空間。
 あれ、と巽は思う。いつもなら祖母が出迎えに来る筈だ。おかしいなと感じ、おそるおそる足を進めていくが、彼の足音以外一切の物音がしない。
 不意に。
 異臭が鼻につく。
「……お祖母ちゃん?」
 呼んでみる。返事はない。
 不安を覚え、思わずぴたりと足を止めた。
 息を呑む音だけが、静寂の空気に響く。
 掌に滲む汗を拭いながら、巽は思いきって居間の扉を開けた。
 そして、目に飛び込んできたのは――

 赤。紅。朱。アカ。あか…………いっそどす黒いほどの、赤。

 部屋中を染めるその色に、巽は大きく目を見開いた。
 いったい何が起きているのか。そこで何が行われたのか。理解することすら出来ず、ただただ茫然と立ち尽くすだけで。
 床に倒れ伏しているのは、ズタズタに切り裂かれた祖母の身体。周りを染める血の海に、既に事切れているのが誰にでも解った。ただ、子供の巽にとっては、そこに倒れているのが祖母だとは、その時はまるで理解出来ずにいた。
 その部屋の中央。
 形相をまるで鬼のように変化させた男が立っていた。
 血走った目。愉悦に歪む唇。大量の返り血を全身に浴び、手に握りしめるのは赤く染まった包丁。
 そして、男がゆっくりとこちらを向く――。

「お、とう……さ、ん……?」

 それが、巽が最後に零した言葉だった。



 その後の記憶は曖昧で。
 不気味な奇声が、ただただ耳の奥にこだまする。
 暗転した視界に最初映ったのは、血の気を失い、真っ白になった母の顔。ギュッと抱き締める母の腕の感触を背に感じながら、全ての感覚が世界からシャットアウトされていく。

 ……お母さん……どうして……お父さん……どうして……

 思うことは、それだけ。
 襲ってきた事も。庇われた事も。
 まるで夢の中のような出来事。
 何度も、何度も。赤い飛沫が母の背に散る。
 そうして。
 どれだけの時間が過ぎただろうか。
 覚えている事はあまりない。周りからの雑音で得た情報は幾つかあるけれど、巽にとって実感している記憶は、恐怖と衝撃の無数の刃。身体だけでなく、心すら無惨にも引き裂かれた。
 結局、心を閉ざしてしまい、施設へと預けられる形になった。
 幼い子供に起こった悲惨な出来事。
 同情する精神科医達の懸命の力添えのおかげで、巽はなんとか心を取り戻す事が出来た。
 しかし……



 ふと、目が覚めた。
 眦に手を当てると、微かに濡れているのが解る。
「涙、ですか……」
 まるで他人事のように呟き、巽は身を起こした。周囲を見れば、まだ夜明けには遠い時間のようで、ほのかに薄暗い。
 小さく溜息をついてからベッドから抜け出し、窓辺へと足を進める。窓ガラスに映る自分の姿をなぞるように、そっと指を伸ばしてみる。
 普段は、まるで表情の変わらない顔。あの事件の後遺症からか、感情を表に出すことが出来ずにいた。
 それなのに。
「寝ている時だけは……」
 涙を流せる自分に驚くと同時に、呆れもする。
 見ている夢は、あの時の記憶。何度も、何度も。壊れたテープのように何度でも繰り返す。
 忘れたいのか。忘れたくないのか。
 それすらも、今はもう分からなくなってきていた。

 ただ。
 失くしてしまった感情をいつになったら取り戻せるのか。

 今はもう、それだけを心の糧として、前に進むだけ――――。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
葉月十一 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月17日

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