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『冷たい月と白ワイン 』
ケーナズ・ルクセンブルク1481

 ワインを、味わうのに最適な温度で分類すると3つの系統になる。
 つまり、冷やして飲むのがよいものと、常温で味わうのに適するもの、その中間のほどほどの冷え具合がいいものがあって、それぞれ冷旨系、温旨系、中間系と呼ばれている。
 この違いは含まれるリンゴ酸の度合いによる。製造過程で乳酸発酵が行われると、リンゴ酸よりも乳酸や酒石酸が多くなり、冷やさないほうが適した温旨系の味に近付く。そうしたワインは温度が下がると、ソムリエたちが「味が閉じている」と評する、硬い質感になってしまい、本来の味や香りを楽しめない。
 ドイツの白ワインは、典型的な冷旨系である。
 5度〜7度まで冷やして飲むとよいとされている。つめたい白ワインの、舌がしびれるような辛味と、澄み切った冬空のような喉ごしは、ケーナズ・ルクセンブルクが愛してやまないもののひとつだ。
 恋人と楽しむなら、包み込み、溶かすような、赤ワインの深い芳香が似合ったかもしれない。しかし、独りでそっとグラスを傾けるときは、白ワインのそびえるような味がふさわしいような気がする。
 たとえば、それは銀色の月が冴える、こんな夜の気分だ。

 開発が佳境に入れば別だが、特に忙しくない時期は、いつのまにか職場から姿を消している。ケーナズはそんな男である。彼に言わせれば、それは、日本人がワーカホリックに過ぎるからで、実際、それはその通りなのだろう。
 一歩、オフィスを出れば、プライベートの時間である。
 気のむくままに愛車を駆って出かけることもあれば、ジムで汗を流すことも、部屋でゲームに興じることもある。恋人の都合がつけば、連れ立って食事に、観劇に、音楽鑑賞に出かける。ときには妹の様子を見に行くことも。
 気ままを絵に描いたような、彼のそんな暮らしをうらやむものは少なくない。もっとも、そういうものたちとて、彼の日常のすべてを知ってはいないのである。
 ときおり、舞い込んで来る……言うなれば闇からのおとないとでもいうべきものの存在を――。
 その夜、それは携帯電話の呼び出し音として、ケーナズのもとを訪れた。
 なにをするでもなく、自宅でくつろいでいたケーナズである。呼び出し音は相手の“系統”によって音を変えてあるので、それがどういった種別のアクセスであるかを知り、彼はかるく舌打ちをした。
 いっそ無視しようかと思ったが、話だけでも、と電話を取る。しかし、聞いてしまったら、おそらくそれを請けるだろうことは、彼自身がよくわかっているのだ。
 短く、要点だけを確かめると、ケーナズは電話を切った。
 そして、おもむろに部屋着を着替える。
 それは闇に溶け込むための黒いボディスーツだ。喉元までジッパーを上げると、伊達眼鏡をそっとはずし、テーブルに置いた。
 それが、誰も知らない、彼のもうひとつの日常へとシフトする、儀式に他ならなかった。
 腰のジャックナイフと銃を確認し、ドアへ。
 出がけに、ふと気がついたように、棚からワインを一本取ると、冷蔵庫にそれを入れてから、彼は部屋を後にしたのだった。

 埠頭の倉庫に、ひそやかな男女の息遣いが交錯している。
「これが――」
 あとは言葉にならないようだった。
 初老の男は、老眼鏡のグラスを持ち上げて、自身の裸眼でじっくりと、目の前の絵画を眺めた。
「まさか……本当に」
「お伝えしたはずですわ」
 まるで愛人の腕にでもすがるかのように、カンバスを収めた額に手を触れながら、女が言った。
「私たちに用立てできぬものはないと」
「う、うむ。……いや、しかし……」
 仕立てのよいスーツに身を包んだ男は、当惑と、興奮と、畏れとがないまぜになった感情に、声をふるわせている。
 女は可笑しそうに、喉で笑った。
 猫科の動物を思わせる、きつい顔立ちの女だった。艶やかな黒髪を結い上げ、黒い夜会服を着た姿は、パーティに招かれたセレブリティもかくや。しかし、そこはハリウッドのパーティ会場などではない。
 埃っぽい、港の倉庫なのだ。
 初老の男と、その付き人と思しき男のほかは、相対する女と、彼女と絵画を守るように取り囲んだ屈強な男たちが数人。
「いかがですか。ドイツ絵画史最後の異端と呼ばれた――の筆は」
 女は、高名な画家の名を告げた。
「3年前に、アムステルダムの美術館から忽然と消え失せた『連作 獣と少女』の、これが最後の一枚ですわ」
「ううむ」
 男は唸った。
「お約束通り、お目にかけました。どうなさいます? ここでお答がノーならば、この名画はまた歴史の闇に姿を消すことでしょう」
「……しかし……これは盗品――」
 言いかけた男の言葉は、女の、はじけるような笑い声に遮られた。
「それが何だと仰いますの? だからといって、この絵の素晴らしさが減じますかしら。そんなことはございませんわね。……たしかに、公のオークションにかけたり、画廊に並べたりはできますまい。でも、そうなればこそ、今夜、こうして、御大のお目にもかけ、あまつさえ、お売りすることさえできますのよ……?」
 牡丹のような紅い唇から紡がれる言葉は、おそろしい毒を含んでいた。
 人をまどわす、妖花の毒だ。
「……よかろう」
 観念したように、男は言った。
「いくらだ」
「2億」
「ふざけるな」
「よぉく、おわかりのくせに」
 女は微笑んだ。
「…………小切手でいいな」
「結構ですわ」
 握手をもとめて、女が手をさしのべた。マニキュアもまた、目を射るような赤だった。
 そのとき。
 カン――と、渇いた音を立てて、無情なナイフの刃が、その旨に突き立った。
「あ――」
「な……っ」
 カンバスの上を、荒々しく波打つ油絵具がかたちづくる、黒い犬をしたがえた裸の少女――。その胸の上に、ナイフがはえている。
 女が金切り声をあげ、初老の男が衝撃に膝を屈した。
「騒がしい。……どこまでも芝居かかった女だな」
 こつ、こつ、と、床に響く足音。
 どさり、と床の上に投げ出されたのは、ひとりの青年だった。
「……ね、姐さん……もう――ダメだ……」
 彼が呻いた。
「な、何なの。あなた、誰」
 女は暗闇からあらわれた、金髪碧眼の男に向かって叫んだ。
 だが、彼は質問にはこたえず、
「『本物』は回収させてもらった。……盗品から、さらに贋作を描かせて売りさばくとはな」
 と言った。女の顔色が変わる。
「贋作だと――!?」
 男が声を嗄らした。
「どういうことだ、貴様……」
「うるさいわね。本物を見分けられないものに名画なんて無用の長物。いったい、あなた、誰のさしがねよ!」
 女がしたがえる男たちが懐から銃を取り出して、いっせいに、招かざる客を狙った。
 しかし、にっ――と、その伶俐なおもてには、不敵な微笑が浮かんだだけだ。
 とどろく何発もの銃声。
 初老の男が悲鳴を上げて床に伏せる。
「!?」
 どよめきが、男たちのあいだに走った。
 蜂の巣になったはずの、敵の姿がかき消えていたからである。
「本当に芸術を愛する気持があれば――」
 背後から聞こえた声に、全員がはじかれたように振り返る。だが、遅かった。
「こんな恥さらしな真似はできないはずだ」
 ケーナズの――むろん、それはケーナズ・ルクセンブルクだ――蹴りが、一撃で男のひとりを昏倒させており、あっけに取られる女の前に、まばたきの速度でつめよったケーナズは、彼女に向けて笑みを浮かべてみせた。
「…………」
 女は動くこともできない。
 冬の月のような、それは、美しいが冷たい微笑だった。



 ドイツの白ワインは、典型的な冷旨系――冷やして味わうのに適したワインである。
 5度〜7度まで冷やすのがよいとされている。常温のワインを、冷蔵庫で、7度まで冷やすのに要する時間は、およそ2時間。
 ケーナズ・ルクセンブルクが、諜報員としての、簡単な任務を終えて戻ってくるのに、ちょうどいい時間であった。

(了)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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2004年03月15日

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