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『二人のための、廻る『ロマンス』 』
セレスティ・カーニンガム1883

 ロマンスが――聞えてくる。
 ヴァイオリンと管弦楽のための『ロマンス』。
 ……確かあの曲は、ベートーヴェンでしたっけ、と。
 上司のおかげで、すっかりと詳しくなってしまった純音楽についての知識を思い返し、
 らしい、ですね。
 屋敷の中を歩く一人の青年秘書は、知らず微笑を零し、歩みを緩めていた。
 この先から聞えてくるヴァイオリンの音色は、間違いなくこの先にある上司の部屋からのもの。
 書物を、絵画を、音楽を。芸術を愛する上司の部屋から、音楽が流れてくるのは、確かにいつもの事ではあるのだが――。
「嬉しい、事です」
 緩やかに盛り上がる旋律の欠片は、その題名にも相応しく、淡い夢のような響きをもってして、弥生のこの日の、甘い太陽の彩を鮮やかなものとしていた。
 一般的には、音楽家の命ともいえる聴力を失い、しかしそれに打ち勝った、不屈の作曲家として知られるベートーヴェンだが、一方で彼は、この『ロマンス』のような、優しく穏かな繊細さを秘めた曲も書き残している。
 ――その、美しさは、
 今の上司の心の内を現す事のできる、数少ない曲の内の一つと考えたとしても、何ら遜色は無いほどで。
 逆を言えば、今の上司の心の内は、あのベートーヴェンであっても書き表すのは、難しいほどで。
 春ですね、と、
 青年は、廊下の窓の外を眺めながら、半瞬ほどその歩みを止め、再びゆるりと歩き出す。
 窓の外には、上司直属の庭師の設計した、一面の菜の花に彩られた春色の箱庭があった。
 廊下を曲がり、もう一度曲がり、真っ直ぐ歩けば近づいてくる、ロマンスの旋律。軌跡を引くヴァイオリンの独奏に、新しい季節の始まりを告げるかのような調和が重なった頃、
 しかし、秘書は。
「……何を――、」
 それを目にし、うってかわって絶句する。
 そこには、上司の部屋の扉へとぴたりコップをあてがい、その底を自分の耳へとつけている、少女の姿があったのだから――。
 それでも秘書は、表情を引きつらせながらも、何とか瞬時に笑顔を取り繕うと、
「……何をなさっているのです?」
 相当夢中になっていたのか、全く秘書の気配に気がついていなかった、司書でもある少女へと声をかける。
 途端、
 彼女はぎくり、と身を震わせると、
「な、ナニって……し、シャカイケンガク?」
 てへへ、と、適当な笑顔と適当な言い訳で、秘書の問いへと答えを返してきた。
 しかし秘書は、すかさず少女の手を取ると、
「そこでそんな言葉を覚えていらしたんですかっ……全く、盗み聞きだなんて趣味の悪い」
 廊下の花瓶の中身を替えようと思い、ここまでやってきていた事も忘れ、何とかいつもの勢いで怒鳴らないようにと声音を低める。
 ――この扉の向うには、あの上司が、一人きり。そうして聞えて来るのは、憂いではなく、喜びに満ち溢れるかのようなト長調の響き。
 上司の考えているであろう事は、秘書にとっては考えるまでも無い事であった。
「もっともとっ! あったしは本の精霊さんだよっ?! あんたなんかより語彙はおーいもん。バカにしないでよねっ!」
「しっ! 静かに! それに私は、そういう話をしているんじゃあありません! そっ、総帥の部屋から盗み聞きしようだなんて!」
「人がワルいよっ! あたしはそんなコトかんがえてないもーん。こう、ロマンスをききながら、あたしもそーいうきぶんになってみようと思って……」
 秘書の注意に、しかし少女はうっとりと胸の前で手を組むと、天井を見上げ、ほっと一つ、幸せそうな溜息をついた。
 ……そういう、気分。
 誰かを、想う――そんな気分の事。
 この扉の向こうの上司はきっと今頃、幸せという名の海の、波の音色を聴いている。限りない幸せの時を、ゆっくりと、享受している。
 勿論秘書には、少女の言いたいところも、わかる事にはわかるのだが、
「あなたにはまだ早うございますっ!」
 駄目ですよ、とその身を屈める。
 しかし少女は、ふんっ、と仁王立ちになると、
「はやくないよ! あんたなんかよりいーっぱい生きてるもんっ! あたしもおじさんみたいに、ハルを感じるのー!」
「良いですからっ! さぁ、こっちにいらっしゃい!」
 つい先日、この屋敷にやってきた春は。きっと永遠に終ることの無い、悠久の花開く季節。
 上司と、上司の想い人とを結びつけた糸は、やがてこの屋敷の中をも、微笑みの溢れる中へと包み込んでいった。
 ――セレスティ様の笑顔が眩しい、と。
 それからずっと、屋敷の中で聞かれ続けている言葉がある。そうしてこの屋敷には、その言葉に欠片ほどの嘘も見出せないほどの、嬉しそうな、楽しそうな上司の笑顔があった。
「えーーーー、やだああ!」
 だからこそ、それほどまでに、幸せそうな上司の時間を、
 ……邪魔したく、ありませんから。
 秘書は、暴れる少女をもう一度何とか落ち着かせると、身を屈めたままじっとその瞳を見据え、言聞かせるかのようにして囁いた。
「クッキー、焼いて差し上げますから……」
「えっ、本当?!」
 飛び上がる少女へと一つ頷くと、秘書はその手を引き、そそくさとその場を去って行く。
 ――その後には。
 部屋の前の窓辺に、秘書の忘れて行った花瓶と、その廊下には、少女の使っていたコップが残されたまま、春日にきららと輝いていた。


 たった一人の、愛しい女性。ようやく出会えた、あの人と。
 静かな、時の流れを。
 この悠久の時間を、穏かな時の流れを。
「……私は、」
 私はあなたと共に、感じていたいのですから。
 生涯愛する人はあなただけ。
 唯一恋人と呼べる、あなたと、共に――。
 ――思い返す、その度に。
 部屋のテーブルに腰掛ける青年の――この屋敷の主人、セレスティ・カーニンガムの唇からは、自然と想い人の名前が零れ落ちていた。
 彼女の耳元で囁く常と同じく、花の蕾が咲き開くかのような、甘い、甘い声音で呟けば、その響きを聞いているだけでも、幸せの中に包み込まれたような感覚となってしまう。
 けれど、ですね、
 ……言葉の呪文よりも。あなたの名前を冠した、私の呪文よりも。
 やはり本物のあなたの方が美しいでしょうから――。
 手元の紅茶を、一口。
 セレスは、今は大学にいるであろう彼女へと、やわらかな微笑と心の中の想いを向ける。
 離れていても。
 この想いはきっと、今でも彼女の元へと届いているはずなのだから。
 ほら、と、
 カップをソーサーの上に、静かに置き添えると、
 春風の妖精も、彼女達は好奇心旺盛です。きっと悪戯に、あなたの元へと、参るでしょうから。
 私の想いを花束にして、両手一杯精一杯にして、あなたの元へと、手渡しに行くのでしょうから。
 ……その花束は、きっと、彼女達では抱えきれない――ので、しょうけれども。
 ですからやはり、あなたが直接私のところへ来て下さらなければ……と、セレスは窓辺に揺れるレースのカーテンに、ふ、と視線をそちらの方へと移していた。
 ――視力の弱い瞳に、その景色は、直接は見えてこないものの、
 まだ沢山に、咲いていますね。
 心に感じられる、窓向こうの庭の花々の、楽しく踊り歌う声。部屋の隅から流れる旋律に――『ロマンス』に夢見るかのように、揺れに揺られてさらさらと。
 海色の瞳が、すっと細められる。
 窓からの風に、長い銀髪がふわりと揺れる。
 この時、彼女のことだけを考える事のできる、優しい時間。ヴァイオリンのビブラートは、そんな時間の倍音にも似て。
 ふと、
 考えれば、庭の方へと意識が移されれば、折も折り、セレスには思い返される事があった。
 セレスは、テーブルの上の紅茶へと、もう一度静かに手をかける。
 ――それは数日前、彼女がこの屋敷に来ていた時の事。
 建物の影にあるあの庭の椅子に腰掛けたまま見つめていた、菜の花畑の中の、少女の――否、女性の、姿。
 ねぇ、セレ様、と、
 ふんわりと、黒のドレスのようなスカートを風に遊ばせ、振り返ったあの少女。
 ……本当に、綺麗。
 大地を覆い隠す花の黄色に、青空からの光が風に飛び散り、彩り豊かな春の時間が、二人を何も言わずに包み込んでいた。
 セレスは。
 そんな一時の幸せを感じながら、
 ――いいえ、と、
 呟く彼女の溜息のような声音に、静かにそっと、微笑みかける。
 それは、星の光にも似て。太陽の刻には、決してここまで届いてこないもの。
 それと、同じですよ。
 ――思い出し。
 セレスはティーカップを、甘くゆるりと取り上げた。
 ほのやかに時間に彩を与えたのは、薔薇の花――ローズティの香り。
 一口すれば、紅茶の甘味はセレスの心を温かく包み込み。花の香りは、世界中に広がり始めた、新しい季節の香りにも似て、
 そう、
 ……あなたにも、似て、
 窓から入り来る風に、戯れるように舞い踊る。花の妖精達のように、陽気に、愛らしく。
 この窓の向こう、風の揺らぐその先には、あの日二人きりで時を過ごしたのと同じ、菜の花の絨毯が咲いていた。一面の蜜色は、確かに彼女の言う通り、美しい輝きで二人を楽しませてくれる。
 しかし、ですよ。
 考えてしまえば、すぐにわかる事。
 あの日セレスが、彼女に伝えたその言葉。
 太陽があれば、星は隠れてしまうように。あれほど美しい星達も、太陽という名の輝きには、決して勝る事ができないように。
 妖精が踊り始めれば、誰が彼女達よりも花を見ようと言うのでしょう――、
 ですから、と、
 名前を、一つ呼び、
「あなたの方が、お綺麗ですよ」
 彼女へと、そっと囁きかけたあの日の言葉が、不意に唇から零れ落ちる。
 数瞬、セレスはカップを手にしたまま、小さな驚きのままにその動きを止めると――、
「……です、ね」
 仕方の無い事ですね、と、瞳を細めて微笑する。
 セレ様、と駆け寄ってくるあの気配も、声音も、温もりも。
 一度知ってしまえば、もう二度と手放す事は許されないもの――許す事の、できないもの。
「参りましたね」
 セレスはカップをソーサーの上に置き、テーブルの上にそっと頬杖をついた。
 窓の外へと意識を移し、瞳を閉ざし、耳を澄ませる。
 ……聞こえて来るのは、小さな鳥達の歌声と、菜の花の風に揺れる音。
 さらさらさらり、揺れる花畑に。
 ああ、そういえば、と。
 セレスはふ、と、思い出す。
 ――そろそろ、ムスカリーの花が咲く頃でしょう――鮮やかな青紫色の、少し、面白い形をした花です。
 葡萄を、丁度逆さまにしたような形で……いいえ、きっと説明するよりも、ご覧になっていただいた方が、早いでしょう。
 きっとあなたにも、楽しんでいただけるはずですから。
 ですから、
「――"Generous love"」
 その時は又、こちらからお呼び致します。
 毎日のようにここに来てくださっているあなたを、あえて私が、迎えに参りますから。
 その時は又、庭でいつものようにお茶を囲みながら、
 けれどもその日だけは一言、いつもとは違う言葉を、あなたに伝えましょう。
 ムスカリーの花言葉を。あのイヤリングの揺れる、あなたの耳元へと――。


 二つの、『ロマンス』――ト長調の旋律が、ヘ長調へと代り、それから久しく。
 ……ムスカリー、ねぇ。
 もうそろそろその季節か、と、窓から箱庭を見下ろし、その庭の創造主は、廊下の窓の外を眺めながら、一瞬ほどその歩みを止めていた。
 上司の部屋へとも通じる廊下。飾られた花瓶の中身に用事があり、庭師でもあり、セレスの部下でもある青年は、ここまでやって来ていたのだが。
 廊下を曲がり、もう一度曲がり、真っ直ぐ歩けば近づいてくる、ロマンスの旋律。ヴァイオリン同士の掛け合いの後、最初の旋律が曲の流れにふわりと降り立ち、穏かに流れた丁度その頃。
 しかし、庭師は。
 上司の部屋の扉の前に、そこにあった、小さな影と大きな影とを見つけてしまっていた。
「――キミ達、何をやっているのかな?」
 途端、
 ぴたり、と扉にコップをあてがい、夢中になっていたのか、全く庭師の気配に気がついていなかった司書でもある少女と、どうにものせられ易い性格なのか、すっかりと少女からの小声での実況中継に夢中になっていた秘書とは、ぎくりと身を震わせると、
「「な、何って――」」
「シャカイケンガク?」
「いえあのその、やましいことなど何も……!」
 てへへ、と浮かべた適当な笑顔と、言い訳にもなっていない動揺の言葉とで、少女と秘書とは順に、彼の言葉に答えを返した。
 その、反応に。
 ……へぇ、と、
 庭師はあからさまに、意地の悪い笑顔を浮かべて見せると、
「どうやらキミ達には、ちょっとオシオキが必要なようだね?」
 カスミソウの差し込まれた窓辺の花瓶を手に取るついで、秘書の肩へと手を添える。
 その妙な力の甘さに、纏わりつくかのような錯覚に、秘書が庭師から距離をとろうとしたその一方、しかし少女はその光景の何に感化されたのか、満面の笑みで胸の前で手を組むと、
「お、おしおきっ?! ねねね、この駄目秘書にさ、オシオキするって言ったの?!」
「――お嬢ちゃんは、今日はどんなオシオキが良いと思う?」
「うーーーーーんっとねえええ!」
「……もうどうでも良いです……」
 この二人が揃った時に、良い目にあった事など一度も無い――疲れ果て、すぐに諦めてしまった秘書が、けれども、一言。
「どうでも良いですから、あっちでやりましょう……あっちで……、」
 これ以上セレスティ様の邪魔をするのは、どうかと思いますから――。


 その、後日。
 次に彼女がここへと来る頃、あの花瓶には、アイリスの花が差し込まれていた。
 セレスによって部屋へと案内されるそのすがら、彼女はその歩みを、二度止める。
 一度目は、箱庭を見下ろすことの出来るあの場所で。
 二度目は、今。セレスの部屋の前――窓辺に置かれた、小さな花瓶の目の前で。
「可愛らしい、ですね……」
 花瓶を見つめ、甘やかに微笑むその姿に、セレスも知らず、表情を綻ばせていた。
 そうして、思う。
 ――もし、あなたに今から、全てを伝えてしまえば。
 あの日のように、二人きりで過ごしたあの日のように、逃げ出すほどに、喜んでは、くれるのでしょうか――。
 例えば、庭に咲くムスカリーの花言葉は、寛容なる愛。その隣、彼女が珍しい、と目に留めていた紫のチューリップの花言葉は、不滅の愛。
 そうしてこの花瓶に、素朴に差し込まれた、アイリスの花言葉は。
「あなたを、大切にします――」
「え?」
 きょとん、と振り返った、その動作があまりにも可愛らしくて――愛しくて。
 この場で今直ぐ、抱きしめて、しまいたくなる。
 ……ですからそんなに、
 言いかけて、思い出す。
 ああ、そいえば――一つ、言っておかなくては、なりませんね。
「アイリスの、花言葉です」
 ですから、そんなに、
 そんなに愛らしく、私の前以外で微笑んでは、いけませんよ。


Fine


14 marzo 2004
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki
PCシチュエーションノベル(シングル) -
海月 里奈 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月15日

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