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『『心より願う事 ― 水牢の中の花の乙女と蒼の願い ― 』 』
九重・蒼2479
「ねえ、やめようよ。こういうのってダメだって言うじゃない」
「なんだよ、おまえびびってんの? いつもはつっぱってんのにさ」
「それとこれとは別。すごく別」
「ああ、そうかい。んじゃ、おまえは車の中で待ってろよ。俺はシャメールに村の中撮ってくるからさ。ああ、クソ。ブームの時だったらテレビ局や雑誌社に高く売れたのによ」
 ぶつくさとほざくその男は本当に車に装備された充電器から携帯電話を手に取ると、運転席のドアを開けて車から降りていってしまった。
 助手席の彼女は慌てる。彼女自身が先に述べているようにあんな呪いの村に踏み込むなんて冗談じゃないし、心霊番組などでもそれに出演する霊能力者がこぞって言うではないか。怪奇スポットに軽はずみな気持ちで行くのは霊を起こらせる行為だから絶対にやってはいけないと。そう、ただでさえそんな風なのによりによって踏み込む先が・・・
 彼女はごくりと唾を飲み込みながら車の中から周りを見回した。そこは深い山の中。木々がうっそうと生え、星や月の明かりも生い茂る枝に遮られて届きはしない。夏の夜の虫の声や蚊の羽音すらも無い。そこは暗黒無音の世界。
 彼女は泣きそうだ。
 結局彼女は・・・
「待って。あたしも行く」
 運転席から降りた。
 そしてけたけたと笑う彼の腕にしがみついた。
 彼はいつもは扱いづらい彼女がまるで小さな子どもかのようで内心は楽しんでいる。
(はん、かわいいところもあるじゃん)
 先輩の言う通りだ。真夏の夜のデートは心霊スポットに限ると。彼女はかわいく自分を頼ってきてくれるし、密着度も高いと。
 しかし・・・
(だけどまさか、偶然に***村に行き着くとはな)
 彼は唾を飲み込みながら、前方にある光景を直視する。
 崩れかけの石の鳥居。
 その右横には髑髏のような形の石。
 左横には首の無い道祖神。
 数年前に怪奇番組や雑誌を賑わせた***村の入り口だ。
「だけどさ、本当にここが***村なの? あれだけテレビ局のスタッフや雑誌社の人が探していたのに見つけられなかったのよ? それが・・・」
 彼は彼女が両腕でくっつく左腕に最大限の意識を向けながら、だけどそんな素振りは見せずに言う。
「だからさ、俺はここを探して来たんじゃなくって偶然じゃん? それ故にじゃねーの? それにこれはここを取り扱った怪奇番組に出演していたホラー作家が言ってたんだけど、ここはもう魔界の部類に入っていてさ、俺たちが住む世界とは次元が違うんだって。だからたまたま偶然次元が繋がった時にだけ見る事ができるって。その偶然に繋がった道に・・・迷いこんだってさ」
「ひっくり返るような偶然なら、***村に行き着くよりも宝くじの一等の方がいいわ」
 彼と彼女は鳥居の下をくぐって***村に入っていく。
 彼女は***村の中へ行くに従って冷や汗すらもかかなくなっていた。
 喉もからからだ。
 そして彼女の耳は無音であったはずの夜のしじまにしかしいつの間にか入り込んでいた雑音を拾うようになっていた。それはどこか濡れた衣服が擦れ合うようなそんな音。
 その音はまるで真夏の締め切った古い家の中かのようなもあっとして体にまとわりついてくるような不快な空気を震わせて彼女の耳に届き・・・
 そして彼女自身も・・・・・
「キャァァぁああ嗚呼嗚呼嗚呼ああ嗚呼嗚呼ああ嗚呼ああ嗚呼嗚呼ああ嗚呼ああああああああ嗚呼あああああああああああああッーーーーーーーーーーーーーーー。いやゃぁ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼あああああああああああぁぁぁぁぁぁーーー」
 と、いう悲鳴で震わせた。
 これより一週間後に彼と彼女の親は警察に二人の捜索願いを提出し、そしてさらにそれより半年後に彼女だけが路上に倒れている所を発見され、病院に運ばれる。だが19歳の今時の若い女の子であった彼女は、発見された時は醜い老婆かのようにがりがりで、真っ白になっていた髪もほとんどが抜け落ちていて、心も壊していた。そして更に不可解な事に彼女はその数日後に母親と自殺し(警察発表では母親の看病疲れとなっている)、その病院もそれより数年後に潰れてしまう。噂ではその病院に霊が現れるようになったのだとか・・・・。
 それが***村の新たなる犠牲者の話。これが都市伝説なのかはわからない。


 ******
「かしら。かしら。そうかしら」
「どうかしら?」
 両手の無い人形が騒いでいる。
 玩具の山の中で【顔無し】がやっている事といえばそれは布キレで出来た義手を【無垢なる混沌の闇】にちくちくと糸で縫い合わせている。それはものすごく異様で陰鬱な光景だった。
「かしら。かしら。そうかしら」
「どうかしら?」
 ちくちくちくと縫いながら【顔無し】はくすりと笑いながら両手の無い人形に言う。
「何かお話を聞かせて」
 ばたばたと走り回っていた両手の無い人形は立ち止まると、その体を共有する顔二つがお互いの顔を見合って、何かを囁き合っていたかと想うと・・・
「昔々、この日本がまだ貧しい頃、しかし***村だけが潤っておりました」
「おりました」
「その村だけがどうして潤っていたのでしょう?」
「でしょう?」
「それはそれはその***村には花が咲いていたからです」
「です」
「その花とはどんな花?」
「どんな花?」
「それは水牢の中で咲く花。花の名前は【花の乙女】と申しました」
「申しました」
「【花の乙女】とは化生の花」
「化生の花」
「その***村は貧弱な土地の村でした」
「村でした」
「故にその村にいた者たちは化生の花を・・・その村にいた数十人の生娘の犠牲の果てに作り上げ・・・咲かせたのです」
「咲かせたのです」
「それは呪われた花」
「呪われた花」
「だけど村人に富を約束しました」
「約束しました」
「生娘は神への最高級の奉仕物。故にその花は力を持っていたのです」
「持っていたのです」
「その花は咲きます。水牢の中で」
「中で」
「一年に一度」
「一年に一度」
「その***村の上に新月が来た時」
「来た時」
「水牢の中にその月の光が差し込み」
「差し込み」

「「咲くのです」」

「そして咲いた花は叶えます」
「叶えます」
「村人の願いを」
「願いを」
「その願いは、農作物の豊穣、村の安泰、子どもの誕生、その健やかな育ち。願われるのは村すべての幸せ」
「村すべての幸せ」
「しかし・・・」
「しかし?」
「その村に住まうひとりの女がある夜に個人の欲望を【花の乙女】に願いました」
「願いました」
「その女は美しい女。だけど体が弱く・・・一年の半分を床に着いているような女。故に女は願いました、【花の乙女】に。あたしを不老不死にしてくださいと」
「してくださいと」
「そして願いは叶えられ、不老不死となった女はその村から消えました」
「消えました」
「そしてその女の行為が」
「行為が」
「それまで誰もが心の奥底に閉じ込めていた欲望を引き出しました」
「引き出しました」
「村人は誰もが自己の欲望を【花の乙女】に願い」
「願い」
「そしてついに***村は【神刀】を持って悪を倒すこの【風の国】の【調整者】たる【神刀の一族】によって滅ぼされるのです」
「滅ぼされるのです」

「ですが」
「ですが」

「【花の乙女】はその時に行方不明になりました」
「なりました」
「その【花の乙女】に恋をしてしまった【神刀の一族の若者】が連れ去ってしまい、共に行方不明になってしまったからです」
「です」
 まだ話の続きをしようとしていた人形だが、どうやら話に飽きてしまったらしい【顔無し】に壁にぶつけられて、静かになった。
 そしてその代わりに・・・
「そうさ。あたしは理解できなかった。自己の欲望を叶えようとしない他の村人が。あたしは我慢ができなかったのさ。そうさ。あたしは常に死の恐怖と共にあった。苦しんできたんだ、とても。だからその苦しさから逃れるためにあたしは【花の乙女】の見張り役であった許婚であった男を殺し、願った。あたしを不老不死にしろと。そしてあたしは不老不死になった。あはははは。ざまあみろ、あたしを狙っていた死神。これでおまえは永遠にあたしを死の世界に連れてはいけない。だけどさ、だけどね、このあたしの顔を見て。このあたしの顔を」
 【無垢なる混沌の闇】は両手で、顔につけられたマスクをはずした。その下にあるただれた顔。
「この顔は九重蒼の奴の・・・【神薙ぎ】の奴が作り上げた【蒼天の剣】によって作られた傷。そうさ。さすがは神をも薙ぐ(神をも殺す)力を持つ【神薙ぎ】が作り上げた剣。【蒼天の剣】の前では不老不死も関係無い。【蒼天の剣】は不老不死の者をも殺せるのだ。故にあたしのこの顔の傷も癒えない。あたしのこの美しい顔が!!! 顔の皮を剥いでも、それでもこの傷を持ったまま顔の皮膚が再生されるし、違う人間の顔の皮をつけても時が経てばその顔も爛れる・・・。いやだ。いやだ。いやだ。そんなのは嫌だ。だからあたしは・・・」
 両手で顔を隠しながら喚いていた【無垢なる混沌の闇】はそこでくすくすと笑った。
「だけどあたしはとうとう見つけた。【花の乙女】を。人間と幾度か交わり純粋な化生の花ではなくなってしまったけど、だけどまだぎりぎり【種】を絞りだせる。あたしの顔は戻るの。この美しい顔が」
 うっとりとした彼女の声。だけどその彼女の耳に【顔無し】が囁く。
「だけど九重蒼がいる。リュート弾きの小娘も。彼らがやってくる。【花の乙女】を取り返すために。さあ、どうするの?」
 そしてそれに【無垢なる混沌の闇】は答える。
「決まっているわ。あたしは奴らを殺す。だって九重蒼・・・【神薙ぎの鞘】はあの【神薙ぎ】の・・・」
 その時に彼女はなんと言ったのだろうか? 【無垢なる混沌の闇】が憎悪を含んだ声で音声化させたこの物語の答えはしかし、再び騒ぎ出した人形どもの「かしら。かしら。そうかしら」というけたましい声で掻き消されてしまった。
 ・・・。


 ******
 九重蒼は夜の道を制限速度を無視した車で突き進んでいた。ブレーキなどという言葉を彼の運転する車は知らぬ。蒼はクラッチとアクセルの上でだけ足でタップダンスを踊っているからだ。
 そしてその車は、殴るようにハンドルを回されて、ブレーキを蹴るように踏まれて止まった。崩れかけた鳥居の前で。
「あたし、もう絶対にあなたが運転する車には乗らないわ」
 真っ青な顔の彼女は口をハンカチで覆いながらそう感想を漏らした。
 蒼は肩をすくめる。
「それよりもこの車・・・」
「ええ、どっかの馬鹿が踏み込んでしまったようね、この世に繋がってしまった魔界に」
 ***村。そこはこの世界とは違う次元軸に封印されたはずだった。それでも時折自然にこの世界にその村への道が繋がってしまう事がある。だが今夜は違う。今夜は・・・
「いるな。もう既にこの***村に【無垢なる混沌の闇】がいる。そして儀式をするつもりだ」
 そう言った蒼に彼女は酷薄な表情をした。
 そんな彼女に蒼はにこりと笑う。
「大丈夫、心配しなくとも俺は【花の乙女の香り】に惑わされはしない・・・つもりだ」
 彼女は肩をすくめる。
「つもりね」
 そしてそんな彼女に蒼は笑うのだ。
「ああ、つもりだ」
 そして彼と彼女は握り合った拳と拳とをぶつけ合って、
「じゃあ、行こう」
「ええ」
 いざ、決戦の地へ、運命の戦士たちは進んでいった。


 ******
 ***村。そこは遠き昔にもはや誰もいない。生者は。
 ・・・生者は?
 そう生者は・・・。
 ならば・・・
 ―――そう、死者はいる。いや、そこにいる彼らは自分たちが遠い昔に禁忌を犯した罰で、打ち滅ぼされた事にすらも気が付かずに、今己が魂を苦しめるその痛みから逃れるために数十分前に入り込んできた男を喰らっていたのだが、再び村に侵入してきた蒼と彼女に気が付いた。
 生きながらに肉を食い千切られるその痛みにショック死した男の肉を貪っていたそれらは腐敗臭に塗れた村の空気に新たに混ざったその二人の生の匂いににんまりと笑った。
 生に溢れた生者の肉は何よりも彼らの苦痛を和らげるのだ。
 さあ、行こう。狩りをしに。
 本当に良かった。あの美味そうな女の方を追いかけずに、この男で我慢をしておいて。新たにこの***村に入ってきたのはさきほどの美味そうな女よりも更に美味そうな匂いに満ち溢れている。
 そしてそれらは向う。蒼と彼女を喰らうために。


 ******
「【桜火】一の型 一見炸裂 【桜花爛漫】」
 繰り出される炎の花びら。それはただ一枚でもそれらを一瞬にしてこの世から打ち滅ぼす。
 花びらと共に舞う竜。それが新たに蒼が手に入れた力。【竜術】それはこの世界に満ち溢れる無限の力。その力をほんの少しだけわけてもらった蒼の【桜花爛漫】はもはやそれら如きではどうすることもできぬ技に昇華されていた。それが今の九重蒼だ。
 彼女はそんな彼の傍らでリュートを奏でながら下唇を噛む。以前の蒼ならば・・・彼女でも殺せた。しかし【蓬莱山】にて仙人たちから仙術である【竜術】を与えられた蒼にはもう敵わない。もしも彼が【花の乙女の香り】に惑わされたら・・・そしたら・・・・・
「ちぃぃぃぃ」
 彼女はリュートを奏でる。その音色はこの世の者ではないそれらの魂が奏でる狂った音楽を調律し、成仏させる。
 そんな音色を奏でながらしかし、彼女の心は乱れていた。だから・・・・・
「た、助けて・・・」
 彼女に助けを求める声。
 若い男が彼女に助けを求めた。おそらくは先ほどの車の持ち主だろうと彼女は考えた。彼女はリュートを奏でながらその男を横目で見据えて舌打ちをする。
「ちぃぃ。だけど助けなきゃならないか。ええい、死んでくれていたら面倒臭くなくってよかったのに」
 彼女はリュートを奏でながら彼を守らんとして彼の前に陣取って・・・
 しかし、
「うぐぅ」
 彼女は苦鳴と共に口から鮮血を迸らせた。そして紫暗の瞳を腹部にと向ける。そこには真っ赤な血に染まった手が生えていた。
 ―――背後から貫き手を叩き込まれて、そしてそれは彼女の体を貫いたのだ。
「ちぃぃ」
 彼女は肘打ちをその男の顔に叩き込んだ。ぐしゃりと鼻と顔の骨が砕け散る音がしたのだが、しかしその手は抜けない。だから彼女は自ら前に飛んでその手を抜いてその場に血を吐いてくずおれた。どくどくと流れ出る血の海に沈む彼女。自分はここで死ぬのだろうか?
「きひひひひ。てめえの肉を喰わせろぉーーーー」
 そして顔を陥没させた男が彼女に喰い付こうとして、
「【桜火】一の型 一見炸裂 【桜花爛漫】」
「うぎゃやぁぁっぁぁーーーー」
 男は物欲しそうな目で彼女を見つめながら灰となって消え去った。
 そして蒼は血の湖に沈む彼女を抱き起こした。
「あはは。し、失敗したわ。あたしもまだまだね」
「しゃべらないで」
 蒼は静かに告げて、瞼を閉じると、右手を彼女の腹部に空いた穴に当てて、【竜術】を発動させた。世界に溢れる【精】を体内に取り込み自分の生命エネルギーと練り合わせて、そして彼女の体に送り込んで、彼女の自然治癒力を高めるのだ。
 彼女の顔色が真っ青なのは貧血だけのせいではない。
「や、やめなさい、蒼さん。あなたはこの後に戦わねばならないのよ」
 そうだ。こんな所で彼は無駄に力を使うべきではない。ただでさえ、彼は己が運命の試練とも戦わねばならないのに!!!
「黙って」
 彼女は顔を横に振る。
「黙らない。あたしは別にここで死んでもいい。お願い。あなたは行って。あたしは大丈夫だから。あたしは死なないから。あたしは自分の事は自分でやってみせるから、だからお願い。自分を軽んじる事はしないで。あなたはあなたの戦いのための力を温存しておいて。お願い。あたしを哀れまないで。あたしを心配しないで。あたしを見下さないで。あたしは・・・あたしは、あたしは誰かに気遣われていい人間じゃないの」
 そして彼女はようやく腹部の傷が塞がったというのに、蒼の顔に片手を添えて驚く彼の顔を固定すると、彼の唇に自分の唇を重ね合わせて、そして自分の中に送り込まれた蒼の生命エネルギーをきっちりと蒼の魂に送り込み、そして彼女は・・・
「ほら、行きなさい。【花の乙女】の所へ」
 ふわりと凛と咲く名も無き花のように微笑んで、そして気絶した。
 蒼は彼女をゆっくりと寝かせると、着ていた上着を彼女にかけて、そして唇を拳で拭うと、小さく微笑んだ。
「あんたも不器用な生き方しかできないんだな。本当にお互いさ」
 そして蒼は彼女の周りに結界を張ると、
 自分たちに群がろうとするそれらに向って【桜花爛漫】を放ち、邪悪な波動がする大きな屋敷へと向った。


 ******
 その大きな屋敷はかつては【生娘の館】と呼ばれていた。村人たちが村のために自ら進んで花の肥料となった少女達に敬意を込めてそう名づけたのだ。
 そしてその館の中にある水牢の中には数十年ぶりに【花の乙女】がいた。
「もう直よ。もう直。そう、もうすぐに新月がこの館の上に来る。そうすれば【花の乙女】は咲き、そして種を生む。その種があたしの願いを叶える。叶える、あたしの願いを。あたしの美しい顔が戻ってくる」
 水牢の中で裸のまま水の中にたゆたっている彼女を見ながら【無垢なる混沌の闇】は夢見る乙女のようにうっとりと微笑んでいた。その彼女の耳にしかしその声は届いた。
「ふん、顔は心の鏡。だからあんたの顔なんかどんな事をしようが汚いわ、なんて彼女がここにいたら言うのだろうね」
 そのクールな声に彼女は振り向いた。そしてそこにはいた。九重蒼が。
「おのれ、九重蒼。どこまでも忌々しい【神刀の一族】。あたしの顔に傷をつけただけでなくあたしの願いまでも邪魔しに来たかァ」
 身を前に乗り出させてヒステリックに喚く彼女。
 だが蒼は彼女を見ていない。彼が見ているのは水牢の中の【花の乙女】だ。
「姫」
 蒼は下唇を噛む。
 もう新月が真上に来る。
「させるかよ、俺が」
 蒼は【桜火】を鞘に収めた。絶対無敵の必殺技にまで昇華された居合いの構えだ。蒼はこの勝負を一瞬で決めるらしい。
「生意気な。たかだか人間のガキが」
 【無垢なる混沌の闇】の両手が変質する。布キレで出来上がっていたその両手は硬質化する。その硬度はダイヤモンドと一緒だ。
 そして新月が館の上に来て、
 その新月の明かりは真下の水牢に落ち、
 部屋はその明かりに満ちて、
 それが合図であったかのように、
 蒼と【無垢なる混沌の闇】は同時に床を蹴った。
「【桜火】二の型 一閃炸裂 【破蕾】」
 蒼が発動させる【破蕾】を。
 だが【無垢なる混沌の闇】は笑う。
 鞘から神速のスピードで鞘走らされる【桜火】。だが、その刃は右の手で受け止められて・・・
「甘い」
 蒼はクールに告げた。
 確かに【無垢なる混沌の闇】はその右手で【桜火】を捌いたかのように見えた。だが神速のスピードで【桜火】が抜かれた事によって発動した真空の渦に【無垢なる混沌の闇】は吸い寄せられて、
 しかし・・・
「クソガァーーーー」
 【無垢なる混沌の闇】は左手で蒼の顔に突きを放たんと、
 だが、最初の一刀を捌かれた蒼はその勢いに逆らわずにそのまま剣を構えたままその場で回転し、回転しながらのその威力を刀身に乗せたまま次の一刀を【無垢なる混沌の闇】に叩き込んだ。
「ぐぅぎゃぁぁぁぁああああーーーーー」
 断末魔の声をあげた【無垢なる混沌の闇】は上半身と下半身を切り裂かれ、そしてその上半身はその衝撃に吹っ飛び館の床の上に転がった。それでもそれがまだ動いているのは【桜火】がいかに強力な剣でも【神薙ぎ】の創り上げた【蒼天の剣】には遠く及ばないからか。
 しかし蒼はもはや【無垢なる混沌の闇】など相手にはしていなかった。
 水牢の中の姫はもはや人の姿を保ってはいなかった。彼女は水牢の中を泳いでいる。その姿は人魚と言われるような姿だ。
 そしてその水牢から発せられるのは凄まじい気。
「くぅ」
 蒼はその気に気圧されるように後ずさった。
 だけど・・・
「ちぃぃ。姫」
 蒼は【桜火】を館の床に突き刺し、そして腰のベルトに差した鞘も捨てた。彼は身一つでその気の渦の中へと進んでいく。すべてを拒絶するかのような気の渦の中を。
 そしてそれは【無垢なる混沌の闇】も一緒だった。もはや彼女も蒼など気にしていない。彼女は都市伝説に囁かれる【てけてけ】のように両手を器用に使って、水牢に向う。だけど・・・
「うぎゃぁぁぁーーーー」
 彼女は悲鳴をあげた。蒼よりも先に彼が突ききるのを苦労している気の壁を突破せんとしようとしたのだが、しかしその気の壁に触れた瞬間にその彼女の部分が腐食したのだ。それはなぜ? 蒼は平気なのに。
「あなたって、やっぱり馬鹿ね。【花の乙女】とはあなたとは違って純粋無垢な生娘たちの結晶。故にそれに触れられるのは汚れの無い魂のみ。だからあなたは、その壁を抜けられない」
 肩をすくめる彼女。そして青白い顔にへっと嘲笑う表情を浮かべて、
 徹底的に嘲笑われた【無垢なる混沌の闇】は凄まじい表情を浮かべて両手を使ってリュートを構えた彼女に向かう。そして彼女はリュートを奏で、その戦慄は・・・
「ぎゃぁぁぁぁああーーーー」
 【無垢なる混沌の闇】は消え去った。
 ―――だけど【無垢なる混沌の闇】は想った。この先、あの【神薙ぎ】と【神薙ぎの鞘】との戦いに、そして【顔無し】の闇に巻き込まれるよりもここで死ねる方が・・・
「ああ、あれだけ嫌っていた死に安らぎを覚えるなんて・・・」
 それが【無垢なる混沌の闇】の最後の言葉だった。


 ******
 全身の筋肉が痺れ、骨に亀裂が走り、魂が壊れそうだ。
 そして蒼の中で、誰かの歌声が聴こえる。
 それはとても優しく甘い声。だけど蒼は知っている。その歌声に耳を傾け、心を開いた瞬間に彼は消えてしまう事を。
 蒼はその歌声が優しい分だけ、涙流して幼い子どもかのようにその歌声の人の中で体を丸めて安らかに眠ってしまいたいと心の奥底から願ってしまう分だけ、
 ・・・・・・・・・水牢の中の【花の乙女】を求めてしまう心が強くなった。そう、彼女は蒼に逃げ道を用意してくれるから。
 蒼は両手を差し伸ばして、【花の乙女】に【それ】を願いたいと想ってしまった。
 いや、水牢の前に跪く彼は両手を、水牢の中で水にたゆたいながら優しく微笑む彼女に伸ばし・・・
 そして水牢の中で【花の乙女】は人懐っこく微笑む。彼女が人の姿をしていて、ほんの少し前に蒼が、姫、と呼んでいた時の表情で。


『お兄ちゃん。お姉ちゃん。ありがとう』


 蒼の瞳から涙が溢れた。
 懐かしい記憶。
 何かを感じながらもしかし、己の運命を知らずに三人で楽しく遊んだあの日。
 

 帰りたい・・・・


 何も知らなかったあの日へ。

 【桜火】も【神薙ぎ】も【神刀の一族】も【神薙ぎの鞘】としての運命も、何も知らなかったあの日へ・・・


「帰りたい・・・」


 涙流しながら呟いた蒼。
 その彼に水牢の中の【花の乙女】が優しく告げる。
「それがあなたの望みですか? わたくしはその望みを叶えればいいのですか?」
 そして蒼は泣きながら顔をあげて、母のように優しく微笑む【花の乙女】の顔を見つめた。水牢の不思議な水の壁越しに。
 彼は口を開く。
 ―――頭の中で大切な妹の顔を思い浮かべながら・・・
 今の彼の望みを・・・・


『お兄ちゃん』薄紅の嵐かのような桜の花びらの舞いの中で君が笑っていた・・・。


【ラスト】
「以上が事のあらましと、終わりであり始まりです」
 彼女は告げた。【蓬莱山】の長に。
「ご苦労様です。此度の戦いではあなたも命を落としそうになったそうですが、その後、体はどうですか?」
「お気遣いありがとうございます。あたしは大丈夫です。幸運にもすぐに治療が受けられましたので。皮肉な事です、本当にすべてが」
「そうですか」
 穏やかに微笑んだ長に彼女はあたしもまだまだです、と笑った。
 そして長は訊いた。
「それで九重蒼はどうしてますか?」
 彼女は肩をすくめる。
「はい。今日も姫と妹さんとでデートだそうです。仲良く三人で。本当にじれったいったらありゃしません」
 彼女はため息を吐き、
 長はくすくすと笑った。


 ******
 俺は両手にバニラとイチゴのアイスクリームを持ち、姫は自分のバニラチョコレートのアイスクリームを嬉しそうに舐めながら、日傘を差して公園のベンチに座る妹の方へと歩いていく。そして俺たちに嬉しそうに微笑みながら手を振る彼女。
 そう、すべてを投げ捨てる事はできた。自分の【神薙ぎの鞘】としての運命を。だけど俺がそうしなかったのは彼女がそうやっていつも俺の横で笑ってくれているから。だから俺は何度でも立ち上がり、歩いていけるのだ。運命の茨の道を。
 時折は立ち止まりたくなるけど、それでもその時は彼女も一緒に立ち止まってくれて、そして踏み出す事を恐れる俺の背中をそっと押してくれる・・・
 手を引いてくれる・・・
 微笑んでくれる。
 そう、それだけで俺はどこまでも歩いていけるんだ、この果ての無い運命の道を・・・。
「お兄ちゃーん、ひめぇー」
 包み込んでくれるような心地よい爽やかな風を感じながら俺は彼女に微笑んだ。


 そう、俺は微笑む事が出来るのだ。それが俺の奇跡。最大限の魔法で、そして今が幸せで、俺が俺である証拠。そう、俺は今はそれでいいと想う。



 **ライターより**
 こんにちは、九重蒼さま。
 ライターの草摩一護です。
 今回もご依頼ありがとうございました。

 どうやら無事に蒼さんは【神薙ぎの鞘】としての第一の試練を越えられたようですね。^^
 確かに彼も人間。脆い部分だってそれはあるでしょう。しかし彼には妹さんがいて、そして彼はちゃんとそれを知っていて、弱い自分も知っている。だからこそ、勝てたのでしょうね、第一の試練に。
 そして姫もどうやら今度こそ、ちゃんと幸せになれたようです。よかったよかった。ちなみに姫のおばあちゃんが強奪…もとい、村から救われた【花の乙女】で、姫の母親は姫を産んでしまったので【花の乙女】ではなくなったのです。
 それにしても【無垢なる混沌の闇】の言葉から推測するにこれからの蒼さんの戦いは今以上にひどくなるようです。^^
 それに新たなる【神刀】も登場しました。現時点でこの【蒼天の剣】が最強の剣です。
 これにどう蒼さんと【桜火】が挑むのか期待していてくださいましね。
 

 これはクリショと異界に載せているのですが、もう少しで書かせていただけたノベルの数が100になります。それを記念して企画をしていますので、よろしければチャレンジしてやってくださいね。
 それでは今日はこの辺で失礼させていただきます。
 次回よりは間奏編に突入します。色々と盛りだくさんの蒼さんのシーンをご用意しますので、楽しんでくださいまし。
 失礼します。


PCシチュエーションノベル(シングル) -
草摩一護 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年03月15日

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